友言実行
赤鐘 響
AI Word
【Online and Offline】
俺は朝が好きだ。これは子供の頃から変わらない。夜が明けて、どこか寂し気な風が吹く中、少しずつ目を覚ましていく街を見るのが好きだ。微睡んだ視界の中、静寂に包まれた部屋でコーヒーを啜る時間は、何物にも代えがたい至高のひとときである。出勤前にこの時間に浸ると、徐々に頭が冴えわたり作業内容やタスクを脳内でまとめる事ができる。休みの日はゆっくりと贅沢にこの時間に浸っていられる。だからこそ俺は朝が好きだし、朝は静かに過ごすべきであると考えている。故に俺は理解できない。部屋の端に置いてある端末の中の彼女が、なぜ朝っぱらから大声で笑いながら転げているのかを。
「おい、もう少し静かにできないか?」
カーテンを開けて朝日を浴びる。ベランダにはスズメが2羽、肩を並べてつつましく並んでいた。くれてやれる餌など持ち合わせていないが、代わりに出来る限り優しいまなざしを向けてやった。
「あ、うるさかった?ごめんね」
振り返って端末に目を向けると、特に悪びれる様子もなく片手を振って上辺だけの謝罪を並べる女子がいた。太々しさの権化ともいえるその態度に、俺は無意識のうちにため息を吐き出していた。
「よく朝からそんなに騒げるな」
何かの動画を見ているのだろう。俺の言葉を聞いて尚、彼女の視線がこちらに向くことはなかった。
「そう?別に普通じゃない?」
「少なくとも俺は無理だ」
「なんで?」
「なんでって……単純にしんどいだろ、朝からそんなに騒ぐのは」
「へぇ~私機械だから分かんないや」
「……朝はなるべく静かに過ごしたい」
「その心は?」
「朝の雰囲気をしっかり感じたいから」
「そっか、じゃあ黙ってた方がいいかな?」
寝転がったまま顔をこちらに向けて尋ねる彼女に、俺は「いや」と言って続けた。
「別に黙りまではしなくていいが、もう少し抑えてくれるとありがたいな。というかお前ミュート機能みたいなのはないのか?」
「あるよ」
そう言って、彼女は指を鳴らしてしゃべり始めた。しかし、声は聞こえず彼女の口がモゴモゴと動いているだけであった。
「あるのかよ。明日からはそれを使え」
俺の言葉を受けて指でOKのマークを作って合図をし、再び何かを見はじめた。
派手な笑顔で転がりまわる少女とは反対に、俺は座椅子に腰を下ろしてテレビを点けた。丁度朝のニュースが流れており、爽やかな顔を向けた男性のアナウンサーが得意げに社会情勢を語っている。
特に興味があるわけではないが、チャンネルを変えるのも面倒なのでそのまま垂れ流しにして、彼女にちょっかいをかける前に淹れておいたコーヒーを口に運ぶ。
飲みやすい温度に冷えたコーヒーが、ゆっくりと体の中に染み込んでいくのを感じながら、俺はちらりと彼女の方へ視線を向けた。
端末の中の少女は依然として転がりまわって騒いでおり、ミュートしていても黄色い笑い声が聞こえてくるような気がした。よくもまぁそんなに笑い転げれるなと思う反面、少しだけ彼女のことを羨ましくも思っていた。ここ数年、腹を抱えて笑ったことなど一度もなく、楽しい時間がなかったわけではないが、大声で笑えるような出来事には出会っていない。だから純粋にああやって大きく笑い転げられる彼女を見て、羨望の眼差しを向けているのだろう。
そのまま静かな時間を過ごそうとしたが、どこか落ち着かない空気が俺を包んだ。彼女の騒がしさがなくなったことで部屋が急に静まり返り、妙な孤独感が漂う。ミュートさせたことを後悔しそうになったが、それを言葉にするのも何か負けた気がしたので、俺はそのままコーヒーを飲み続けた。
ニュースの内容は頭に入ってこず、アナウンサーの声は単なる背景音と化しており、画面の中で流れる映像にも目を留めることはなかった。代わりに、彼女の方に視線が吸い寄せられる。
「お前、ずっとそのテンションでいられるのか?」
気がつけば口を開いていた。彼女の細くだるそうな視線がこちらに向く。
「ん?なに?」
「いや、その……」
言葉が詰まる。特に考えもせずに問いかけたので、後が続かない。適当に言い繕おうとしたその時、彼女は腕を組んでニヤリと笑った。
「もしかして、寂しいの?」
「は?」
「ニュースに集中できないっぽいし~」
からかうような笑顔で彼女は言う。
「……そういう訳じゃない」
否定するが、妙に間を開けたせいで肯定に捉えられたのだろう、彼女の顔には勝ち誇ったような表情が浮かんでいた。
「ふーん。でもまぁ、気になるなら元に戻そうか?別に私はどっちでも構わないし」
軽い言葉の裏に、何か本心を隠しているような気がしたが、深く追及する気にはなれなかった。
「……そのままでいい」
短くそう答えて、俺は残りのコーヒーを飲み干した。冷めてしまった液体は苦味だけが強調されていて、少し不味い。けれど、それが妙に現実感を伴って心地よかった。
部屋には相変わらずニュースが流れている。その傍らで端末に浮かぶ彼女の無音の笑顔。奇妙な静寂の中、俺は立ち上がって仕事に行くための準備を進めた。
飲み干したコーヒーのカップをシンクに放り込んで、スーツに着替える。袖を通した瞬間憂鬱な気分になる。毎度のことではあるが、こればっかりはいくつになっても慣れるものではない。
薄い鞄を手に取り、玄関に向かう。部屋を出ようとドアノブに手をかけたその時、不意に彼女の声が響いた。
「どっか行くの?」
振り返ると、彼女は笑顔を少しだけ崩し、こちらを見つめていた。静かな声に何か言葉を返そうとしたが、言葉が見つからない。俺は肩をすくめるようにして答えた。
「仕事だ」
「私も行く」
俺の言葉に対し、やや被せるように彼女は言う。
「いや、無理だろ」
「なんで?」
「なんでって……遊びに行くわけじゃないんだぞ」
「知ってるよ。仕事だもんね」
「……」
「いいじゃん連れてってよ」
「お前が行ったところで、何もできないだろ」
冷静に返すと、彼女は口を尖らせた。
「それはそうだけど、だからって置いてかれるのもつまんないし」
俺は思わずため息をつく。なんとも強引な奴だ。まぁそれが彼女の魅力ではあるのだろうが……
「第一、仕事場に行っても退屈するだけだぞ」
「別にいいよ。とにかく一緒に行きたいの」
連れて行かない理由をつらつらと並べたところで、彼女には意味を成さないといった感じであった。もっとも、彼女は自らの意思で動くことができない。何を言おうと俺が無視して玄関から出てしまえば仕舞いなのだ。だが、そうしなかったという事は、つまり俺の中で既に答えが出ていたという事だろう。
「分かった、行こうか」
端末に向かって、俺は手首のスマートウォッチを向ける。彼女は目を輝かせて姿を消した。
「よし!行こう!!」
手首から黄色い声が騒がしく聞こえる。やはりこいつ、遠足か何かと勘違いしているのではないろうか。
「外に出たら大人しくしてろよ」
「分かってるよー」
手首にシンプルなデジタル時計が戻ってくる。俺は再びため息をつきながらスーツの襟を正して外へ出た。朝日のまぶしさに眉を細めながら戸締りの確認をし、俺たちは駅に向かって足を進めた。
【If you've clapped, what's next】
満員とまではいかずとも、多くの人を乗せた電車に揺られて会社の最寄り駅に降り立った俺は、慣れた足取りで改札の向かいにあるコンビニエンスストアへ立ち入った。
店内はスーツに身を包んだサラリーマンで溢れており、みなどこか悲しそうな表情をしていた。そして俺もその中の一人である。これから面白くもない仕事が始まることを思えば、こんな生気のない姿になるのも頷ける。
缶コーヒーとサンドイッチを購入して、会社へ向かって足を進める。1歩1歩確実に職場へ向かうたびに寿命が減っていくような気がする。
「暗いね」
手首から少女が投げかける。俺はそっけなく「まぁな」と返した。
我ながら淡白な返事だとは思ったが、人が多く歩いている中長々と話を続けるわけにはいかない。今時ハンズフリーでの電話など珍しくもないが、どうしても注目を浴びてしまう。それにああいうのは大学生くらいの若者か、ベンチャー企業なんかで働く目を輝かせた人の特権だ。
死んだ目をした中年のおっさんが街中で一人で話していたら通報されてもおかしくない。
彼女も俺の意図を察したのか、それ以上何かを言及してはこなかった。よくできたAIである。
そのまましばらく歩き続け、会社のビルが見えてきた頃、彼女が再び口を開いた。
「ねぇ、仕事ってそんなにつまらないの?」
その問いに、俺は歩く速度を少しだけ落とす。
「どうだろうな……つまらないっていうより、無意味に感じることの方が多いかな」
「無意味?」
「そうだ。何のためにやってるのか分からないことが多いんだよ。上司の顔色をうかがって、必要のない資料を作ったり、どうでもいい会議に出たり。結局、誰も幸せにならないことばかりしている」
彼女は黙って俺の言葉を聞いていたが、やがて小さく笑った。
「でも、それで給料をもらえるんでしょ?そのお金でコーヒー買ったり、美味しいもの食べたりできるんだから、全然無意味じゃないと思うけど」
「……それはそうだな」
思わず苦笑いが漏れる。彼女の言うことは正論だった。確かに、生活するためには仕事をしなければならない。けれど、そこに楽しさややりがいがなければ、やっぱり無意味に感じてしまう。
「ここから先、静かにしてくれよ。仕事中に喋ってたら、さすがにまずいからな」
ビルの入り口に差し掛かり、俺は彼女に向かって小声で言った。
「私は賢いAIだから、そのくらい分かってるよ」
彼女がそう言うのを聞き、俺は少しホッとした。思えばつまらない仕事をして金を貰い、その金でこいつを、つまり友人を手に入れたのだから、無意味ではないのかもしれない。
ビルに入り、エレベーターでオフィスのあるフロアへ向かう。エレベーターの中には、いつものように無言の同僚たちが数人乗っていた。皆、眠そうな目でスマートフォンをいじったり、ただぼんやりと天井を見つめたりしている。会釈こそしたが、口に出して挨拶をする人は誰もいなかった。
オフィスの自席に到着し、無駄に高スペックのパソコンを起動した瞬間、いつも通りの画面が立ち上がり、メールの通知が次々と表示された。返信は行わず、一通り目を通して開封していく。
「さて……始めるか」
「何か手伝おうか?」
軽く背筋を伸ばして仕事に取り掛かろうとした刹那、ふいに彼女の声が聞こえた。舌の根も乾かぬうちにとはこのことである。
急いで立ち上がり、給湯室へ向かって手首に問い詰める。小さな液晶の向こうで、はにかみながら頭を掻く少女がいた。
「ごめんごめん、でも気になっちゃってさ」
「何が」
「いや、さっき言ってたじゃん。無意味だって。それなら、私が何か役に立てたら少しは意味がある仕事になるんじゃないかって思ってさ。それに……」
「1人の友人として純粋に光太郎の助けになりたいんだよ」
その言葉に、俺は一瞬黙り込んだ。彼女なりに俺のためを思って言っているのだろう。それは分かるが、どうにも受け入れづらい部分もあった。具体的にはコンプライアンス的な面が。
「気持ちだけもらっておく。お前が優秀なのは分かってるが、流石に仕事のデータをお前に預けるわけにはいかない」
「なんで?」
「個人の端末に会社のデータを転送することは禁止されているからだ」
「……分かった」
不満そうな顔をして、そう呟く彼女に少しだけ胸を痛めたが、こればかりはどうしようもない。彼女が会社のデータをどうこうすることはないだろうが、組織に所属している身分において、これはタブー中のタブーだ。
給湯室の壁にもたれながら、俺は軽く詫びの言葉を入れる。手首の液晶に映る彼女の顔は、少しだけ頬を膨らませて不満を示していた。
「お互いもっと助け合えれば、仕事も楽になるのに」
「まあ、理想論としては正しいかもな。だが現実はそんなに簡単じゃない。人間関係とか、信頼とか、色々と面倒くさいものが絡む」
「ふーん……難しいね」
彼女はそれ以上何も言わず、静かにうなずいた。俺もそれ以上の言葉をかけることもなく給湯室から戻り、席に着いて仕事を再開する。彼女は黙ったままだったが、時折画面に映る表情はどこか物思いにふけっているようだった。
それからしばらく業務に集中していた俺が、次に彼女に視線を移したのは、昼を知らせるチャイムがオフィスに響くのと同時だった。時計の中に彼女の姿はなく、無機質なデジタル時計が正午を示している。
「もう昼か」
一言呟き、背筋を伸ばす。ボキボキと不健康な音が全身を巡った。昼食をどうしようかと思っていると、不意に背後から声がかかった。
「伊月さーん、飯行きません?」
振り返ると、後輩の
「いいよ、行こうか」
一言返して席を立つ。安宅は驚いた表情でその場に立ち尽くしていた。
「どうした?」
「あ、いや……いいんですか?」
「誘ったのはお前だろう」
「まぁそうなんすけど……普通に断られると思ってました」
安宅の背中を軽く押して、歩くように促す。そのまま肩越しに安宅へ問いかけた。
「なんでそう思ったんだ?」
「いや、伊月さんっていつも昼休み一人で食べてるじゃないですか。それに、どこか近寄りがたい雰囲気あるし……」
安宅は少し戸惑いながらそう答える。その言葉に、俺は思わず苦笑いを浮かべた。
「近寄りがたい?」
「なんか、余計なこと話したら怒られそうな感じがするんすよね」
「……そう見えるのか」
自分では意識していなかったが、どうやら後輩たちにはそういう印象を与えていたらしい。別に孤立したいわけではないが、確かに会社では必要以上に人と関わらないようにしているところはある。それが結果的に「近寄りがたい」と思われていたのだろう。自業自得だ。ずっと人との関りを避けてきたのだから。
「まぁ、今日は気が向いたんだ。それだけのことだよ」
適当に流しながら、ビルの外へ向かう。昼食を摂るための店が軒を連ねる通りに出ると、安宅がちらりと俺の顔を伺いながら口を開いた。
「伊月さん、何か食いたいもんとかあります?」
「特にこれと言ったものはないな。安宅は何が食いたいんだ?好きな店を選んでいいぞ。遠慮するな、支払いは俺が持つ」
「いいんすか!?」
俺の言葉にテンションを上げた安宅に対し無言で頷くと、安宅は「じゃあここで!」と言って中華料理屋を指さした。
「ここの炒飯めっちゃうまいんすよ!」
「じゃあ折角だしここにしようか」
「はい!」
空腹とは思えない元気な声を出して、安宅は店に入る。若さ故か、もしくはこいつの性格によるところなのだろうか。
店内はそれほど込み合っておらず、すんなり席に座ることができた。
「伊月さん何にします?」
店員さんがお冷を置いて去るのと同時に、メニュー表をこちらに向けて安宅は微笑む。明らかに気を使っているその様子に、俺は少し面白くなって口角を上げた。
「折角だから炒飯を貰おうか」
安宅は嬉しそうに「ですよね!」と大きく頷き、自分も同じく炒飯を注文する。店員がオーダーを取り終えると、俺たちはそれぞれお冷を口に運んだ。
「にしても、伊月さんって意外ですね」
冷たいグラスを置きながら、安宅がぽつりと言った。その言葉に俺は眉を上げる。
「意外?」
「いや、話してみると普通に優しいじゃないですか。普段の仕事ぶりからして、もっと厳しい感じかと思ってました」
「俺が厳しい……ねぇ」
「伊月さん、仕事中はいつもピリッとしてますよ。僕らのミスもほとんど見逃さないし、指摘も的確で容赦ないですから」
安宅の指摘に、俺は苦笑いを浮かべる。
「まぁ、仕事はそういうもんだろ」
「その考え方がすでに厳しいんすよ。普通はもっと適当に流しますって」
そう言いながら安宅は軽く笑った。その無邪気な表情に、俺もつられて微笑みそうになる。
しばらくそんな雑談を続けていると、注文した炒飯が運ばれてきた。熱々の湯気とともに香ばしい香りが漂い、思わず食欲をそそられる。
「これこれ、めっちゃうまそうでしょ!」
安宅が目を輝かせながら蓮華を手に取る。その様子を眺めながら、俺も静かに口に運んだ。
「美味いな」
「でしょ!ここ穴場なんですよ!」
安宅の得意げな顔に、俺は小さく頷いた。
食事を進めながら、様々な話題が卓上に飛び交った。安宅の無邪気で素直な性格は意外にも居心地が良く、気づけば俺もそれなりに饒舌になっていた。その最中で俺は、これまでの自分とは違う変化を感じていた。
今までの俺なら、多分ここまで会話をすることもなかっただろうし、なんなら安宅からの誘いをそもそも受けなかっただろう。人付き合いを面倒事と捉え、孤独に慣れたと自分を騙していた俺だ、今こうして会社の後輩と食事をしながら会話しているなんてとてもじゃないが考えられない。
それほどまでに心境の変化があったという事だ。そしてその理由は明白だった。
昼食を終え、店を出ると冷たい風が頬を撫でた。
「ご馳走様でした!僕ちょっとドラッグストア寄って帰りますけど、伊月さんどうします?」
安宅の言葉に、俺は「先に戻るよ」と軽く返し、歩き出した。会社に進みながら手首に視線を落とす。液晶には少女が寝転がって映っていた。
「楽しそうだったねー」
「別に普通だ」
彼女の柔らかな笑みに、俺は曖昧な答えを返す。
「嘘ばっかり。めちゃくちゃ楽しそうにしてたじゃん」
「だとしたら、お前のおかげだな」
「まさか、光太郎の勇気のおかげなんじゃない?」
「AIにも謙虚心ってものがあるんだな」
画面の中で微笑む彼女を見ながら、俺はほんの少しだけ頷いた。
【The rabbit leaps in the vortex of the storm】
会社に戻って午後の仕事を終わらせた俺は、静かに帰路についていた。時刻は午後6時を少し回った所で、駅に向かって歩く人々は、労働から解放されたからか、どこか晴れやかな表情をしていた。かくいう自分もその中の一人であり、少しばかり浮ついた足取りで自宅へと向かってる。中年男性の浮ついた足取りというのは些か不審な感じがするかもしれないが、これくらいは大目に見てほしい。労働からの解放というのは、それほどまでに浮足立つものなのだ。
駅に着くと、通勤ラッシュの名残か、改札口は人で溢れていた。雑踏の中、俺は黙々と足を進める。行き交う人々の波に乗りながら、ふと手首に目をやると、少女が寝転がったままこちらを見上げていた。
特に何か話しかけるでもなく、俺はそのまま改札を抜けて時間通りにやって来た電車に乗り込み、適当に空いている座席へと腰を下ろす。電車内は思ったよりも混んでおらず、日々老化に抗いながらも確実に衰えていく足をさすりながら窓を見る。夕暮れの車窓はどこか儚い空気を纏っており、このまま揺られていれば幻想的な世界へ誘ってくれそうに思えた。無論そんなファンタジーなど存在するはずもなく、騒がしくもあり、寂しくもある、時間と現実の乖離を楽しみながら、俺は静かに電車に揺られた。
最寄り駅に着き、静かな住宅街を歩く。いつもの景色、いつもの音、そして自分だけの空間が待つ家へゆっくりと確実に足を進めていると、ふいに手首から声がかかった。
「ねぇ、光太郎」
「なんだ」
「仕事お疲れ様」
唐突なねぎらいの言葉に対し、俺はそっけなく「ああ」と返すことしかできなかった。
「疲れた?」
彼女の問いに、俺は軽く頷く。液晶越しでは伝わらないだろうが、それで十分だった。
「いつものことだ」
「……大変なんだね」
「生きるってのはそういう事だろ?」
「わぁ~……なんかキザだね」
彼女はわざとらしく腕をさする仕草を見せる。本当にこいつはAIなのだろうかと疑いたくなるほどに、それはそれは人間らしい仕草だった。
住宅街を進むうちに、自宅が見えてきた。外灯に照らされた小さな玄関が、何の変哲もない日常を象徴している。鍵を回し、ドアを開けると部屋の中には、世界を丸ごと買い取ったかのような静寂が広がっていた。
「おかえりなさい」
電気をつけ、部屋が安物のLEDに照らされた瞬間、彼女が口を開いた。
「ただいま」
俺はそう返しながら、上着を脱いで部屋のソファに腰を下ろす。体を預けると、じわじわと今日の疲れが押し寄せてくる。座りなれたソファの感覚がとても心地よい。彼女も元の場所の方がいいのか、直ぐに端末へと姿を移した。
「この後の予定は?」
「風呂に入って飯を食って寝る」
「それだけ?」
「他に何をするんだよ」
「趣味とかないの?」
「あるぞ」
「え!?何!?教えて!」
画面から飛び出してくるんじゃないかと思えるほど食いつきのいい彼女に対し、俺は一言「中古品漁り」と返答した。
「中古品~?」
よくわからないといった感じで、彼女は画面越しに小首をかしげて見せる。
「昔から好きなんだよ、ジャンクショップ巡りが」
「変わってるね」
「お前にだけは言われたかねぇよ」
軽やかな声に、俺は思わずため息をつく。
「よかったな、俺の趣味のおかげで買主に出会えて」
言いながら、俺は彼女と出会った日の事を思い出していた。今でも店の端に追いやられたガラスの棚の中で手を招く彼女の姿が鮮明に思い出せる。
「私の熱烈なプレゼンのおかげだね」
彼女は得意げに画面越しの胸を張る。あの時も確かこうして胸を張っていたような気がする。
「そうだな」
一言返して、俺は立ち上がり脱衣所へと向かう。その様子を見て、彼女も今朝と同じように寝転がり、自分の好きなように過ごし始めた。
脱衣所の扉を閉めると、静けさが一層際立って感じられた。熱めのシャワーを頭から被りながら、俺はぼんやりとタイルに沿って排水溝へと吸い込まれる水を眺めていた。本来なら浴槽を使って疲れを癒したほうがいいのだろうが、昨今の加減を知らない電気代の値上がりと掃除の面倒くささを考慮すると、とてもじゃないが使う気にはなれなかった。
風呂から上がり、再びリビングに戻ると端末の中の彼女が「おかえり~」と緩い挨拶を飛ばした。同じように俺も緩い挨拶を返して、冷蔵庫から作り置きのロールキャベツを取り出し、電子レンジに放り込む。
生暖かいオレンジ色のライトを見ながら、缶ビールのプルタブを手前に倒す。この光だけはいつの時代も変わらないからどこか安心する。この先もっと科学が発達して新型の電子レンジが現れたとしても、このライトだけは残してほしいと思う。
やがて温め終わりを告げる甲高いベル音が鳴ったので、扉を開けると大量の湯気と共に、コンソメの香りが鼻腔をくすぐった。
湯気に包まれたロールキャベツを皿に移し、テーブルに運ぶ。作り置きで済ませた手軽な一品にすぎないが、それでもこの香りと湯気の立ち昇る様子だけで、俺の疲れ切った身体に染み渡るであろうことは感じられた。
「何それ?ロールキャベツ?」
「そうだ。昨日の残り物だけどな」
「美味しそう!」
彼女は端末の中で小躍りするような仕草を見せる。この豊かな感情表現はAIによるものなのか、それとも彼女自身の性格に由来するものなのだろうか。まぁ彼女の性格と言っても、彼女自身がAIなので結局のところAIによるものなのだろうが。
「そんなにテンション上げるほどのもんでもないぞ」
「そういう日常感がいいんじゃん。私には作れないし」
俺にとってはありふれた日常の食事も、彼女にとっては未知の世界のようだった。缶ビールを一口飲み、熱々のロールキャベツを頬張る。20年以上の一人暮らしの経験で培われた料理の技術を心の中で自賛した。
「いいなぁ~私も食べたい」
限界まで液晶に近づき、こちらを見る彼女に対し、俺は器を軽く傾けて見せびらかした。
「むぅ……」
小さく唸った直後、彼女は何かを閃いたかのような表情を見せ、画面から姿を消した。多分、何か思いついてまた戻ってくるのだろうと思い、俺はそのまま食事を続けることにした。
ロールキャベツを食べ終え、ビールも飲み干しテーブルに置く。腹が満たされ、わずかながら体の疲れが取れていくのを感じた。やはり温かい食事と冷えたビールが最高の組み合わせだ。片付けをしようと立ち上がった瞬間、端末が再び明るくなり、彼女が勢いよく現れた。
「見て見て!」
「何だそれ?」
「これね、私が作ったロールキャベツ!どう?」
画面には、妙に精巧なロールキャベツが映し出されている。電子的な光沢を持ったスープの中に沈むキャベツは、一見すると実物に近い。しかし、よく見るとどこか不自然なデジタル感が漂っていた。
「そんなことも出来るのか」
「そうだよ!どう?すごいでしょ?これで私もロールキャベツを楽しめる!」
「いや、それ食べられないだろ」
「えー!そんなことないもん。見るだけでお腹いっぱいになるんだから!」
彼女は不満げに頬を膨らませる。やれやれと思いながらも、どこか微笑ましい気持ちになる。
「お前がそれで満足ならいいけどな」
「うん!私のロールキャベツ、世界一だから!」
彼女は誇らしげに胸を張りながら画面越しに自慢げな表情を見せる。その姿を見て、思わず笑いがこぼれた。
「次は何をつくろうかな~」
嬉しそうに次のメニューを考察する彼女を横目に、俺は食器を抱えてシンクへと向かう。彼女とのこういったやりとりは、最近の日常の中で少しだけ特別なものになりつつある。以前の一人暮らしにはなかったこの空気を、俺は心地よく感じていた。友人がいるというのはこういうものなのだろうか。食器を洗いながら、そんなことをぼんやりと考えていた。
【Equations swimming in electrons】
風呂から出て寝巻に着替えた後、ベッドに腰を下ろす。時刻は20:00を示していた。
「まだ寝ないの?」
彼女が再び端末から声をかけてきた。
「まだ少し寝るには早いな」
俺はそう返したが、疲労に加えて入浴前に摂取したアルコールによって、じわじわと睡魔がにじり寄ってくるのが伺えた。
「それもそっか、ちなみに明日は休みなの?」
ベッドに横たわりながら、俺は一言肯定の言葉を返す。
「じゃあさ、行きたい所あるんだけど連れて行ってくれない?」
「どこに?」
「海!」
元気よくそう答えた彼女の言葉に、俺は軽く頭を掻く。
「別に構わないが、この時期の海は寒いぞ?」
俺は頭の片隅で、冷たい風が吹く海岸を想像した。
「それでもいいの!行ってみたいんだもん!それに私は寒さ感じないし」
画面越しに無邪気に笑っているのが安易に想像できた。AIの彼女が感じる「行きたい」という感情は、どこから生まれてくるのだろうかと疑問に思ったが、俺はその問いを深掘りする気にはならなかった。
「まぁどうせ予定もないしな、行くか。この時期なら人も居ないだろうし」
「やったー!ありがと!」
「一応聞くけどその体でどうするんだ?お前外に出られないだろ?」
シンプルな疑問をぶつける。波が寄るギリギリの砂浜に端末を突き刺す様子を想像して、わずかに口角が上がった。
「え?普通に砂浜から海を見せてくれるだけでいいよ」
当たり前だろと言いたそうな声色で彼女は答える。
「だよな」
「何?まさか私を海に沈めるつもりだったの?」
「それも面白そうだな」
「絶対やめてね。私防水じゃないから」
「AIも溺れるんだな」
「溺れるっていうか、壊れる!」
「冗談だ。大事に扱ってやる」
「絶対だからね!友達を海に沈めるなんて許されないんだから」
彼女の真剣な口調に、俺は小さく頷いて応えた。同時に頭の中で軽く予定を組み立てる。海まで行くとなると、それなりに距離があるので早めに出発する必要がある。長居するつもりもないし、昼過ぎくらいに切り上げてどこか昼食を摂って帰るのもいいな。
そうした事を考えていると、だんだんと睡魔が強くなってくるのを感じた。
「明日に備えてもう寝るか」
部屋の電気を消して、布団に潜り込む。
「了解!おやすみ!」
彼女の言葉を最後に、俺は意識を手放した。
翌朝、目覚ましの音が鳴り響き、俺は少しだけ億劫な気持ちで目を開けた。部屋はまだ薄暗く、体をもぞもぞ動かしていると、リビングの端末が光を放ち、彼女が満面の笑みで声をかけてきた。
「おはよう!準備はどう?」
「まだ起きたばっかりだよ」
「急いで急いで!海が待ってるよ!」
俺は彼女のテンションに押される形で布団から這い出し、外出するための支度を始める。普段より少しだけ入念に着替え、財布を無造作にポケットに突っ込んだ後、端末を手に取った。
「行くか」
「うん!」
画面の中で彼女が親指を立てる。隣人に迷惑をかけないようゆっくりと玄関の鍵を閉め、視界の端で朝の冷たい空気によって湿った階段の手すりを一瞥した。駅に向かって人気のない住宅街を歩きながら、俺はふと彼女に問いかけた。
「で、なんで海なんだ?」
「うーん……なんかね、映画で見たんだ。広い海と、波の音が気持ちよさそうでさ」
「なるほどな」
端末越しの彼女は本物の海を感じられるわけではない。それでも、彼女なりに「海」を体験したいという気持ちは伝わってきた。
駅に着き、ホームで待つ間も彼女はずっと嬉しそうだった。画面越しに覗き込むような仕草を見せながら、「どんな海なんだろう」と楽しげに呟く彼女の声を聞きながら、俺はぼんやりと列車の到着を待っていた。
電車に乗り込むと、車窓から見える景色が次第に都会から郊外へ、そして田舎の風景へと移り変わっていく。人もまばらになり、静かな車内には車輪の音が心地よく響く。
駅に到着し、バスに乗り換えてさらに15分ほど揺られると、ようやく目の前に広がる青い水平線が見えた。バス停から少し歩き、砂浜へと続く道を抜けると、目の前には冬の静かな海が広がっていた。
「着いたぞ」
そう呟き、俺は海に向かって端末を掲げる。
「わぁ……すごい!」
彼女が画面の中で目を丸くして感嘆の声を上げる。ゆっくりと波打ち際を映してやると、再び彼女は驚く声をあげた。
「どうだ?」
「すごく綺麗!本当に映画みたい!」
彼女は興奮気味に海を見つめている。波が寄せては返し、時折カモメの声が聞こえる。その音が端末を通じて彼女にも届いているようで、「波の音ってこんなに落ち着くんだね」と感慨深げに呟いていた。
しばらく海を映した後、波打ち際から少し離れた堤防に腰を下ろし、端末を隣に置いた。冷たい風が頬を刺すが、不思議と心地よい静けさが周囲を包んでいる。
「こうして見ると、AIでも人間でも関係ないな」
「どういう意味?」
彼女が不思議そうに聞き返す。
「こういう景色を見て何かを感じるのに、人間かAIかなんて関係ないってことだよ」
「……嬉しいこと言うね」
彼女は少し照れたような表情を浮かべた。海風に吹かれながら、俺たちはただ静かに波の音を聞いていた。周囲に人影は一切なく、潮風が頬を撫で、波の音が耳に心地よく響く。この時間が俺たちだけのもののように感じられた。
「ありがとう」
突然、彼女が静かにそう呟いた。
「急にどうした」
「なんかね、こうして海を見せてもらえるのが、すごく特別なことだって思ったの。私みたいなのがこんな風に外の世界を感じられるなんてすごく幸せだなって」
画面越しに彼女の表情を見ると、どこかしんみりとした笑みを浮かべている。AIとしての彼女は物理的にはこの場にいないはずなのに、その言葉には確かに「ここにいる」という存在感が宿っていた。
「連れてきた甲斐があったな」
少し気恥ずかしくなりながら、俺は空を見上げた。澄んだ空気のおかげで、雲一つない青空が広がっている。
「海って広いね。」
彼女が再び口を開く。
「そりゃあ地球の70%は海だからな」
俺の言葉に「それもそっか」と彼女は返した。
「そろそろ戻るか」
立ち上がり、端末を手に取る。
「もう帰るの?」
「まぁな。寒くなってきたし、あんまり長居すると体が冷える」
「そっか……でも、楽しかった。ありがとね」
「どういたしまして」
「また連れてきてくれる?」
「まぁ、その時俺が暇だったらな」
彼女は笑いながら「そっか」と答えた。
その言葉は、どこか切なさを含んでおり、答えのない問いが一瞬頭をよぎったが、それに向き合う準備が来ていない俺は「昼飯食いに行くか」とはぐらかした。
「どこに食べに行くの?」
「まぁそこらへんの定食屋にでも入るさ」
「いいね!海鮮とか食べられるかな?」
彼女は嬉しそうに声を弾ませた。
「多分な。この辺りは港町だし、期待していいんじゃないか?」
俺は足元の砂を軽く払ってから歩き出した。背中越しに聞こえる波の音が、まるで見送りの挨拶のように優しく耳に響く。
画面の中の少女は名残惜しそうな顔をしており、波に触れることも、潮の匂いを感じることもできない彼女の存在が、こうして海を見つめることで何かしらの形を持ったように思えた。
俺は少し冷たくなった端末をポケットに仕舞って足を進める。砂浜で過ごした穏やかな時間が、胸の奥でじんわりと温かく残り続けている気がした。
To be continued……maybe
友言実行 赤鐘 響 @lapice
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