Deep Sheep Sleep
下海篤
Deep Sheep Sleep
深夜、私こと高橋琴音は自宅に疲れていた。
「今日は終電に間に合ったな。」
上司に押し付けられた仕事を終わらせ、満員電車を耐え、やっとの思いで自宅にたどり着いた私を迎えるのは、積み重なった洗い物、床に散らかるゴミだった。
片付けなければいけないのはわかっている。しかし、時間も、体力も、そして気力さえもない。子供の頃は優美な大人に憧れていた。けれど、いざ大人になってみると心はあの頃と何ら変わりない。違うのは、全部自分でやらなければいけないということだ。
「大人になるって何だろう。」
咄嗟に自分の口からこぼれていた。その言葉の後自然に目を向けたのは、子供のころ両親から買ってもらった、羊のキーホルダーだった。もう何十年の付き合いなのでボロボロになっているが、数少ない自分の思い出なので捨てられずにいた。一瞬ぼんやりと自分の過去について考えた後、私はその考えを振り払い、ベットに向かう。日々の疲れがたまっているからか、今日は糸が切れた人形のように意識が沈んでいった。
――騒がしい。
うっすらと目を開くと私は知らない場所にいた。見渡すと、一面真っ白な空間で、壁、天井がなく果てしなく続いてるように思える。しかし、その不気味な空間の中心には黒いグランドピアノが置かれていた。奇妙なことに、そのピアノを正体不明の黒い人影が弾いている。その影の指から紡がれるのは、――「革命のエチュード」私が一番愛した曲だった。
「私なんかよりもずっと……。」
人影が奏でる音は驚くほど滑らかで、迷いがない。一音一音が私の心に響く。これが私に無かった「本物の才能」なのだろうか。この異様な状況に対する恐怖と完璧な演奏に対する驚きが混ざり合い、私は釘を打たれたかのようにその場から動けないでいた。
演奏が続くと白い空間が少しずつ暗く染まってきていることに気づいた。気が付くと、無数の人影が現れ、私を囲んでいる。彼らには顔が存在しないのに、刃物を指すような冷たい視線を浴びせてくるのだ。
突然、ピアノの音が途切れた。見渡すと、人影たちは光を反射する何か――刃物を持っていた。人影たちは音を立てずにゆっくりと私に近づいてきている。
逃げなければ。――けれど、周りは囲まれているのにいったいどうやって?そもそもこの空間に出口は有るの?いったいどこへ?自問自答をするたびに心臓の鼓動が早まる。琴音は動けなかった。恐怖で足がすくむ。影が近づくのを感じる。冷汗が止まらない。息をするのすら苦しい。
「もう、どうでもいいや。」
諦めて死を受け入れる。それが私の最終的な答えだった。そもそも、このまま生きていたってなにもいいことは無かっただろうし、なにより、諦めることにはもう慣れっこだった。
私の目の前についた影が刃物を私に向かって振りかざした。
――その時。
暗闇を割くように眩しい光が差し込んだ。眩しい光に目を向けると、空間にひびが入っており、それはまるで夜明けのようだった。光の中から、一人の少年が天使のように舞い降りてきている。少年はタキシードを着ていて、羊のような角が生えている不思議な姿をしていた。彼の瞳は慈愛に満ちており、私をまっすぐ見つめている。
「伏せて!」
静寂な空間を破るように少年の声が響く。私は言われるがままに体を伏せた。少年は、斧をどこからか取り出し、空中から影に向かって振り下ろした。衝撃波が影を吹き飛ばす。少年は手を止めずに、影に斧を振り続ける。少年が斧を振るたび、影は霧のように消え去っていき、ついには影はすべていなくなった。
「危ないところだったね。けがはない?」
優しい少年の声は、私の心を和らげていく。
「あ……ありがとう。あなたは?」
「僕の名前はシープ。君を悪夢から助けに来たんだ。」
シープ、それは私が羊のキーホルダーにつけた名前と一致していた。
「悪夢ってのは、さっき琴音を襲ってたやつらのこと。琴音の過去のトラウマや未練が具現化したものだね。」
シープと名乗った少年が指をさす。その方向を見ると、暗闇から影がまた現れていた。
シープは私に微笑みながら続ける。
「僕はあいつらを一時的にしか奴らを追い払えない。奴らを本当に倒すには、琴音自身が自分の過去に向き合う必要があるんだ。だから……」
シープは片手を軽く上げ、指をパチンと鳴らす。すると、暗闇が薄れ、ある情景が浮かび上がってくる。
「これは……」
私の目の前に広がる情景とは、幼い時、親に連れられて行ったピアノのコンサートだった。
「ここはいうなれば結界。僕が琴音の過去を再現したんだ。この空間には、奴らは入ってこれないから安心して。」
シープは空いている席に座り、私を手招きする。私は促されるまま、シープの隣に座った。
ふと視線を前に向けると、2つぐらい前の席に、私の両親とむくれた顔をした幼い私が座っていた。あの時の私はピアノなんてものには興味がなく、無理やり連れられてこられたので不機嫌だったのを思い出す。
「お母さん、お父さん、早く帰ろうよー。」
幼い声が、ホールに小さく響く。両親がなだめていると、照明がゆっくりと落ち、会場が静寂になった。ステージに置かれたグランドピアノへと、名前も知らない男の人が向かい、椅子に座る。そのピアニストが鍵盤に手をおいた。
――音が放たれた瞬間、空気が震えた。
突風が吹いたかのような音の迫力、重々しい低音の響き、まるで音が生きているかの躍動感。心臓が一気に跳ね上がり、目が離せなくなる。この音が私の世界を塗り替えたのだ。
幼い私が小さい声で父親に聞く。
「お父さん、この曲何?」
「ショパンの『革命のエチュード』だよ。」
普段物静かな父が、誇らしげに答えた。
「私、あれ弾きたい!」
ピアノなんて知らなかった私を、ショパンの音は虜にした。
「見てよ!子供の琴音の目。未来に対するまっすぐな希望に満ちた目だ。」
シープの優しい声が響く。
「そうね……」
実際、あの時の私が一番輝いていたのだろう。その夢が自分を地獄に陥れるとはまだ知らないから……。
気が付くと、空間は突然変異し、デパートへと移っていた。
「この空間は、琴音の心とつながっているから、琴音の記憶に合わせて変化するんだ。」
シープは、私にそう説明した。
あのコンサートの後、私は親におねだりをして、このデパートで電子キーボードを買ってもらった。いつも物を買ってもらえない私が、あの時だけは、私がこんなにも目を輝かせるものだから、親も快く買ってくれたんだと思う。
「私はがむしゃらにピアノを弾いたわ。朝早く起きてピアノを弾く、学校が終わったら友達の誘いも断りピアノを弾いて……。夜遅くまで寝ずに練習してたら、母親に叱られたこともあったっけ。」
懐かしい情景が、次々と浮かんでくる。ピアノに向かって一心不乱に練習を重ねていたあの頃。何も考えず、ただその音色を追いかけることだけが嬉しかった。
「ピアノが相当好きだったんだね。」
シープの優しい声色に胸が痛む。
「まだこの頃は、ね。」
視界が一瞬揺らぎ、空間はとある一室へと変化した。私がかつて通っていたピアノ教室だ。ピアノに熱心な私を見て、親が通わせてくれた。初めて訪れたときの高揚感は今でも覚えている。自分がピアニストへ着実に近づいているを感じられた。
ピアノのレッスンは、とても厳しかった。先生は真面目なひとで、ミスがあれば何度でも引き直させ、課題は山のように出され、曲の難易度も毎回どんどんあがっていった。それでも、幼い私は必死に食らいついた。つらいときは、あのコンサートのことを思い出し、ピアニストになるため一生懸命努力した。
しかし、私の夢を折る決定的な出来事がやってきた。ピアノのコンクールである。
ほかの人の演奏を聴いたとき、私の全身が凍り付いた。私の演奏よりも、滑らかで、力強く響き渡っていたのだ。
「なんで……?私だっていっぱい努力したのに……。」
幼い私は、「才能」という絶対的な壁にぶち当たったのだ。
――92%
音楽の才能に遺伝が与える割合だ。私にはそんなものはなかった。父親はよくクラシックを鑑賞する程度。母親に至っては音楽に関心はなかった。つまり、私には「音楽の血」が流れていなかったのだ。
「最初は、必死に努力した。あいつらに絶対追いついてやる。見返してやるって。けど、いくら頑張っても駄目だった。私の鍵盤から出る音はいびつで、鈍く何の迫力のない音から変わらなかった。私の今までの努力はすべて無駄というかのようにピアノは頼りない音しか出さない。そこからはピアノを弾くのが苦痛になったの。」
「私には才能がなかった。それだけのこと。」
そう自分に言い聞かせ、私はピアノをあきらめた。
空間は、暗闇へと染まっていった。
「この世の中は結局才能よ!努力は報われるなんて、ただのきれいごと。才能がないやつは夢を追いかける資格すらない!」
私は怒声をあげていた。それに呼応するかのように空間にひびが入っていく。
「シープ、どうせあんたも内心私を見下してるんでしょ?私が過去と向き合えとか言って、ただ苦痛を味わわせたいだけじゃない!」
ふと、自分の口から出た言葉に驚く。思いがけない言葉に、自分でも少し冷静さを取り戻してきた。
「シープ、ごめんなさい。」
「いいんだよ。琴音の苦しみはだれよりも理解してるから。」
シープは変わらず優しい声色で答えたが、どこかさみしそうな顔をしていた。
「琴音、君の夢は何だい?」
シープは私に疑問を投げかける。
「あの時のあの人みたいに、コンサートでピアノを弾くこと。けど、私は才能がなかったから、諦めた。」
「それは君の夢の本質ではない。もっと根本的なところだよ。」
「本質……?」
私はその言葉に眉をひそめる。その表情を見てか、シープはまた指を鳴らし、この暗い空間を作り変えた。これは、ピアノを地道に練習して、きらきら星を弾けるようになった時の私の部屋だった。
その空間には、電子キーボードを弾いてる私と変わらず静かに聞いてる父親、カメラを持って、いつになくはしゃいでいる母親がいた。
うれしかった。父親と母親が喜んでくれたから。私の演奏に感動してくれたから。
「君の本当の夢は、自分の演奏で誰かの心をうごかすことだ。」
「あの日のコンサートで君の中の世界が変わったように。」
「それができなかったから私は諦めたんだよ。才能がなければそんなことはできない。」
「そう?この幼い琴音はお世辞にも上手とは言えないきらきら星で、両親の心を動かしてるように僕は見えるけど。」
「君のピアノが誰かの心を動かすために必要なのは、コンサートでピアノを弾くことじゃない。小さな場所でも誰かが聞いてくれれば君の音は届く。そして心を動かすことができる。」
私はハッとした。あのときの幼い私は純粋に誰かのためにピアノを弾いていた。いつからか他人と自分を比較して本当の自分を見失っていたんだ。
「私、もう一度……もう一度ピアノ弾いてみるよ。」
「そうこなくっちゃ!」
シープが指を鳴らすと空間は卵の殻を破るれたかのよう、完全に崩れていった。
「なにあれ……?」
目の前を見ると、元の暗い空間で、悪夢たちが1つの漆黒の球体へと身を投じていく。
「悪夢をどんどん吸収している……。奴らも僕たちと決着をつけようとしてるらしいね。」
悪夢がすべて集まった時、それは1000mくらいの巨人へと変化していた。
巨人がゆっくりと拳を振り上げ、暗闇が軋むような音が響く。圧倒的な威圧感が、肌に冷や汗を滲ませた。振り下ろされるその拳は、まるで黒い壁のように視界を覆い、息を飲む隙もないほどの迫力だった。当たればひとたまりもない。シープに目をやると、シープの持っていた斧が光り輝いていた。シープが斧を薙ぎ払うと、巨人の腕が一瞬にして消し飛ぶ!
「この光は、君の未来に対する希望、『夢』の力さ。悪夢を倒すのは君の夢が必要だったってわけ。」
シープは誇らしげに私に話しかけていた。
「さぁ、この斧を持って!」
「え、なんで……?」
「なんでって、君の敵なんだ、君にしか決着はつけられない。」
シープは私の手を強引につかみ、空中へと私を連れ出す。
「奴の心臓の位置に核があるのは見えるかい?僕があそこまで連れて行くから、その斧を突き刺すんだ。」
シープは巨人の荒れ狂う攻撃の中をうまくかいくぐっている。拳が当たった場所は爆発でもしたかのような音を立て、粉々に砕け散る。当たったら……。そんなことを考えると恐怖がまた戻ってくる。
「無理よ!私にはできない!」
「逃げちゃだめだ!今回は僕がいるんだ、安心して。」
シープのその言葉で私は決意した。そうだ、今度……今度こそ私は逃げない!。
勢いが増していく巨人の攻撃をシープは避けるが、シープの顔に疲れが見え始めている。避けるのに精いっぱいで核にたどり着く気配がない。
「シープ、私を核に向かって投げて!」
「でも、そんなことしたら琴音は……。」
「このままだと二人ともあの拳につぶされる。大丈夫、私にならできる。」
シープは一瞬悩むそぶりを見せたが、やがて小さくうなずいた。
「……わかった。信じるよ琴音。」
次の瞬間、シープは私を投げ出した。私は巨人の核へと一直線に進む。巨人は腕で私を阻もうとするが、私をもう止められない。渾身の力で斧を巨人の核を貫ぬいた。その瞬間に斧から光が溢れだし、巨人の体は崩れさていった。
崩れ去った巨人はやがて小さな黒い犬へと変化していた。
「大丈夫。もう傷つけないから。」
シープは犬に手をそっと差し伸べていた。黒い犬は、最初はおびえていたがシープに近づいてくる。シープは黒い犬を抱きかかえ私に差し出した。
「その子は、君の弱さそのもの、つまり君の一部なんだ。弱さは消すものじゃない。付き合っていくものだ。これからはその子と一緒に生きてほしい。」
私はその犬を受け取った。小さな体が温かい。これが私の弱さ――今なら受け止められる気がする。
「琴音は今日自分の弱さと向き合うことができた。君はもう立派な大人だよ。」
シープは優しく微笑み空へと舞い上がる。
「じゃあね!僕はいつまでも君を見守ってるから。」
その後ろ姿が言えなくなるまで私は見送った。
あれからしばらく時がたった。
「琴音先生!ここの部分ってどういう風に指を動かすんですか?」
「ここはね、こういう風に指を動かして――」
教室で一人の少年が私に真剣なまなざしで私を見つめていた。その瞳にはかつての自分が満たされていたものがあった。
先生みたいに……。胸がじんわりと温かくなる。思い出すのは、あの日、公民館の小さな舞台で、久しぶりに人前でピアノを弾いたときのこと。この子もその場にいて、私の演奏を聴いてくれていたのだ。その演奏に心を動かされて、私のところに来てくれた――。
気づけば、私のピアノはまた誰かの心に届いていた。夢に見た、誰かの心を動かすことができたのだ。
私は生徒に微笑みかけながら、改めて感じる。この場所で、こうして教えることも、立派な「夢の続き」だと。
小さな教室には、私と生徒の笑顔が満ちていた。
Deep Sheep Sleep 下海篤 @simoumi
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