君の中身が見たいんだ

くれは

箱の中身

 スマホに繋がったイヤホンからは、適当な流行りの曲が流れていた。大好きというほどじゃない、でも嫌いじゃない、どちらかと言えば好ましい。ファンというほどではないけれど。

 ちらりと画面を見て、そろそろ寝なくちゃとシャーペンを机の上に置く。宿題はまあ終わった。予習は完璧とは言わないけれど、明日を乗り切るくらいはできると思う。

 それで、さてどうしよう。メッセージを送ろうか。それとももう遅いかな。そんなふうに悩んでいるうちに、機械を通した歌声を邪魔するようにぽんと高い音がした。メッセージの着信音だ。イヤホンをしたまま、メッセージアプリを開く。

 ──もう寝ちゃった?

 気軽な問いかけに返事をする。

 ──そろそろ寝ようかと思ってたところ

 ──うん わたしも それでちょっと話したくなって

 何がそれでなのかわからないけど、こんなふうに言われて、正直なところ嬉しいことではあった。一日の終わりに僕のことを思い出してもらえる。その幸せに、なんだかふわふわとした気分で返信する。

 ──僕も メッセージ送ろうかと思ってたところ

 ──良かった 今ねコーの新曲聞いてて

 流行りの曲をBGMに他愛もないメッセージのやり取り。口元は自然と微笑む。

 告白をしたのは僕からだった。控えめで優しい雰囲気の彼女のことが気になって、それが恋だと気づくのにそう時間はかからなくて、抑えきれずに思いを告げた。彼女は最初、良い返事をくれなかったけれど、だからといって僕のことを拒絶するふうでもなく、一度は諦めようとしたけれど諦めきれずにずっと、アプローチし続けたのだ。

 僕の初恋が成就する間の具体的なやり取りは、今ここでは語らないけれど。ともあれ今は、彼女は僕の恋人として、一緒に下校して寄り道したり、休みの日に時々出かけたり、あるいはこうやってメッセージをやり取りしたり、そんな間柄になったのだった。

 それから三ヶ月。最初は緊張もあったのかぎこちなかった彼女も、今ではこうやって自分からメッセージをくれるまでになった。それは顔もにやけようというものだ。

 スマホの画面で彼女とのやり取りをしながら、ふと、自分の胸から箱を取り出す。手のひらに乗るくらいの小さな箱。誰でも一つ持っている、箱。

 自分の箱の蓋を開く。最近は彼女との思い出が増えていきている。一緒に見た夕焼けとか、一緒に食べたアイスとか、初めて手を握ったときに空に浮かんでいた雲とか。その奥に、小学生の頃授業で書いた稚拙な──でも褒められた詩があった。もっと小さい頃に思い描いていた夢の欠片。それから、形が気に入ってどこかで拾って大事にしていた石──本物はもうとっくに失くしてしまっているのに。そんなものが詰まっている。

 この箱の中身は、今まで誰にも見せたことはない。さすがに小学校に上がる前の親はノーカウント。物心ついてからは、僕ひとりだけのもの。もちろん、誰もがそうだと思うけど。

 これを誰かに見せるなんて、ちょっと前までは考えてもいなかった。でも、彼女になら……という気持ちがある。彼女と向かい合って、お互いの箱を見せ合う。それは気恥ずかしくも、ひどく胸をかき立てられる想像だった。

 ああ、でも、僕の箱の中身はいささか子供っぽくはないだろうか。幻滅されたりしないだろうか。彼女に相応しい中身は、僕の中にあるだろうか。

 ──じゃあ寝るね おやすみなさい

 ──おやすみ また明日

 彼女とのメッセージのやり取りを終える。僕は箱の蓋を閉めて、そっとまた自分の胸に戻す。そして今度こそ、眠るために立ち上がった。

 明日も学校で彼女に会えるのが、楽しみだった。


 世の中では、自分に箱なんてありません、みたいな顔をして生活する。それが一般的だ。

 たまに何か問題を抱えた人が自分の箱を開いて通りすがりの人を捕まえて「見てくれ」とやっていることもある。けれど誰だって、知らない人の箱の中身なんか見たくない。そういう存在からは距離を取ろうとするのが普通だ。

 箱の中身というのは隠されるべきものだ。本当に親しい相手にだけ、こっそりと、見せるものなのだから。親にだって恥ずかしくて見せない。繰り返すけど、小学校入学前に親に見せていたのはノーカウント。そういうのは成長過程においてはごく自然なことで、成長したらなくなるものだ。

 だから僕だって一般的な倫理観において、彼女と下校している途中に突然箱を取り出して見てほしいなんて言い出したりはしない。それでも、時々そんな不埒な想像が頭を過ぎることがある。

 彼女は僕の箱の中身を見て、どんな表情をするだろう。なんて言うだろうか。いややっぱり恥ずかしいな、見せられないかな。いやでもやっぱり見てほしいな。なんて。

 秋でも緑色のままの常緑樹の並木を二人で歩きながら、僕はそんなことを考えていた。彼女に知られたら、軽蔑されるかもしれない。だから秘密だ。

 よく晴れていて、風は心地いい。冬服の制服の上に何も羽織らないで歩くのがちょうど良い季節だった。彼女は長袖のセーラー服で、僕の隣を歩きながら、ぽつりぽつりと静かに今日友達と話した内容を教えてくれていた。

「それでね、ゆっちが今度一緒に買い物に行こうって言い出してね」

「行くの?」

「うん……多分。来週かな、行くと思う」

「楽しんできてね」

 僕の言葉に、彼女は嬉しそうに頷いた。そして、僕の顔を見上げて、笑う。その笑顔が幸せそうだったので、僕も笑った。ひどく単純なことに、彼女が嬉しそうにしていれば、僕だって嬉しい。

 それでやっぱり僕は、僕と彼女がお互いの箱を見せ合う妄想から逃れられないでいた。夏休み前からお付き合いをはじめて三ヶ月。決して長いとは言えないけれど、そこまで短くもないと思う。

 僕の箱の中身を見てほしい。彼女の箱の中身を見たい。彼女のことが好きで、大事にしたくて、だからこそそうしたいのだというのは、でもやっぱり恥ずべき欲望なんだろう。

 そう思って……でも、僕は言ってしまった。足を止めて彼女を見る。

「あのさ」

 二歩、彼女は進んでから足を止めて、僕を振り向いた。丸い瞳が不思議そうに僕を見ている。僕は乾いた唇を少しだけ舐めた。喉も乾いていた。

「今度の休み、僕の部屋に来ない?」

「え……」

 わかりやすく、彼女はうろたえた。付き合っているとはいえ、相手の部屋に行くということにどんな意味があるのか、わからないわけじゃないだろう。僕から視線をそらして、困ったようにうろうろとさせる。

 いつもなら僕は、ここで引き下がっていたと思う。嫌なら良いんだ。なんでもないんだ。どこか別の場所に出かけようか。そんなことを言いながら。でも今日の僕は、なんだかそう言い出せなかった。

「無理にとは言わないけど、でも……ふたりきりで過ごしたいんだ、君と」

 彼女はしばらく唇を噛んでうつむいていた。ようやく顔をあげて口を開く。

「嫌ではないの。嫌じゃないんだけど……その……」

 彼女の不安を感じた。それから、少しの怯え。それ以上に、僕への信頼も感じていた。僕は二歩踏み出して、彼女のすぐ隣に並ぶ。彼女の顔を覗き込む。

「君が嫌だと言うことは、何もしないから」

 彼女はしばらくじっと僕の目を見て、それから赤い顔をしてうつむくように小さく頷いた。

「……わかった」

 ああ、信じてもらえるなら嬉しいのだけど、僕は彼女を傷つけたいわけじゃない。彼女と秘密を分かち合って、より親密になりたいだけなんだ。

 それだって、彼女が嫌と言えば我慢することだってできる。やってみせる。僕は彼女を大事にしたいと思っている。何に誓えば良いかわからないけど、本当だ。


 休みの日、彼女と外で待ち合わせして、自宅まで案内する。思えば、自分の部屋に彼女をあげるのは、箱の中身を見られるのと同じくらい恥ずかしい気もした。念入りに掃除して換気もしたから大丈夫だと思うけど、変なにおいでもしたらどうしようかとそわそわする。

 彼女は小さな缶に入ったクッキーを持ってきてくれて、僕に用意できたのは麦茶くらいだったけど、コップに入れて自室に運んだ。クッキーと麦茶。言葉少なに彼女と向かい合って、さっくりとバターのかおりがするクッキーを咀嚼する。

 今までだって、休みの日にふたりで出かけることはあった。私服だって何度か見ている。それでも今日は、なんだか特別だった。少し緊張している様子の彼女は、今までで一番可愛いと思った。

 最初のうちは、クッキーを食べながら、麦茶を飲みながら、他愛ないことを喋っていた。学校でのこととか、友達との話題、家族のこと、それでもそんな些細な話を共有できるのは嬉しいことだった。代わる代わるにお互いのことを話して、頷いたり、笑ったり。それだけでもじゅうぶん幸せな気がした。

 それでも、まだ足りないと、僕の中の欲望が頭をもたげる。そう、どれだけ満たされても、幸せでも、満足しても、足りない。まだ、もっと、彼女のことを知りたい。僕のことを知ってほしい。そんな気持ちが、胸の奥で渦巻いている。

 ふと、会話が止まる。静かな部屋の中で、彼女はゆっくりと麦茶を口にする。僕は唾を飲み込んで、それから胸に手を当てると、自分の箱を取り出した。

 彼女はコップをテーブルに置いて、それから僕の手にあるものを見て、目を見開いた。

「見て、ほしいんだ」

 僕の言葉に、彼女は顔を赤くして、視線を伏せた。

「あの……でも……」

「見て、僕のことを知ってほしい。君になら、見られても良いって、思ったんだ」

 彼女は視線をうろうろさせて、それから困ったように僕を見た。僕たちは向き合って、僕は今、彼女に向かって箱を差し出している。

「わたし……」

 何か言いかけた彼女は、それでも何を言えば良いのかわからないように、また口を閉じた。

「どうしても嫌なら今は諦めるよ」

「嫌というんじゃないの。でも……」

 恥ずかしいのか。不安か。未知のものへの恐怖か。彼女はせわしなく視線を動かすばかりだった。僕は箱を差し出したまま、身を乗り出す。

「君だからなんだ。君に、見てほしい。でも、どうしても嫌ならそう言って。そしたら僕は、今じゃなかったんだって、そう思うことにするだけだから」

 彼女は眉を寄せて、悩むように目を閉じた。しばらくそのまま黙っていたけれど、やがて目を開いて僕を見た。そして、上目遣いにそっと、頷いた。

 僕も頷いた。緊張で喉が乾く。無理矢理唾液を飲み込んで、そして箱の蓋に手をかける。蓋を開いて、彼女に見えやすいように、さらに手を差し出した。

 彼女は最初、僕の顔をじっと見ていたけれど、おそるおそるというように僕の手の上、箱の中を覗き込んだ。

 彼女との思い出がたくさん詰まっている。そんな中でも、いつだったか拾った面白い形の石は存在を主張していて、なんだかそれが子供っぽい気がして恥ずかしい。その奥にある詩だって、褒められたのなんて小学生のときだっていうのに、未だに大事に箱の中にある。どう思われるだろうか。僕はそっと彼女の表情を伺う。

 彼女は最初、何度か瞬きをして、それから赤かった頬をますます赤くした。

「わたしとの思い出……?」

「それはまあ、大事なものだから」

 彼女の言葉に、急に恥ずかしくなってしまった。でも、大事なものなのは確かなので、そう返す。彼女は僕の顔を見て、泣き笑いのような、くすぐったがってるような、そんな微妙な顔をした。

「この石は?」

「子供の頃に拾って気に入ってたんだ。もう失くしちゃったけど」

 くすくすと、彼女が笑う。その笑顔にほっとして、それで自分の体にずいぶんと力が入っていたことに気づいた。

「この夕焼け、わたしも覚えてる」

「うん。すごく……綺麗だったよね」

 彼女は僕の顔を見て、頷いた。それで、俺は箱の蓋を閉める。箱を胸の奥にしまいなおす。そのまま胸に手を当てて、自分の鼓動が跳ねるのを感じていた。

「すごく恥ずかしかった……でも、見てもらえて嬉しい」

 顔だけじゃなくて耳まで熱かった。それでも、僕の中身を彼女に見てもらえたこと、笑顔になってもらえたことに、安堵する。彼女は優しかった。僕の中身を否定しなかった。安堵の次にやってきたのは興奮だった。

「あの……わたし」

 彼女が何か思い詰めたような顔になった。僕は呼吸を整えて彼女を見る。彼女は自分の手を胸元に持っていって、自分の箱を取り出した。

「わたし……は……」

 彼女の赤く染まっていた頬は、今はなぜだか青白い。彼女は緊張からか、両手で自分の箱を潰さんばかりに握っていた。その手が細かく震えている。僕は彼女の行きすぎた緊張に違和感を覚えた。

「大丈夫……?」

 そっと声をかけると、彼女ははっとしたように自分の手の中の箱を見て、それから慌ててそれをまた胸に戻してしまった。

「ごめんなさい。わたし……怖くて……」

 青ざめた顔の彼女は今にも泣きそうで、それで僕はそっと首を振った。

「大丈夫、無理しなくても。それは、まあ、見れたら嬉しいなとは思うけど。でも、待つよ。大丈夫だから」

「ごめん、ごめんなさい」

 彼女は繰り返し謝った。僕は繰り返し大丈夫と声をかける。やがて彼女は泣き出して、僕はおずおずと彼女の肩を抱き寄せた。彼女はしばらくの間、僕の胸にしがみついて泣いていて、僕はなだめるように彼女の背中を撫でていた。

 きっと僕が無理させてしまったんだろう、と反省した。大事にしたいなんて言いながら、僕は少し強引だったんじゃないだろうか。さっきまでの興奮は不安に変わる。これで彼女が傷ついていたら、どうしようか。

 心の中でどれだけ心配しても、彼女には伝わらない。泣きやまない。そのとき僕にできたことは、彼女が落ち着くまでそうやってただ待つことだけだった。


 それからも、僕と彼女の関係はこれまで通り。多分。少なくとも、表面上は。

 そう、ときどき、彼女の言葉や態度の端々に微妙な遠慮──もっと言ってしまえば距離を感じるようになっていた。例えば、なんてことないタイミングで「ごめんね」と謝られたり、手を繋ぐタイミングで一瞬ためらうような表情になったり。

 そのたびに僕は、自分の迂闊さを呪っていた。きっと僕は先走りすぎたのだ。僕自身の興奮と欲望を我慢できずに、彼女を追い詰めてしまった。もっと、もっと待たないといけなかった。そう思っていた。

 だから僕は、彼女に対してより誠実であるようにと頑張った。彼女のことは変わらず好きだったから、この関係を手放すことは考えてもいなかった。幸い、別れ話やそれに類する言葉を彼女から聞くことはなかった。だから少なくとも、彼女もまだ僕と一緒にいたいと思ってくれているのだと、そう結論づけていた。

 気づけば、秋風はすっかり冷たくなって、制服の上に何か着こまないと寒くなっていた。冬の空気だ。

 寒いね、と言い合いながら短い夕暮れの中を彼女とふたり並んで下校する。常緑樹の葉ですら、冬はその色彩を失うのかもしれない。どこかぼんやりとして見えた。

「あ、ごめんね」

 そのとき彼女が謝ったのは、なにについてだっただろう。つまずきそうになって、俺のコートの袖を掴んだ。ただ、それだけのことだったように思う。なんなら今すぐ、その手を握っても良いのに、と僕は思っていたけれど、それはまた彼女を困らせる気がしていたから、僕はただ小さく首を振って微笑んだだけだった。

 彼女は自嘲するように笑って、それから少しうつむいた。

「ね、あのね……どうしてわたしだったの?」

 その質問は、僕にとっては突然だった。でもきっと、彼女の中では何かきっかけがあったのだと思う。そのきっかけは、きっとさっきの謝罪に繋がっている。そんな気がした。

 僕は少しだけ考えてから口を開いた。

「どうしてって……一言で言うのは難しいけど。最初のきっかけは雰囲気かな。優しそうで、それが気になって、目で追ってた」

 それは僕の正直な気持ちだった。けれど、それは彼女の望む答えではなかったらしい。彼女はうつむいたまま、小さく呟いた。

「でも、そんな……わたしなんて」

「初めて告白したときにも、同じことを言ってたね」

 僕の言葉に、彼女は目を見開いて顔をあげた。ぱちぱちと瞬きをして僕の顔を見る。

「そうだった……?」

「うん、はっきり覚えてるよ。君は『わたしなんて』って言うけれど、僕は君が良いんだ。それじゃ駄目?」

 僕の質問に、彼女は眉を寄せて考え込んだ。

「駄目とかじゃなくて……ううん、駄目なのはわたし。だってわたし……」

 冷たい風の中、彼女の体は少し震えていた。そして、その風より冷たい声で彼女は言った。

「わたしは、空っぽだから」

「……どういうこと?」

 僕の言葉に、彼女はそれ以上なにも言わなかった。唇を引き結んで、首を振るばかり。冬の風が彼女の髪を乱す。そうしているうちに分かれ道に着いてしまって、彼女は「また明日」と身をひるがえした。

 その場にぼんやりと立ちすくんだままその後ろ姿を見送った。空気になぶられた耳が、痛いほどに冷たかった。


 冬の寒さとともに、彼女は思い詰めた顔をするようになった。そのたびに、僕は不安で胸が締めつけられる。僕たちは何か行き違ってしまったのだろうか。それはやっぱり箱のせいだろうか。

 そんなある日の帰り道、彼女は思い詰めた顔のまま、小さく消え入りそうな声で僕に言った。

「あのね……わたしの箱の中、見てほしいの」

 彼女の振り絞った勇気に水を差したくはなくて、僕は慎重に頷いた。

「じゃあ、僕の部屋に、くる?」

 うつむいたまま、風に吹かれて冷たくなった頬で、彼女はこくりと頷いた。その姿がなんだか痛々しく見えて、歩きながら僕はそっと声をかける。

「無理、しなくても良いんだよ」

 彼女は首を振った。

「大丈夫、決めたから」

 そうして彼女は口元をマフラーに埋めた。それっきり、僕と彼女は黙ったまま僕の家に向かって歩いていた。そのとき僕が感じていたのは、興奮よりも不安だった。彼女はどう見ても無理してるように見えたし、これがきっかけで彼女との間に決定的な何かが起こってしまうような、そんな予感すらあった。

 部屋に入って、コートとマフラーを受け取って、ハンガーにかけて壁に吊るす。それからまずは、温かな飲み物を用意した。お湯を沸かして、二つのマグカップにココア。それを持っていって、一つを彼女に差し出した。

 彼女は温かなカップを両手で抱いて、ふうっと息を吹きかけてココアの表面を揺らした。ゆっくり、ちびちびとココアを飲む。その間、僕たちは何も話さなかった。

 少しして、熱かったココアがぬるくなる頃、彼女は半分ほどになったココアのマグカップを置いて、俺を見た。決心がついたらしかった。それで俺もマグカップを置いて、彼女と向かい合った。

 温かなココアで彼女の頬には血の気が通っていた。ほんのりと柔らかく色づいている。それとは対照的に、彼女の表情は硬かった。

「本当に、無理しなくても大丈夫だからね」

 僕がもう一度言うと、彼女はまた首を振った。そうして、彼女の手が彼女の胸元を押さえる。彼女の胸から箱が──彼女の箱が取り出される。

 彼女の手には力が入っていた。指先が白い。それでも彼女は箱を僕の方に差し出した。緊張した面持ちで、僕を見る。

「あの、あのね……」

 何かを言いかけて、でも迷子になったような表情になって唇を引き結ぶ。それから彼女は箱の蓋を開いた。

「じゃあ、見るね」

 声をかけると、彼女は頷いた。僕はそっと、彼女の手の上の箱を覗き込む。その中身は、空っぽだった。

 箱は普通だ。僕のものと同じような、手のひらに乗るくらいの、箱。けれどその中には何もない。彼女には思い出がない? いや、そんなまさか。

 僕はなんて言えば良いかわからなくて、何度か瞬きをしてから彼女を見た。彼女は僕から目をそらした。そして、耐えきれないというように箱に蓋をした。空っぽの箱を両手で握っている。

「どう、思った?」

「ええと……空っぽだなって」

 我ながら、間抜けな応えだと思った。そんなことよりももっと、言うべきことはあった気がする。彼女がどれだけの勇気を振り絞って箱の中身を見せてくれたのか、僕にはまだ、そのほんの一部しか想像できていなかった。

「そう、空っぽなの。あのね、病気なんだって。先天性。治らないって言われてる。でも、生活に支障はないから大丈夫ってお医者さんには言われた」

 彼女は急に饒舌になった。まるで自傷行為のような饒舌さを僕は止められなくて、彼女に触れることもできなくて、間抜けなことに僕はただ呆然と彼女を見ていた。彼女は僕と視線を合わせずに言葉を続けていた。

「楽しかったことも、嬉しかったことも、悲しいことも、どんな思い出も箱の中には増えないの。何があっても箱は空っぽのまま。わたし、知られたらどうしようって、ずっと怖かった。箱はあるのに中身が空っぽなんて、気持ち悪いって思われたらって想像すると、怖くて怖くて」

 彼女は泣いていた。そこでようやく、僕は動けるようになった。泣いている彼女を慰めたかったから。僕は彼女の肩に両手を置いた。彼女は僕を見上げた。

「がっかりしたでしょ、箱が空っぽで」

 僕は大きく首を振る。そんなつもりはなかったから。黙ってしまったのは、ちょっとびっくりしたからで、そして、なんて言うのが適切かわからなかっただけで。今だって僕は、何を言うのが適切かわからないけど、でも何か言わなくちゃって焦った。

「そんなことない。そんなことないよ」

「嘘!」

 彼女はヒステリックに叫んだ。彼女の目から涙がこぼれ落ちる。

「だって! 前だって! 友達だと思ったから、親友だと思ったから打ち明けたのに! 気持ち悪いって言われた! 親はわたしのこと可哀想な子扱いする! 箱が、これが空っぽなだけ! それだけなのにわたしは、怯えて暮らさなくちゃいけない!」

 彼女はつまり、傷ついてきたのだ。箱が空っぽなことで、たくさん傷ついてきた。その結果が、今の涙だ。涙をこぼしながら、彼女は言った。

「気持ち悪いでしょ。別れても良いよ」

「別れないよ、こんなことで」

 僕は彼女を抱きしめた。空っぽの箱ごと。彼女の体温、彼女のにおい、彼女の柔らかさ。そんな全てが、彼女の存在を僕に知らしめていた。

 彼女はうろたえるように、少しだけみじろぎした。けれど僕は、彼女を離さなかった。離したくなかった。

「だってわたし……告白されて嬉しかったことも、手を繋いでどきどきしたことも、一緒に見た夕焼けだって、箱の中にないんだよ。わたしの中には何もないの、空っぽなのに」

「そんなことない」

 僕は彼女を抱きしめる力を強くする。彼女の髪が頬に触れた。その感触に体が熱くなった。

「だって君はさ、僕の箱を見たときに、夕焼けのことを覚えてるって言ってた。箱が空っぽでも、君自身が空っぽなわけじゃない。君はちゃんといろんなことを感じてここにいるんだと思う」

 うう、と彼女の泣く声が僕の胸でくぐもって聞こえた。僕は彼女の背中を撫でる。その実在感、ぬくもり、制服の手触り、全部が彼女がここにいるって証に思えた。


 宿題を終わらせて少しだけ明日の予習を、と思っていた。けれど集中力はもう途切れてしまった。イヤホンからは、最近よく聞く流行りの曲が流れている。これはこないだ彼女が好きと言っていた気がする。そう思って耳をすます。

 不意に、ぽん、とメッセージの着信音が鳴る。いそいそとスマホの画面を見れば、彼女からだった。

 ──まだ起きてる?

 いつもの、じゃれつかれるようなメッセージに返信する。

 ──起きてるよ

 ──良かった ちょっと話したいなって思って

 彼女からこう言われて、断るのは難しい。何せ、彼女へは僕からアプローチして付き合ってもらうようになったのだから。何度も告白をして、ようやくOKをもらえたときのあの幸福感。今でも覚えている。

 他愛ないメッセージのやり取りに顔を緩ませながら、僕は自分の胸から箱を取り出して、片手でもてあそんだ。箱の中身には、あれからも彼女との思い出が増え続けている。

 空っぽの箱を気にしていた彼女は、あの後も少しそれを気にしている素振りがあったけど、それでも僕がいつも通りにしているからか、彼女も今まで通りになってくれた。もしかしたら多分、彼女は完全に安心できてはいないのだろうけど。

 それでも僕にできることはきっと、今まで通りに彼女を好きでいることだけなのだ。

 ──じゃあ おやすみ

 ──おやすみ また明日

 いつまでも続けていたいメッセージのやり取りを終えて、僕は自分の箱をまた胸に戻した。学校に行けば彼女に会えると思うと、明日が楽しみだった。

 そうして僕の箱の中には、また彼女との思い出が増えていく。彼女の箱が空っぽの分も、僕の箱がいっぱいになったら良い、そう思っていた。これは恥ずかしいから彼女には言わないつもりだけれど。




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