おげどさん

おおいぬ喜翠

おげどさん

 加賀谷信夫かがやのぶお高木美晴たかぎみはると知り合ったのは、友人主催の合コンだった。互いに“余って”何となく、時間潰しに雑談したのが切っ掛けだ。恋愛感情が芽生える事は無かったが、オカルト好きという共通の趣味がある事が分かって意気投合した。それから数年、『飯友』兼『オカルト友』として時折会っては交流を深めている。


 今日は互いに就職し、仕事に慣れるまでのバタバタ期が終わって――という一年ぶりの再会だ。美晴は福祉大学に通っていたので、卒業後は確か都内の有料老人ホームに就職した筈だった。


「介護の仕事どう? お化け出た?」

「もう、お化けの話早くない?」

「だって介護施設なんて如何にも出そうじゃん」


 大衆居酒屋の半個室。乾杯し、近況を報告し合う。さっぱりした黒髪のショートカットに、美人と言う程ではないが愛嬌のある丸い顔。Tシャツにジーンズという飾り気の無い恰好だが、大学時代より美晴は大人びて見えた。


「お化けはさ、居るような居ないような?」

「何だそれ」

「だからさ。誰も居ない部屋からコールが鳴ったり、触ってもないのに自動センサーの水が出たり、幽霊っぽい気配や声がしたかな……? なんて事はあるのよ」

「霊現象ぽいじゃん……!?」

「いやそれがさ……構ってられないんだよね」


 美晴が小さく溜息を吐いた。


「誰も居ない部屋からコールが鳴ったって、誰か利用者さんが入り込んだのか!? って思っちゃうし、自動センサーなんてただの誤作動でしょって思っちゃうし、気配や声もお化けかなって思う前に『今度は誰だ!』ってなっちゃうんだよ」

「構ってられないくらい忙しいってこと?」

「そう! それにお化けより夜中の雛人形とか真っ暗な廊下をハイハイしてる実在のお婆ちゃんの方が100倍怖いから! 心臓止まりそうになるから……!」


 季節になると多目的ホールに雛人形が飾られるのだが、夜の見回りで見るそれは何とも恐ろしいのだそうだ。お年寄りは『可愛いねえ』と愛でているそうだが、これは時代と価値観だろう。後は見回りで角を曲がった瞬間、暗い廊下の奥に蠢く小さな影――が見えたと思ったら、居室を抜け出したお婆ちゃんが這っていた時などは本当に心臓が止まりかけたとか。


「もう職業病じゃん。死んだ利用者さんとか出ないの?」

「うーん、居るかもしれないけど正直怖くない」

「えーっ」

「だってさ、亡くなるまで仲良くお世話してたんだよ。本当の家族じゃないけどそれに近い親しみもあってさ。気配がしても『あっ誰々さんか』って思うと怖くはないかなぁ……」


 職業病というか麻痺しているというか、そういうものなのかと思う。納得して頷いていると、美晴が声を潜めた。


「それに正直お化けより人間の方が怖い……」

「えっ何、ヒトコワ……!?」


 思わず信夫が身を乗り出す。その耳元に顔を近付け、小声で美晴が囁いた。

 

「用も無いのに永遠にコール鳴らし続けるとか、五分おきにトイレ行きたがるとか、全裸で廊下を徘徊なんて可愛いものだよ。暴れたり噛み付く人だっているし、最強は自分もろとも部屋中に排泄物を塗りたくるタイプが――」

「おい食事中……!」

「あっごめん! この仕事してると食事中でも汚い話平気になっちゃうんだよね……! これ介護あるあるだから!」


 思わず身体を離し顔を顰めた信夫に、美晴がけらけらと笑った。カレーを頼んでいなくて良かった――ではなく、軽く聞いただけでも確かにそんな入居者ばかりではお化けを怖がる暇など無いだろう。


「ともあれ過酷な仕事なのはよく分かったよ……! 俺には無理だ怖過ぎる!」

「ふふふ……! それに入居者さんだけじゃないんだ。モンスタークレーマーみたいなご家族だって居るし、結構複雑な人間模様も見ちゃったり何だりしてさ。最近は怪談より人間のが怖いじゃんって思うようになっちゃった」

「また闇の深そうな……」

「後ちょっと、最近お化けはお化けなのか? って思うようになったよ」

「……?」


 不思議な物言いに首を傾げると、美晴が同じく首を傾げた。


「認知症の症状のひとつで、幻視や幻覚っていうのがあるんだけど。誰も居ないのに、そこに『妹がいる!』とか『お父さんがいる!』なんて事がよくあって……」

「ああ……」

「これは認知症という病気が見せている幻覚なんだよね。そう思うと幻覚と幽霊の境目はどこだー? なんて」

「確かに……幻覚の中に本物が混ざってるって時もあんのかな?」


 そもそも二人とも霊感が無いので、真偽は確かめられない。若気の至りで大学時代に心霊スポットへ行った時だって何も無かった。


「分かんないよね。まあ幽霊だったら怖いから、全部幻覚だーって片付けちゃうんだけどさ。最近ひとつだけちょっと不気味だなって思った幻覚があって」

「お、なになに?」

「私の経験がまだ足りないだけかもしれないんだけど、『犬に齧られる』っていう幻覚を見るお婆さんが居るんだ。そういうのあんまり聞いた事なくって」


 美晴の話によると、認知症の幻覚は大体が家族や過去の記憶にまつわるもの“だろうな”と思えるものなんだそうだ。誰にも見えないのに『そこに居る』と言う時は、大体家族や親族、学生時代の恩師や近所の奥さんなんて事もある。知人ではない『知らない男が部屋に入って来た』なんてパターンもあるが、そういう時はディティールが酷く曖昧だったり、実際他の利用者が入り込んでいたりする。


「じゃあ、そのお婆さんの過去に犬に齧られた経験があったとかじゃないか?」

「そうかなって思うんだけど、何かリアリティがあって気持ち悪いんだよね」


 面会に来る家族へそれとなく確認した所、犬を飼った事は無いし噛まれた事も無い筈だと言われた。ただ子供の頃の経験なら息子世代には分からない。


「一匹じゃないんだよ。沢山の犬が居るんだって。鼠色でまだらで、グッグッて蛙みたいに鳴きながら噛み付いて来るんだって。不気味じゃない?」

「ワンとかガルルじゃないんだ?」

「そう」

「……猫に喰い殺された爺さんの話みたいだな」


 知らない話らしく、美晴が首を傾げた。信夫はネットの怪談でそういう話を読んだ事があったので、簡単に説明してやる。


 若い頃に沢山の猫を虐待していた老人が病床で『猫が俺を喰って来る』と訴えるのだが、女房は『そんなもの居やしませんよ』と取り合わない。だが霊感がある娘には実際猫の霊に齧られている父親が見えていて、それを母親に告げると『あんたも見えるのね』と何でもない事のように言ったそうだ。結局老人は『猫が猫が』と言いながら苦しみ抜いて死んだ。


「そんな話あったんだ。知らなかった……」

「死んだ老人は、酷いDVモラハラ男だったそうだぜ。娘も被害に遭っていたから、結局は母親と同じく猫に喰われる父親を見殺しにしたそうだ」

「ざまあって事か……そういう事なんだったら怖いけど、今回は違うかな……」

「そっか」

「幻覚が出て騒いでる時以外は、すごく優しくて可愛いお婆ちゃんなんだ。家族にも愛されててさ。絶対犬の虐待なんかしてないよ。そもそも息子さんが犬アレルギーで飼った事もないそうだし」

「なら違うかぁ」


 信夫も納得し、それ以上追及はしなかった。


 その後は逆に仕事の調子を問われたり、最近よく見ているホラーチャンネルの情報交換などをし、この日は別れた。その数日後、美晴からメールが届く。内容は『本人に聞き取りしたら、子供の頃に野良犬に噛まれた事があるんだって! 腫れて熱も出て大変だったって! あーすっきりした!』というもので、信夫も成る程それでかとすっかり納得してしまった。


 それから繁忙期に入り、次に美晴と会ったのは半年後の年明けだった。新年会を兼ねて会わないかと誘いを入れると、二つ返事でOKが出た。日時を調整し、新年なので奮発してちょっと良いお店で豪勢に鍋を突こうという事になる。当日先に着き、予約の個室に通され待っていると――襖が開いて美晴が姿を現した。


「おう、明けましておめでと――」

「あは、驚いた?」


 最初は別人かと思った。その位これまでの美晴とはかけ離れていた。痩せたといえば聞こえは良いが、愛嬌のあった丸顔が削ったように細り、短く真っ黒だったショートカットも明るい色の洒落たボブヘアに変わっている。飾り気の無かった服装も流行の女子らしい物になっており、介護の為に短くしていた爪も長く伸びて華やかなマニキュアが施されていた。


「え、彼氏でも出来たん……?」

「違うよ、介護やめたんだ。今はアパレルショップの店員してて、それで」

「あ、ああ……」


 おしゃれも仕事の内という事かと納得はしたものの、あまりの変わりように呆然とした。様変わりした彼女にときめくというよりは、何処かやつれたような気配があって心配の方が先に立つ。


「何か、あったのか……?」

「うん……食べながら話そうか」


 美晴も向かいに着座し、先にドリンクの注文を済ませた。程なくお通しと共に、ドリンクと予約しておいたコースの御造りが運ばれてくる。乾杯してから食事を始め、漸く美晴が話し始める。


「あった事をそのまま全部話すから、信夫の感想を聞かせて欲しい」

「お、おう……」


 美晴の話は、以前に話した『犬に齧られる』というお婆さんの話だった。


 野口スエさん、89歳。広島出身で八人兄弟の末っ子。集団就職にて上京した所謂『トランジスタ娘』というやつで、女子工員として電子機器工場に勤め、二十代で紹介された見合い相手と結婚。以降は専業主婦として夫に尽くし三人の息子を育て上げ、平凡ながら穏やかに暮らして来たそうだ。


 二年前に連れ合いを亡くし、一人暮らしをしていたが認知症状が出始め独居が難しくなった。三人の息子達はそれぞれ所帯を持っていたが全員遠方暮らしの為、本人の『お父さんと暮らした土地に居たい』という希望もあり、幾つかのショートステイを転々した後、美晴の施設に入所した。


 現病歴は高血圧と白内障とレビー小体型認知症。服薬と点眼で対応。過去に大腿骨骨折をしており移動は車椅子を使用。穏やかな性格で介助への拒否も無し。家族は遠方だが何かあった際のレスポンスは早いし、休日には面会にも訪れる。まあ珍しくはない、よく居る感じの入居者だ。


『犬に齧られる』という幻覚が出た時だけは騒いだが、他は穏やかで可愛いお婆ちゃんで職員からの人気も高かったという。幻覚も最初はシーツを触らせて『いませんよ』と教えたり『犬は連れ出しておきますね』とエア犬を抱えて出る仕草をすれば納得して落ち着いたという。


 だが幻覚は徐々に悪化していった。騒ぐ頻度が上がり、大声を上げて恐慌状態になる。レビー小体型認知症というのは日本で2番目に多い認知症で、妄想や幻覚、大声を出すなどの症状が出やすい脳の病気なのだそうだ。施設側もそれは当然心得ているので、都度対処し、往診医にも相談していた。


 悪化した野口さんは夜中に大声で騒ぐ事が多かったので、他利用者からの苦情もあり、何かあればすぐ駆け付けられるようにしていた。若くて体力のある美晴は夜勤を多くしており、対応する機会も多かったらしい。


 野口さんの状態は日に日に悪化し、見ていて胸が締め付けられる程の恐慌だったそうだ。何度も『いたい、齧られてる。お父ちゃん助けて……』と亡くなった夫に助けを求めて、不自由な体をばたつかせて泣き叫ぶ。落ち着かせるのも一苦労で愚痴を言う職員も増えていたが、本人にとっては幻覚とはいえ『実際に起きている』体感がある為、美晴は酷く同情していた。


 そんなある日、野口さんがベッドから転落したと聞いた。美晴は休みの日だった為、実際の現場は見ていないがいつもの幻覚で怯えて暴れ、逃げようとしてベッドから落ちてしまったそうだ。幸い骨は折れておらず痣を作る程度で済んだが、翌日出勤し、処置をするナースの手元を見て美晴は息を呑んだ。


 野口さんの作った痣は普段見るような形ではなく――まるで獣の噛み跡のようだった。ナース曰く、ベッド柵に変にぶつけたのかしらなんて言っていたが、美晴にはそうは思えなかった。


 流石に危険があるという事で往診医と家族と相談し、就寝時には睡眠導入剤と、落下を防ぐ為にベッド周囲を囲うように柵を設置する事が決まった。こうした対策は本人の機能を奪ってしまったり、拘束に当たる場合があるので家族の許可を取り慎重に行われる。睡眠剤は合う合わないがあるし、量によっては強過ぎたり弱すぎたりするので此方も手探りで調整していく。


 初日の夜勤は美晴だった。ごく弱い睡眠導入剤が処方された野口さんは、21時にはぐっすり眠っていた。だが、夜中の二時頃になると薬が切れたのか騒ぎ出した。慌てて駆け付け宥めるが、普段より泣き喚いて大変だったらしい。薬が合わなかったかと息を吐いた時、『グッグッ』という幻聴を聞いたような気がした。気がしただけだ。すぐにあまりの忙しさに忙殺されてしまったから。


 二週間ほど様子を見ても状況は改善しない為、また別の薬が処方され――と試行錯誤を繰り返したが、劇的な改善は見られなかった。家族も心配して精神科を受診させたりしたが、薬が増えただけで解決には至らない。そもそも認知症が原因なので、進行を遅らせたり対症療法を試すしかないというのが現状だった。


 三ヶ月も経つと、愛らしかった野口さんはすっかり様変わりしてしまった。日中は薬の影響でぼうっとして、以前は自力で食事が出来たりトイレで排泄出来ていたのが、食事介助やオムツが必須になった。夜中は不規則に目覚めては大声で泣き叫ぶ。今ではあまりに苦情が出るので、元居た部屋から耳の遠い利用者居室に囲まれた、苦情が出辛い部屋へ移されていた。

 

「それは……きついな……」

「信夫だったら見てられないよね、きっと。けど、言い方は悪いけど――介護の世界じゃ、無い話じゃないんだよ。犬っていうのがちょっと珍しくて、反応が激しいだけで野口さんみたいな感じになっちゃう人は他にも居るんだ」

「…………」


 病気や障害で似たような症状になる人も居るし、もう治療をしても意味が無いという看取りで、一晩中『痛い、苦しい』と叫ぶ利用者さんを看取った事もあるそうだ。まだ介護の仕事を初めて二年程だった美晴でそうなのだから、ベテラン達も『可哀相だけど仕方ないよね』といった感じだったらしい。


「その、入院とかは出来なかったのか……?」

「入院できる状態じゃないっていうのが正直な所かな。勿論骨折とか怪我とか、体調の急変は別だよ?」

 

 あくまで野口さんの場合は施設で生活が可能な状態で、入院した所で治療をする要素がある訳ではない。骨折して運ばれたって、年齢で手術が出来ないとなったら自然治癒という事で返される世の中だ。美晴が唇を噛み締め、ぽつりと呟いた。


「そう……よくある話だったんだ。皆、私も、そう思ってた……」


 そのタイミングで豪勢なカニ鍋が運ばれてきて、会話が途絶える。美晴が努めて笑顔で店員に『〆は雑炊でお願いします』と頼んだ。店員が退室すると、美晴が首を振り『さ、食べよ。美味しそうだよ』と鍋に視線を向ける。


「あ、ああ……」

「続き、美味しくなくなっちゃうかもしれないけど話してもいい?」

「…………ああ」


 信夫が唾を飲み込み、頷いた。美晴が一度信夫をじっと見てから、お玉を取って鍋をよそい始める。


「それから一月位して、野口さんは亡くなっちゃったんだ」

「え、原因は?」

「老衰もあるけど、食が細くなっちゃってね。人間って食べられなくなると早いんだよ。その頃には眠っている時間が多くて、思い出したように叫んでたかな」


 よそって貰ったカニ鍋の取り皿を受け取り、信夫が間抜けに頷く。


「結局死因は心不全っていう事になった。雨と雷が凄い日で――夜勤中にね、私が看取ったんだよ。巡視で見回りに行った時、もう呼吸が怪しくてすぐに御家族や往診医の先生に連絡してさ」


 美晴が自分の分もよそい終えると、思い返すように目を閉じた。


「……普通は意識が無いまま、どんどん呼吸が荒くなって亡くなっちゃうんだ。けど野口さんは違った。先生や御家族が到着するまで、私はなるべく野口さんについていた。一人で亡くなるのは寂しいと思ってね」

「うん……」

「断末魔っていうのかな、映画の悪魔憑きみたいに仰け反ってビクンビクンする感じ分かる? 絶叫しながらそんな風になって、私は驚いて見てるしか出来なかった。あんな亡くなり方は、初めてだったんだ……」


 聞いただけで壮絶だ。そんな思いをしたなら辞めるのも頷ける――と思った時だった。目を開いた美晴が信夫を真っ直ぐに見る。


「また、聞こえた気がしたんだよ」

「え……」

「蛙みたいな『グッグッ』て。それだけじゃなかった。雷が光った時に、影が見えたんだ」


 美晴は確かに見たのだという。稲光に照らされて壁に落ちる――野口さんの身体に群がる沢山の獣のような影を。思わず絶句した信夫を、美晴が何処か暗い目で見つめている。


「……凄く忙しかったし、疲れてたし、私も幻覚を見たのかもね。それだけだった。もう次の瞬間には、野口さんは息を引き取ってたんだ」


 その後往診医が駆けつけ、心不全と診断した。野口さんの身体には全身掻き毟ったような跡があり、本人の爪に皮膚や血が付いていた事から虐待は疑われず――発作の苦しみに耐えかね自ら掻き毟ったのだろうと判断された。美晴には、沢山の犬が噛みつき引っ搔いた跡にしか見えなかった。


 家族の到着は急いでも朝になるという事で、美晴はもう一人の夜勤と共に野口さんの身体を清拭し身なりを整えた。本来葬儀屋でしっかりやってくれるが、往診医による検死が済んだ後はせめてもの気持ちとして施設の方でも行う事になっている。もう一人の職員が『野口さん大変だったね、頑張ったね……』と声を掛けながら鼻を啜る傍ら、美晴はずっと顔を強張らせていた。


 朝になると家族が到着し、皆一様に悲しみ涙を流した。野口さんは本当に愛されていたのだ。御家族も穏やかな性質で、面倒を見てくれた職員に何度も感謝を述べてくれた。やがて葬儀社のスタッフが到着し、野口さんの御遺体は運ばれて行った。職員一同で見送り――後は通夜の知らせがあれば出たり出なかったり、後日に家族が部屋の荷物を取りに来て、清算を済ませて、故人との関係はおしまいだ。


 美晴はずっと何を見たのか言えなかった。言った所で信じて貰えないだろうし、何より故人を悼む家族を前にとても口に出せなかった。翌々日、出勤すると野口さんの通夜の案内があった。近くの葬儀場でやるらしく、希望者は勤務外なら御焼香をしてきても良いとの事だった。


 行くかは正直迷ったが、ベテランのパートさんや仲の良い介護士が仕事帰りに行くというので同行を決めた。誰にも言えないもやもやした胸中の区切りにしたい思いもある。通夜自体は普通で、見知った御家族の他に親族らしき人達も居た。


 御家族に頭を下げ、焼香をさせて貰う――と、仕事帰りの制服姿で来たからだろう。『施設の方ですか?』と高齢の喪服姿の男性が声を掛けて来た。どうやら野口さんの兄らしい。高齢で広島からは移動が難しく、生前は一度も面会に来られなかっただとか、妹が世話を掛けたようですみませんでした等々話され、愛想の良いベテランパートさんが主に受け答えをしていた。


 最初は和やかな故人の思い出話という感じだったが、途中で一気に空気が変わった。ベテランパートさんが何の気なしに『犬』の話をしたのだ。別に愚痴でも嫌味でもなく『スエさんは子供の頃に犬に噛まれたのが余程怖かったんでしょうね。施設でもよく犬に噛まれると騒がれていましたよ』と言っただけだ。その瞬間、兄の顔が強張った。どうやらそこまでは聞いていなかったらしい。


 まるで問い詰めるように詳細を聞かれて『やばい』と思ったのだろう。ベテランパートさんがやんわり切り上げ深く礼をし、皆を促し帰ろうとする。美晴も慌てて追従したが、気になり途中で振り返ると――野口さんの兄は青褪めた顔で口元を抑えていた。その時、聞き間違いでなければ確かに聞いたのだ。


『そんな……おげどさん……?』と呟くのを。そのまま帰宅し、今に至るまでもう野口一族との接触は無い。それからすぐに美晴は辞表を出し、施設を離れた。


「おげどさんって何だ?」

「分からない。分からないから調べてみた。それで私は介護を辞めたんだよ」

「結局何だったんだ?」

「……言いたくない。気になるなら自分で調べて」


 硬い表情で美晴が首を振り、カニを食べ始める。信夫は戸惑ったが、気にはなるのでスマホで『おげどさん』と検索してみた。検索の上位はプロレスラーだったり、似た響きのファンタジー小説だったりで完全一致の物はない。だが、その羅列の中に『外道』という文字を見付けてあっと思った。


 今度は『お外道さん』で検索してみる。すると妖怪の出て来る漫画や小説に行き当たった。妖怪か……と思い、今度は野口さんの出身である『広島 げどう』で検索してみる。今度は有名なフリー百科事典の記述がトップに来た。


「…………」


 その記事を読み込む内に、どんどん信夫の顔が青褪めた。ゲドウ、ゲド、外道。中国地方に多く伝承がある憑きものの一種。地域によっては形や種類も様々で、中には犬――犬神というものもあった。鼠色、まだら、鳴き声は蛙のようで……美晴から聞いた話と幾つも共通点があった。


「憑きもの筋――だとしたら、野口さん自体が善人でも祟られる事はある、のか」

「…………」


 そう呟くと、美晴が顔を背けた。その反応から美晴も同じ所に辿り着いたのだと悟る。憑きもの筋という言葉自体は、信夫も美晴も様々な怪談を好むから知っていた。色んなパターンはあるが、簡単に纏めると『家の繁栄の為に何某を祀るが、大体何らかのルールがあり、それに違反した場合祟られる』というものだ。何某部分にはイタチや狐や蛇や、犬や神様や妖怪や色んなものが入る。


 またスマホの画面に視線を落とす。これがそうかは分からないが、酷く気になる記述があった。『ゲドウはひとつの群れにつき75匹おり、ゲドウ持ちの家に娘が産まれるたびに群れがひとつ増え、その娘が嫁に行くと、産まれたとき増えた群れが一緒に嫁ぎ先へついて行くという』という部分だ。


 ――沢山の犬、東京で結婚した広島出身の娘。噛まれる、助けて、お父さん。気付けばじっとり汗を掻いていた。施設に入るまで無事だったのは、野口さん自身も『おげどさん』を祀るルールを把握しており、祀っていたのではないだろうか。だがそれは子供達の世代までは受け継がれていない。恐らく迷信めいたものとして受け継がない事にしたのか、自分の死に際位に伝えようと思っていたのではないだろうか。


 だが認知症になり施設に入り、祀る事も伝える事も出来なくなってしまった。そして、決して迷信ではなかった『おげどさん』に祟られた。


「…………」

「……何が怖いってさ」


 何も言えない信夫を見て、また美晴がぽつりと呟いた。


「全部認知症で済ませて、誰も気付けなかった事だよ。五か月も野口さんは犬に噛まれて泣き叫んでいたのに、私達は気付けなかった。何もできなかった……」


 憑きもの筋が存在した事より、『おげどさん』が存在した事より、誰も気付かずに野口さんを見殺しにしてしまった事が一番怖いと美晴が呟いた。


「もう私、介護士は出来ないよ。幻覚か本物か、分からないんだもん。本物だったとしても、何も出来ないんだもん」

「そうか……そうだな……」


 信夫も同意するしか出来なくて、口を開けたまま間抜けに頷いた。小さく鼻を啜った美晴が、努めて空気を変えるように笑顔を作ってみせる。


「じゃあ……信夫の感想は……?」

「そりゃもう……無力な俺らはカニ食おうぜ、しか言えないよ……」

「はは、そりゃそうか……」


 力無く笑ったままの美晴が、小さく頷き新たなカニに手を伸ばした。


 

 ――――――――――――――――――――――――――――――


 ◇引用◇

 「ゲドウ」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』。2022年6月25日 (土) 08:59 UTC、URL: https://ja.wikipedia.org

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