第2話

 画面に映った秋希は、病室、それもベッドの上にいる。

 半年前と変わらないように感じたのも束の間、前よりも痩せていることに気付いた。


理桜りおちゃん、久しぶり。驚いた?』


 理桜の混乱なんて無視して、秋希は手を振っている。

 その笑顔も声も、あまりにも記憶通りで、嬉しいような切ないような、いろいろな感情が混ざりあって、涙が込み上げてくる。


『理桜ちゃん、怒ってるだろうなあ……と思いつつ……言いたいことがあったので、動画を撮ってます』


 すると、秋希は視線を上下に動かして悩み始めた。

 そんな秋希を見て、理桜は笑い声をこぼした。


「なに? どうしたの?」


 その声、その表情は、まだ秋希が好きだと物語っている。


『……ダメだ、言いたいことがありすぎる。よし、一番伝えたいことだけにしよう』


 秋希は名案と言わんばかりに、人差し指を立てて腕を伸ばす。

 そして、優しすぎる笑みを浮かべた。

 理桜が忘れかけている恋心を思い出させるには、十分すぎる笑顔だ。


『理桜ちゃん、僕と出会ってくれて、ありがとう。理桜ちゃんと出会って、理桜ちゃんを好きになれただけで、僕は生まれてきてよかったって思える。もし、人生で誰かを好きになるための気持ちに限りがあるなら、僕の気持ちは、全部理桜ちゃんのものだよ』


 そこまで言って、秋希の笑顔は照れ笑いに変わった。

 それから、視線が落ちる。徐々に、秋希から笑顔が消えていく。


『でもね、僕のことは忘れてくれていい。僕の気持ちも、僕との思い出も、全部全部、忘れてね』


 秋希は泣きそうになりながらも、口角を上げる。

 そして、手を振った。


『バイバイ、理桜ちゃん。大好きだよ』


 動画は、そこで終わった。

 理桜は動けなかった。秋希の状況や言葉を処理するのに、時間が必要だった。

 スマホの画面がそっと暗くなったとき、新たにメッセージが届く。

 また画面を開き、メッセージに目を通す。


“はじめまして、朝倉秋希の兄の、一颯いぶきです。今の動画は、一ヶ月前に弟に頼まれて撮ったものです。弟は貴方に見せるつもりはないと言っていたのですが、俺は見せるべきだと思い、送りました”


 理桜は会ったこともない相手にメッセージを送ることに緊張しながら、文字を打っていく。


“はじめまして、向坂理桜です。動画、ありがとうございます”


 それを送ってから、病室で笑う秋希の姿を思い出す。


“秋希は、元気ですか?”


 送られたメッセージを見て、理桜は送信を取り消そうとした。

 だが、それより先に返事がきた。


“今朝、息を引き取りました”


「……は? え、待って……嘘……」


 理桜は混乱したまま、秋希のスマホに電話をかける。


「はい」


 何度もかけてきた電話口から、知らない男の人の声がする。

 その動揺も相まって、理桜は言葉に詰まった。


「あの、秋希が……秋希が、死ん、だって……」

「……はい」


 声の暗さから、それが真実なのだと思い知らされる。

 理桜も一颯も、積極的に言葉を発しない。

 重たい沈黙の中で、理桜は感情を押さえ込み、一筋の涙をこぼす。

 夜空に浮かぶ月は、理桜を闇から引き上げようとしているように見えた。


「……秋希に、会いたい……」


 ずっと、言いたくても言えなかった言葉。

 涙だって、堪えきれなくなっていた。


「……会いますか?」


 電話の向こうから、躊躇いつつ提案される。

 秋希に会える。

 それが、どういうことなのか。

 理桜は当然理解していた。


「……会いたいです」


 だからこそ、その表情は覚悟を決めていた。


   ✿


 一颯は、出入り口で理桜が葬儀場に到着するのを待っていた。

 月明かりに照らされて、彼女はやって来る。


「向坂理桜さんですよね。はじめまして、朝倉一颯です」

「……はじめまして」


 腰を曲げた理桜が顔を上げると、弱っているのがわかった。

 一颯は、言葉に迷う。

 来てくれたことへの感謝か。彼女への気遣いか。

 どれも、違う気がした。


「……こっちです」


 屋内に入り、階段を登っていく。

 一颯は、背後から聞こえてくる足音に合わせて、足を運んだ。

 安置室に入ると、誰の姿も見えなかった。


「ご家族の方は……」

「両親には寝てもらってます。身体的にも、精神的にも疲れていると思ったので」


 一颯の言葉に、簡単に相槌を打ち、理桜は秋希の元に向かう。

 知っている寝顔がそこにはあり、ここまで来ても、秋希が息をしていないことが、信じられなかった。


「……触れても?」


 振り向くと、一颯は手のひらで許可をする。


 伸ばした指先は、怯えながら、秋希の頬に触れた。

 当然、温もりは感じられない。

 理桜は一気に実感した。


 それでも、涙を流しながら笑顔を作る。


「……久しぶり、秋希」


 静まり返った室内で、理桜の鼻水をすする音が響く。

 唯一、理桜を見守っている一颯は、視線を落としていた。


『理桜ちゃんは、桜みたいな人なんだ』


 あの動画を撮ったとき、一颯は理桜の人となりが気になって聞いた。

 その答えが、それだった。


『儚くて美しいってことか』

『もちろんそれもあるけど、それだけじゃない。理桜ちゃんは、一人で立つことができる強さのある女性だ』


 秋希が未練を抱いている表情を見て、一颯は理桜への嫌悪感を抱いた。


『だから、病気のお前を捨てて、一人で生きる選択をしたと?』


 一颯の不機嫌そうな声を聞くと、秋希は驚き、首を横に振る。


『まさか。理桜ちゃんは病気のことは知らないよ。教えてないんだ。このことを知っちゃうと、きっと、理桜ちゃんは耐えられない。だから、僕からお別れをしたんだよ』


 秋希が言っていた、儚さや弱さ、そして強さ。聞いたときは矛盾していると思っていたが、理桜の姿を実際に見て、一颯は理解した。


「秋希は……いつから、病気だったんですか?」


 振り向いて一颯に話しかけるが、理桜は秋希の傍を離れようとしない。


「高校時代に罹った病気が、年が明けたくらいに再発したんです。体調を崩したのは、それより前……秋ぐらいって言ってたかな。ただ、今回は治る見込みがなかったようで……」


 一颯はその先を言えなかった。

 理桜の視線は、また秋希に移る。


「そんなに前から一人で闘ってたなんて……言ってよ……」


 理桜の悔しそうな声を聞いて、一颯は知らないとはいえ、あんなことを言ってしまったことを後悔する。


 きっと理桜は、秋希の病気のことを知っていたら、毎日でも病室に来たんじゃないか。


 まだ顔を合わせて数分しか経っていないのに、そう感じた。

 それと同時に、このままでは、理桜が秋希に囚われてしまうような気がした。


「……秋希は、貴方に、自分のことは思い出にしてほしい、なんなら、忘れて他の人と幸せになってほしいと」

「忘れませんよ、秋希のことは」


 理桜の力強い声が遮った。


「本当は、忘れようと思っていました。私の想いが、いつか秋希の邪魔になる気がしていたから。でもこれは、秋希が生きていたらの話です」


 秋希の思いが無下にされた気分だった。

 だけど、理桜の真剣で、寂しそうな横顔を見ると、なにも言えない。


「私は、これからも秋希がいない世界を生きていくんです。無理に秋希の願いを聞いて、心を殺しながら生きていくなんて、できません」


『理桜ちゃんは、一人で立つことができる強さのある女性だ』


 それをひしひしと感じる佇まいだった。

 理桜は今一度、秋希の頬に触れる。

 変わらない現実に、視界が滲む。


「……秋希、メッセージありがとう。私だって、秋希に全部気持ちをあげたいけど、怒られそうだから、やめておく。少しだけ、これから出会うかもしれない誰かに残しておくよ」


 理桜は一歩、後ろに下がった。

 動画の秋希と同じく、涙を浮かべながら笑顔を作る。


「バイバイ、秋希。大好きだったよ」


 そして安置室を出ていく理桜の背中を、一颯は見ていることしかできなかった。


 一人残った一颯は、ゆっくりと秋希に近寄る。

 止まってしまった、弟の時間。そうは感じさせない表情だが、触れれば嫌でも思い知らされる。


 兄弟でも心が食いちぎられそうなのに、恋人だと、どれほど苦しかっただろう。半年、その温もりを感じていなかったとしても、あの様子だと、簡単に忘れられなかったことだろう。


 それでも彼女は、ここで笑顔を見せた。


「……彼女、桜みたいな人だな」


『でしょ?』


 一生聞こえるはずのない声に、嬉しそうに返された気がした。


   ❀


 凍てつく寒さは和らぎ、すべての生命が生きやすい季節がやってきた。


 理桜はベッドから降りて、カーテンを開ける。窓の向こうには、美しい水色が広がっている。さらに窓を開けると、爽やかな空気が流れ込んでくる。


 深呼吸をしながら、身体を伸ばす。

 それから、お気に入りのものを置いたスペースの前に移動した。


「おはよう、秋希。今日はお花見日和だよ。どこの桜を見に行こうか」


 応える声はなくとも、理桜の笑顔は柔らかかった。




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

リフレイン 碓氷澪夜 @usuimiya

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画