作品集2

淡雪

第1話時間がない

 ある学者―Aが、机に寄りかかって言った。

「時間なんてものは、実はないんだよ」

 

 それを近くの椅子に腰を下ろして聞いていた別の学者―Bが、直ぐ様反論に出る。

貴方アナタは何を言っているのです?

時間は未来から今を通して過去へと途切れることなく流れていくものですよ?」

 

 すると、黙って聞いていたAは

「では、その未来とやらは一体何処から生まれてくるんだね?」

と、顔色を変えずに、Bに訊ねた。


Bは小さく唸ってから

「そ、それは、まだ誰もが研究中で……」

と、まるで苦虫を噛んだような表情カオで答える。


「研究も何も……」

 Aは溜め息と共に、言葉を吐いてから

「本当に時間という概念は幻想なのだから、研究し続けても答えは見つかりはしない」

と、呆れてそう説明し

「今すぐ研究を中止するべきだ」

と、特に声を張り上げることもなく、困惑し続けるBにそう忠告した。


 真っ向から自分の研究を否定されたBは、“面白くない”と思い

「それでは、時間という《モノ》概念が無いとオッシャるのでしたら、ここには何があるのですか?」

と、Bにしては珍しく、目を吊り上げて訊ねる。


「それはだな……」


勿体ぶってなかなか口を開かないA。


苛々しつつも、興味深そうに瞳を少しづつ見開いていくBに対し、漸くAは

「それは“今”という概念モノだ」

と、しっかり明言した。


「“今”……ですか?」

「そうだ、“今”だ」


Bの台詞を誇らしげにおうむ返ししたA。


「この世界には“今”しかないのだよ、B君」

「しかしAさん、我々人類は生まれた時から“未来、現代、過去”の順番で、時間の経過という流れを体験してきたのは、紛れもない事実です」

「確かに、君が言う通り“時間の経過”という点において話を進めるなら、正しいことを言っているが……」


 言葉を切り、机から離れたAは、わざとらしく音を立て、何も書かれていない黒板へ歩み寄る。


 それから偶然瞳に飛び込んだ白いチョークを、徐に手に取りながらAは

「そんなに恐いをするなよ」

と、睨むBに忠告した。


“何を始めるつもりだ?”とBが怪訝な眼差しを送っている姿に、Aはまるで“落ち着くように”と言わんばかりに、微笑する。


 そして、高齢とは思えない程の華麗な動きで反転したAが、黒板にデカデカと書かれた文字モノは、“今”という文字だった。


「では訊くが、君は過去や未来と呼ばれている時間帯で“体験している”と実感したことはあるかね?」

「……いや、ないです」

「そうだろう、そうだろう」


 AはタジタジになるBの前で、得意気に頷き、話を続ける。


「未来はまだ来ていないし、過去は当の昔に過ぎ去った時間モノ故に、思考でしか感触等を想像することが出来ない」

「うむ」

「しかし“今”なら、実際に物質を見たり触れたりして、実感……つまり、体験出来るのだよ」

「確かに、そうですね……」


 Bは、Aが長々と説明した意味コトを、漸く把握して深く頷いた。


 すると、Aは満面の笑みを浮かべてチョークを置きながら、ゆっくりと喋り出す。

「言い換えれば、過去や未来に思いを馳せても、不安が募るだけで、起きた出来事及びこれから起こる出来事は修正不可能が、“今”なら物事を肌で感じられるから、その場で間違いを修正出来る」

「つまり、過去・未来は幻想で、“今”だけが現実と言える時間帯なのですね」

「まぁ、そういうことだな」


 AはBの受け答えに満足し、黒板に体を預けるも、何か重大なことを思い出したのか、素早く顔を向かい側にある掛け時計へと向けた。


「何ということだ!?」


 突然焦りの色を見せ始めたAは、そんな言葉を発し、“まずい、まずいぞ”と、ブツブツ呟き出した。


「どうかなされましたか?」

「あと15分で、物理の授業が始まる!」

“第2理科室は、ここから遠いんだよな”と、苛々しながら呟いたAは

「私はもう行くから、後の事は頼むぞ!」

と、早口で告げ、近くの引き戸へと歩み寄る。


 そして、ピタリと立ち止まったかと思うと同時に、引き戸を威勢良く開けた。


 そんなAの姿に、驚きと呆れを感じたBだったが、ここは冷静を保ち

「……分かりました、黒板の文字は僕が消しておきますから」

と、半ば納得したような口調で伝える。


 廊下をパタンパタンと、特有の音をたてて歩き始めるA。


 その後ろ姿を、引き戸の隙間から誰かがこの音に気付いて駆けつけやしないかと、内心でハラハラしながら、Bは見送り続けた。


 やがて、Aの姿が暗闇に吸い込まれるように消えたのを確認したBは、漸く安堵の溜め息を吐く。


 それから、緊張の糸が切れたのだろうか?


 ぐったりしたBは、普段あまり見せない呆れ顔で

「いやぁ、長い説教だったな……」

と、首の凝りを取る為に、軽く回しながら呟く。


「Aの話は、そこそこ為にはなるのだが、しつこくていかん」


 Bは眉をひそめ、先程の特別講義にも似た会話を思い出して身震いした。


“それに……”と、Bは再び溜め息を吐き

「あのそそっかしさもなければ、もっと尊敬出来るのだが……」

と、長年心にしまっておいた台詞コトバを口にする。


「ここがその第2理科室だよ……」


 そう言いながら、Bはさも面倒臭そうに黒板に近づき、“今”という文字を消し始めた。


お仕舞い



















 

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