長い夢 大きな木のある道

はいの あすか

第1話

 かつて夢をともに追った仲間と語り合えば、いつでもあの頃の心に戻れる。友人とぼくが、正にそんな関係だった。

 

 あの夜、あの夢を見るまでは——。

 

 

 

「上司の言うことなんか鵜呑みにしなくていいよ。センスで勝負だ、センスで」

 

 大学時代からの友人の部屋で、二人で飲むことが就職してから増えた。彼は昔から揺るがず自分のセンスを信じ続けていて、羨ましいな、と思う。

 

 大学では、ぼくはドイツ文学を、彼は抽象画を夢中で学び、いつしか知り合うようになった。

 卒業後に就職した、しがない営業会社の同期に彼がいた時は意表をつかれたが、心強くもあった。目指す方向は違えど、芸術の世界で本気で夢を追った者同士、同じ迷いや悩みを感じていた。

 

 仕事のこと以外でも、時には芸術の話をすることもある。悔しくもあるが、本気で目指していた頃よりも道を逸れたいまの方が、それについて冷静で的確に語ることができることにも気がついた。

 実はぼくも友人も細々と創作活動は続けていて、互いに刺激を与え合っていた。

 

「あーあ、明日も仕事かあ。

 こんな人生になるなんて数年前まで想像もしてなかったなあ」

「まあ、これはこれでいいんじゃない。ちょっとずつ新作も描けてるんだろ?」

「そうだけどさ。

 ちまちま書き進めてると焦れったくて、もっと絵の方に集中したくなってくるんだよなあ」

 

 彼はこのところ仕事量を増やされ、見るからに疲れている。友だちとしても同期としても心配だ。

 明日に備えて寝るとするか、と話は落ち着き、ぼくは彼の部屋をあとにした。

 

 

 

 その夜、ぼくは奇妙な長い夢を見た。

 

 

 

 ぼくは、荒野にまっすぐ伸びる道の上に立っていた。

 

 一帯は赤茶色の土くれが果てしなく広がり、激しい凹凸はグランドキャニオンのようだ。

 ぼくがいるのは、その土くれを画用紙にして鉛筆と定規で一気に引いた線のような、コンクリートの道。センターラインなどは無く、大地に現れた何かの境界線にも見える。

 

 その道の行き着く先には、大きな木が生えていた。荒野には似つかわしくない、張りのある葉が茂り、太い幹がずっしりと根を下ろす、広葉樹だ。

 ずっと離れたここからでも見えるから、高さ数十メートルはあるだろう。

 

 この世界を見渡す限り、緑に溢れるのはその場所だけだった。

 ぼくがどうやって、何故この世界にいるのかは思い出せないが、穏やかな木漏れ日の揺れるあそこに行って休もう、とにかくそう思った。

 

 ぼくは大きな木に向かって歩いた。

 歩き始めて気付いたが、ぼくには同行人がいた。ぼくの歩程に合わせて、背後で足音がついてきている。

 

 誰だったっけ? と思って、その顔を見ようとすると、

 

「後ろを向いてはいけない」

 

 と、声がした。淡々とした、しかし、有無を言わさぬような威圧感があったから、ひとまず従うほかなかった。

 

 すぐに時間感覚は無くなったが、数十分は歩いたと思う。木のところまではまだまだかかりそうだ。しかし、着実に近づいているのは間違いない。

 

 一本道だと思っていたが、進んでみると、所々で高速道路の出口のように分岐する道がある。

 その道は、分岐したあと少し行ったところで途切れていた。スパッと割ったような断層の断崖上で終わっていたのだった。

 

 ぼくは興味を引かれて分岐点で立ち止まった。すると、崖の下のほうから声がする。人が大勢いて遠くでパーティでもしているような賑やかな笑い声だ。

 崖のほうに目を凝らすと、道の途中に立て看板があり、何やら文言が書かれている。

 

『見えているものが そこにあるとは限らない

 見えていないものが そこにないとは限らない』

 

 見えているもの、道、大きな木、崖……。見えていないもの、同行人。確かに同行人の姿は見えないがはっきりとここにいる。しかし、文言の意味は曖昧でぼくには分からなかった。

 崖下に何があるのか気にはなったが、少し不気味だし、崖から落ちたりしたくない。何より、ぼくは大きな木の下に行かなければならないのだ。

 

 気を取り直して、もとの道を進むことにした。

 

 すると同行人が、

 

「お前は進むべき道を逸れず、大きな木への道を選んだ。

 よって、褒美を渡そう」

 

 そう言うと、ぼくの目の前にはイチゴの乗ったショートケーキが現れた。灰色の道の上に、皿とフォークを添えて。

 ぼくはショートケーキのイチゴが大好物だから、嬉しくて、反射的に涎を飲み込んだ。ただ、いまに限ってはケーキよりも水が欲しかったから、まだ食べずに取っておくことにした。

 

 

 

 再び舗装されたコンクリートの道を歩く。大きな木は依然として遠くにある。いい加減、喉の渇きが限界を迎えてきた。

 大きな木のところではお天気雨が降っているようだ。キラキラと輝く雨粒がここからでも眩しい。何でもいい、早くあそこに行って渇きを潤したい。

 

 しばらくすると、また道が分岐していた。気にしなければいいのだが、不思議と注意を引かれてしまう。

 

 先程と同じように立てられた看板には、

 

『終わらないうちに 振り返ることはできない』

 

 同行人に振り向くことを禁じられてはいるが、何かが終われば許されるというのか? それは一体……? 言わんとすることをはっきりと掴めないが、崖の下に行けば分かるのだろうか。

 看板を読んで、考えを巡らせているうちに、砂鉄が磁石に吸い寄せられるように、意識が強制的にぐいぐいと引っ張られるような感じがした。

 ぼくの視界は、ぐる、ぐる、と緩く回転しながら、看板とその奥の崖先へと、みるみる狭まっていく。

 

 すると、だんだん崖のほうから声が聴こえてくる。

 

「……でよ、

 

 ……おいでよ、

 

 こっちにおいでよ」

 

 疲労と水分不足のせいで、思わずフラッと崖のほうへ体を向けかけていた。が、

 

「そちらに行ってはいけない」

 

 と同行人の声がして、首筋のすぐ後ろにその仄かな体温まで感じたから、ビクッとして止まった。正面を向いたまま。

 誘惑に負けるぼくを引き止めるというよりは、ただただルールを読み上げるような、違反した結果については関心のないようなその調子が耳にこだまして、正気を取り戻したぼくは身震いした。

 

 同行人の視線を全身に感じつつ、もとの道を歩いた。

 

 また唐突に同行人が後ろから、褒美を渡そう、と囁くから、ぼくは肝が冷えて飛び跳ねてしまった。

 

 今度は、昔から憧れていた海外旅行のクルーズ船のチケットがそこにあった。何故ぼくの望むものを知っているのか、それを問うても無駄な気がして、黙ってそれを拾いポケットにしまった。

 

 

 

 大きな木のところにはまだ着かない。

 しかし、ずっと目指している目的地は、それだけで余計に色鮮やかに、輝いて感じるものだ。

 

 ピンと張った枝の一本一本も、滴る雨水も、群がる小鳥たちも、全てが最上級に素晴らしいもののように思えた。

 何としてでもあそこに辿り着かなければならない、そう思った。

 

 辿り着きたい気持ちは増すが、ゆっくりと、しかし着実に、疲労が溜まっていた。

 ぼくはカチコチに筋肉が凝り固まった両足を、何とか前に振って進んだ。何度もストレッチをして血液を巡らせもしたが、重い鉛玉を背負わされたように、歩みは鈍くなっていた。

 

 またしても分岐点にでくわし、立ち止まる。気配だけの同行人にじいっと監視されているのを感じるから、もう、興味に従って道を逸れるだなんていう気はなかった。

 

 立て看板の言葉は、

 

『賢い者はまず信じ 愚かな者はまず疑う』

 

 その意味するところを考えようとも思わなかった。

 

 ただ、崖の下からはクチャ、クチャ、と何かをむさぼり食うような音や、泉が湧き出し、誰かが思いっ切り水を浴びるような音。

 ああ、腹一杯に飯や肉を食えたなら、清らかな水で体を洗い、温泉にとっぷり浸かって疲れを癒やせたなら、とつい想像を働かせてしまう。

 

 すると、徐々に同行人の熱く震える小刻みな息を、耳の後ろに感じる。慌てて頭を振って、無用な考えを捨て去る。

 それで同行人は落ち着いたようだった。

 

「よいだろう、褒美だ」

 

 という声がするが、目の前には何もない。不思議に思っていると、ぼくの右後ろから女性がぬっと現れた。

 

 ぼくの妻だ、とその人は言った。ぼくは結婚などしていないが、美しく情熱的な瞳を持ち、ぼくの理想とする相手がいればしてもいいとは思っていた。

 いま目の前にいるのが、まさにその理想の人物だった。妻はぼくの横をともに歩いた。

 

 

 

 妻と同行人を引き連れて、妻はイチゴのショートケーキの皿を持って、ぼくのポケットにはクルーズ船のチケットを入れて、延々と歩き続けた。が、大きな木までは半分も来ていないようだった。

 しかも、ぼくの足は地面を擦りながら、どうにか倒れないように支えている状態だった。

 

 そろそろ前ばかり向いて歩くのも飽きた、一度ここで休もう、と投げやりに腰を下ろした。

 

 遥か先にある大きな木のほかは、砂埃の舞うカサカサの荒地が裸んぼで広がるだけだ。ただ座っていても回復しないから、ここらでショートケーキを食べることにした。

 

 右側に座ってぼくを見つめる妻に、

 

「まずはイチゴから食べさせておくれ。好きなものは最後までとっておく趣味だが、いまは我慢ができない」

 

 妻は、ええ、分かったわ、と頷くと細いフォークでイチゴをずぶりと刺し、ぼくの口へと持ち上げた。

 

 あと一センチでその酸味と甘味を味わえる、というところで、しかし、無情にもイチゴはぽろりと外れた。

 外れたイチゴは道を転がり、ぼくと妻の間をくぐっていった。

 

 あ、イチゴ、と思った時には既に、ぼくの視界は背後の世界を捉えてしまっていた。

 

 ぼくの後ろには、そこにいるはずの同行人らしき人物など誰も存在しなかった。当然だが、来た道がひたすらまっすぐに続いていた。

 

 なんだ、振り向いたって何も起こらないじゃないか、と思った瞬間、あることに気づいた。

 

 ぼくが来た道の延長線上にも、大きな木が生えている。しかも、ここまで目指していたものと全く同じ形をしている。

 よく目を凝らして見ても、木の周りの光景も含めて、同じものとしか思えなかった。

 

 もう一度正面を向く。やはり、灰色の道が伸び、その先に青々とした大きな木がある。そして再び振り返っても同じ光景。

 何度も見返すうち、自分がどちらから来て、どちらに進んでいたのか曖昧になり、ぼくはすっかり混乱してしまった。

 

 もう一つ、おかしなことがあった。

 

 さっき落として背中側に転がったはずのイチゴは、後ろを見てもそこには落ちておらず、むしろ、何度振り返ったとしても視界の斜め後方にずっと見え隠れしているのだ。

 

 つまり、ぼくが振り向いた瞬間に、ぼくを中心に世界が前後反転していた。

 

 あれ? と、ぼくはそこで悟った。

 大きな木に向かって進んでいる、などというのは幻想なのではないか。進んでなどいない。目的地に辿り着くことは無く、この道は無限に続くのではないか。

 

 道端にへたりこんでいると、妻がそっと後ろのイチゴを拾い上げ、ぼくの前に立った。

 そのイチゴは何年も前に腐ったように灰色に変色し、白いカビの斑点がその実を覆っていた。

 

 それを指でつまんでクルクル回しながら無感情に見つめる妻は、弱々しく薄汚い老婆に変わり果てていた。肌はこの荒野みたいに干からびて割れ、水分を失った瞳は落ち窪んで、静かに濁っている。

 老婆はイチゴを口に運ぶと、グジュ、グジュ、と音を立てながら噛み潰した。

 

 ポケットのチケットを取り出してみると、やはり皺くちゃになっていた。行き先の文字は掠れ、おまけに、乗船用の半券は既にもぎ取られている。

 

 この道に終わりなど存在しない、と認識した瞬間から、全てのご褒美がその価値を失った。ゴミになった。

 

「お前は後ろを振り向いた。ルールに背いた者に、今後一切の褒美は与えられない」

 

 しばらく影を潜めていた同行人が、改めてぼくの背後から語りかける。これもまた、ぼくを非難するでもなく、客観的事実を述べる科学者のような言い方で。

 

「お前はこの世界の正体を知ってしまった。しかし、お前がこの道を逸れることはできない。

 この道を進み、そして、いつか大きな木に辿り着く、そう信じることでしか、褒美を褒美として受け取ることはできない」

 

 ぼくは絶望の縁に立たされたかに思えた。でも、ぼくには確かめたいことがあった。脱出する方法があるとすれば、あれしかない。

 

 同行人の忠告も無視して、道を突っ走る。この監獄に永遠に閉じ込められると考えるだけで、怖くて、やる瀬なくて、あり得ないと叫びたくて、全身の疲労も忘れて疾走した。

 

 やがて、分岐点が現れる。

 迷わず斜めに曲がる道のほうへ突っ込む。同行人はもうついてこないようだった。

 次第に道幅は狭くなり、断崖が迫ってくる。足元、数十メートル下から楽しそうにこちらを誘う声が響く。

 

「こっちへおいでよ。こっちへおいでよ」

 

 勇敢に飛び降りた先に、きっと楽園が待っているに違いない。うららかな湧水、色彩溢れる果実、きれいで暖かい寝床、それらに満足して暮らす人々。ただ恐怖を克服してジャンプするだけでいい。それで地獄を終わらせられるはずだ。

 

 ぼくが自分を鼓舞して崖下を覗き込んだその時、ぼくの目に映ったのは、痩せ細って黒ずんだ裸の人間たちが、大事そうにゴミを抱えて座っている光景だった。

 

 腐食して原型を留めていないバナナの塊、小鳥の死骸、カビの生えたバッグ。各々のゴミを宝物のように抱えて、磨いて、撫で回しては、幼稚な笑い声をあげている。

 

 ぼくが目を離せないでいると、ひとりがぼくに気づいて、

 

「ン?」

 

 と、目が合ってしまった。それにつられて他のやつらも、ン? ン? と顔を上げた。ぼくに向けられた幾つもの瞳はどれもこれも輝きに満ちていて、埃まみれの肉体から浮き出たように揺れていた。

 

 やつらはぼくのことを見とめると、アアっ、アアっ、と声を漏らして骨張った両腕を上に向けた。いまの今まで抱えていたゴミは忘れて、ぼくが何かを与えるのをせがむように一斉に唸り出した。

 ぼくはその異常な光景に、肩から足先まで震え上がった。

 

 腰を抜かしたのが先か、体を反転させたのが先か分からないが、何とか転びながらも道を戻ると、分岐点のところで飛び出しそうな心臓を押さえつけるようにうずくまった。

 

 ぼくがこの道を逸れることはできない。

 

 同行人の言ったことが否が応でも反復された。その意味を確かに理解した。

 

 いつか大きな木に辿り着く、そう信じることでしか、褒美を褒美として受け取ることはできない。

 

 それも同行人の言う通りなのだろう。ショートケーキをショートケーキとして食べるため、クルーズ船で旅行に漕ぎ出すいつかその日のため、最愛の妻と連れ添うため、ぼくはこの道を進むことしかできないのだ。

 

 

 

 はっ、と目を覚ますとぼくは布団の上でうずくまっていた。じっとりとした汗で、シャツは背中に張り付いている。

 

 リアルな感覚の残る夢だった。目を閉じれば、大勢の薄汚い人間がこちらを見上げる瞬間を思い出す。急いで洗面所に行き、記憶をこそげ落とすように、あれがもう覚めた夢であることを祈るように、執拗にパシャ、パシャ、と顔を洗った。

 

 それでも夢の光景はしつこく再生される。仕事もろくに手がつかなかった。友人が出勤していないのが気になったが、それどころではなかった。

 電話がかかってきたのは夕方だった。かけてきたのは彼だった。

 

「やっぱり画家を目指そうと思うんだ」

「いきなりどうした?」

「どうしても諦めきれなくてさ。それに、おれは画家になる運命なんじゃないか、って気がするんだよ」

 

 いつもの感覚論かよ、と思いつつも、何かいつもと違う雰囲気を察した。だから、仕事は早く上がって彼の部屋に行くことにした。

 

 待っていた彼からは、昨日の疲弊した様子はなく、表情は明るかった。というより、ポケーっとした幼く無防備な顔つきになったように見えた。その顔には見覚えがあった。

 

「早速、新作を仕上げていたんだ。見てくれよ。ぜひ感想を教えてくれ」

 

 立てかけられたキャンバスには、縦横無尽にピシャッ、ピシャッと絵の具が跳ねたような跡がついていた。彼には悪いが、到底、芸術的だとは思えなかった。

 

「ところで、手に持ってるそれは何だ?」

「これこそ、おれの運命を証立てるものさ。昨日あの後、街に出てフラフラしてたら、大通りを外れた路地に画廊があってさ、そこの婆さんが譲ってくれたんだ。

 なんと、あのモネが使っていた絵筆なんだよ。あなたにはこれを使う資格がある、って言われてさ」

 

 ぼくは彼の話を聞きながら、血の気が引いていた。

 

 彼が愛おしそうに両手を添えているそれは、羽のない小虫がびっしりと這いつくばる、ただの枝だった。明らかにゴミだった。虫の真っ黒な背中がうごめいて、枝全体が小さく震えているように見える。

 

「おれは画家の道を進むことにするよ。お前もどこかで見切りをつけて小説家になったらどうだ? 一緒にアトリエを借りて暮らそうぜ」

 

 ぼくは一刻も早く、この部屋を飛び出したかった。

 

「い、いや、遠慮しておくよ。会社にはおれから言っておくから。頑張れよ」

 

 とだけ言い残して、立ち去った。

 玄関を開ける時、すぐ真後ろでぼくを見つめる視線を感じた気がした。

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