帰る場所
@20090703
第1話
美しい島だった。むせかえる様な濃い緑、透明度の高いターコイズブルーの海。刻々と色合いを変えるその碧は宗二に誰かの瞳を思い出させる。
ヤシの木やマンゴーやバナナの木などが豊かに自生し、一面のサトウキビ畑が広がる。ここが戦場とは、まるで極彩色の悪夢だなと思う。こんな天国で、海水浴のひとつもせずに陣地構築に明け暮れていたのがひどく馬鹿馬鹿しい事の様に感じた。
誰がなんと言おうとこの戦争は勝てないと肌で感じている。ならばここは自分たちの死地だろう。
隊には、補充に次ぐ補充の結果、実戦経験の少ない者達も多い。こんな楽園で戦争など信じられないと、あるいはこれだけの兵力と備えがあれば大丈夫ではと、真顔で言う彼らを、可哀想になあと他人事のように思ったものだ。
たったこれだけの兵力での間違いだ。こちらは銃に詰める弾さえ十分ではないのに対し、敵の人員と火器は何度でも補充可能だ。ほんの数年でハワイで撃滅したはずの太平洋艦隊の倍以上の艦隊が復活した現実を見よ。今や食い物にも困っている日本のどこに、ミッドウェーで沈んだ空母を造船する金がある。
勝てるわけがない。問題はこの悪夢がいつ終わるかだ。
「よーお、相変わらず呑気だな」
後ろから感心したような声がかかる。
「最後の一杯だ。好きにするさ」
なんの因果か、何度か戦地で顔を合わせーつまりそれだけ生き延びたということだが、最後を共にすることになった男だ。同じく最後の一杯を楽しみに来たに違いない。たかりでだ。
宗ニは男へ小瓶を投げた。
「お、気前いいな」
「ばーか、てめえが隠してる干物と交換だよ」
たかられてたまるかと言ってやれば舌打ちと共に放り投げられたを塊を受け取り、酒のつまみを楽しむ。
「なあ、今回はどうだ?」
「ゼロだな。弾がなけりゃ撃てねえんだよ」
小指と薬指の消えた手で器用に瓶の蓋を開けながら問うてくる男に、正直に答える。制空権は言うに及ばず制海権も敵に取られた今、物資や兵の補充は困難を極め、どれだけ善戦したとしてもいずれそうなる。
男は盛大に顔を顰めた。今まで宗二がこのての予想を外したことはない。
「・・・最後は別嬪の酌が良かったんだがな」
宗二その言葉に、残念だったなと酒を煽りながら笑う。その時、遠目に水平線を埋め尽くす艦隊が見えた。
恐怖と怒りに肌が粟立つ。あれと戦えというのか。
あれに対抗できる火器は既に先の空爆によってあらかた潰されている。上陸は容易だろう。そして、この平坦な地では戦術も何もあったものではない。殺戮が始まる。
ーねえ、お願いだよ。生きて帰ってきてよ。
腕を掴んだ白い指は震えていた。
「・・・なあ、それでも俺は命が惜しいんだ」
弾かれたようにこちらを見た男に宗二は笑う。思えば、あれにお願いなんぞ初めてされた。
ー何をしてもいいから、お願いだから、
蒼白な顔で眼だけを爛々と燃やしてそう言った。
最終防衛圏の意味は明白で、ここを取られると、この国の首都が敵の戦闘機による爆撃の射程距離内に入ることになる。
愛し故国に降る火の粉。それはお前の上にも降るのだろうか。
それがどのような形で訪れるのかは分からない。だが終戦は近い。ならば、もとより碌でなしのはみ出し者だ。恥も外聞も良心もない。死ぬ瞬間まで足掻いてやると決めていた。
「なあ、お前は信じるか?終戦はそう遠くない。俺は殺しだけでなく、鬼ごっこも隠れん坊も得意でね」
「ぶはっ、てめえの図体でどこに隠れるってんだよ」
「うっせえ。鬼が死ねば見つかってねえのと一緒だろうが。そもそも軍人じゃねえんだ。何だってするさ」
男は、なんとも言い難い目で宗二を見つめた。
「まあ何にせよ、先ずは今日を生き延びてからだ」
この戦闘の一年と少し後、この国だけで300万人を超える犠牲を出し大戦は終結する。
征士郎が有馬の家へやってきたのは、色を失っていた大地にようやく緑の芽吹き始めた頃だった。
ある日突然、夕食の席で、友人の息子を引き取ったと厳かに告げた父の声と、唖然とした家族の顔を覚えている。自分も似た様な顔をしていたに違いなかった。
横浜の貿易会社に勤める同郷の友人夫婦が事故で亡くなり、その子供を引き取ったのだという。
有馬の家は、この一帯に、幾つもの山、広大な田畑を所有する大地主で、現在では林業を手掛け農地を経営する合名会社だが、それ以外にも細々と養蚕・製糸業を手掛けていた。その輸出の関係で横浜へ行った折に、勘当同然でこの土地を飛び出した幼馴染と再会し、以来ずっと親交があったそうだ。
そんな話は誰も彼もが初耳だった上、風呂で体を洗う順序まで決まっていそうな変化を嫌う生真面目一徹の男の突飛な行動に、ただ驚く以外の何ができたろうか。
翌日、けれど遥々港町からやってきたという弟と宗二達が顔を合わせることはなかった。母の清乃が、父が引き取った子供ーなんと、既に男子ばかり子沢山だというのに養子の手続きまで済んでいたーが、母家へ足を踏み入れることを許さなかったのだ。子供の白銀の髪や睫毛、ガラス玉のような碧眼をひどく気味悪がり、不吉だと言って、自分や子供達のそばに置くことを嫌がった。
始めは慣れれば何とかなると考えていた父も、四つの季節が過ぎても変わらぬ母の強い拒絶に、とうとう共に母家で暮らすことを諦めたようだった。既に東京の学校へ通い、忙しかった上の兄達も突然出来た弟にさほど関心を示すことはなく、そういうわけで、一年前にここへ来た弟は、結局いつまで経っても宗二の前に姿を現すことはなかった。
ある日のこと。宗二は、学校へ向かっていたのを途中で引き返し、離れへ向かった。つまらない大人代表のような親父を突飛な行動へ走らせ、母の恐れを掻き立てた、銀髪碧眼の弟とやらを見てみたいとふと思ったのだった。
それは、あの夕食の席から宗二自身も知らぬ間に少しずつ募らせていた好奇心が、遂に溢れた瞬間だった。あるいは、家業をそれぞれ継いでいくことを期待された兄達と異なり、この家で存在感の希薄だった自分と、離れ住まいの弟との間に、どこかでずっと同族意識の様なものを感じていたのかも知れない。そもそも迷信の類を振りかざす馬鹿は嫌いだった。
日中、男衆は仕事に出払っているし、女中達も母屋で働いているので、住み込みの使用人たちの暮らす離れへ、見咎められることなく侵入することは思っていたより容易だった。もっとも、見つかったとて、この辺りでも札付きの問題児で、中学へ上がってからは喧嘩に明け暮れ生傷の絶えない宗二のサボりを注意出来る使用人は限られていたろうが。
宗二は、離れの最奥にあるというまだ見ぬ弟の部屋へ歩みを進めたが、そこへ辿り着く前に、目当ての人物は拍子抜けするほどあっさりと見つかった。中庭で真っ白な小さな子供が女中相手に縄跳びに興じていたのだ。次は僕の番ね、と可愛らしい声で縄を譲り受けた子供の動きが止まる。まるで気配に敏感な小動物の様にこちらを振り返ったちびと目が合う。
ーこれが不吉のわけがない。
それは確信だった。確かに異質ではあったが、月の光を集めたようなこの姿の何処に禍々しさがあると言うのか。
驚いたことに、ちびは小走りにこちらへ向かってやってくる。そして屈託なく宗二に笑いかけた。
「こんにちは、にいさん。いっしょにあそぼ」
宗二は、初対面のはずの弟の言葉に驚く。どうして知っているのだと尋ねようとしたのに、間近に見る生き物の美しさに呑まれ咄嗟に言葉が出てこなくて、それにまた驚いた。
抜けるように白い肌、光の筋のような銀の髪、見たことのない透明な碧が自分を見つめている。宗二はこれに少しでも似た生き物を知らない。
ーなるほど親父が狂うわけだ。正確にはこれの母親に、か。
目を見開いたまま動かない宗二に焦れた子供は、早くおいでと、小さな手でぐいぐいと宗二の着物を引っ張る。宗二の口元には、先日の喧嘩で付いた傷跡がまだ生々しい。この距離でそれにぎょっと目を向けぬ者はいなかったというのに、この子供は、その傷にも宗二の鋭い目付きにも一向に頓着しないのだった。
(へえ、いい度胸じゃねえか。それともよほど鈍いのか)
知らず口角が上がる。
「いいぜ。ただ、泣いたら帰るからな」
子供の泣き声ほどうるさいものはない。
結局、弟、征士郎は、泣くどころか宗二の乱暴な遊びをいたく気に入り、あしたもくる?と掴んだ裾を離さない勢いで聞いてきた。
「一緒に暮らそう、家族になろう」
そう言って手を差し伸べてくれた大人達が、そうしてくれなかったのは何故だろう。牧師様も、父の友人と言った人も、優しく頭を撫でてそう言ってくれたというのに。この、他人とは違う見た目のせいか、それとも他にいけないところがあったのだろうか、何度考えても分からない。
彼を見た時、ああ兄さんだと、一目で分かった。一年前に緊張しながら挨拶をしたあの人にあまりに似ていたから。
「こんにちは、お母さん」ただの挨拶にあれほど緊張したことはない。声が震えていたかも知れなかったし、上手く笑えていたのか自信もない。けれど、涼やかな目元の美しい人は悟を見て笑ってくれたのだった。その笑顔に、ああ良かった、牧師様のいうようにちゃんとご挨拶ができた、そんなことを思ってほっとしたのを覚えている。けれど、その後「お母さん」と会うことはなかった。
だから、突然兄が現れたのが嬉しくて、遊んでくれたのが夢のようで、今度こそ次が欲しいと思ってしまったのだ。けれども、明日も会えるかと聞いたその時、気が向いたらなと、あの人にそっくりの笑顔で言うので、ピシャリと手を打たれたように感じた。きっと彼の気が向くことはないのだと気付いたから。
ああそうか、自分はまた失敗したのだと悟った。去っていく背中が滲んで、けれど「泣いたら帰るからな」という言葉を思い出して唇を噛み締める。声を殺したところで次に来てくれるわけではない。分かっているけれど、それでも、両手で口元を覆って静かにしゃがみ込んだ。
なんで期待と絶望は同じ数だけやってくるのか、嬉しい記憶は痛みに変わるのか、それなのに求めてしまうのか、分からなかった。その夜は、両親がいなくなってからの色んな事がいっぺんに思い出されて、どうにも食事が喉を通らなかった。
両親を亡くしてここへ来たというのに明るかった子供が、泣き腫らした顔で食事も喉を通らない様子なのにひどく驚いた大番頭の正道は、その晩子供を自室に置くことにした。自分の子供はこの歳の頃一人ではなく母親と寝たがったものだ。遠い昔の、そして悲しいほどに曖昧な記憶だったが・・・。家族を顧みず仕事に明け暮れた結果失ったものはもう戻らない。
離れで最も広く居心地の良い部屋に二つ並んだ布団を見て征士郎は目を輝かせた。誰かと眠ることなど、本当に久しぶりだった。
「うれしいなあ」
ようやく笑った征士郎に正道はほっとする。自分の様な気の利かない男などではなく女中の誰かに任せた方が良かったかと後悔し始めていたところだった。
「ねえ、まさみちはきみわるくないの、ぼくのかみとか」
「雪みたいできれいだなと思います」
全てを無くし西から流れてきた自分に、初めての冬、ここの雪深さは驚きだった。その白銀の美しさを思わせる。
「そう、よかった」
征士郎は、ふふと笑ってころんと寝返りをうつ。
「宗二さんと楽しく遊んでいた様だと聞いていたんですが、宗二さんはそんなことを?」
正道の問いに、征士郎は慌ててしまい、跳ね起きた。
「ちがう!そんなこといわない。いっしょにあそんでくれた、だけ」
興奮した征士郎の目からまた涙が溢れた。
今日の自分は変だ、征士郎は思う。自分にこんなふうに泣かれた正道だって困ってしまうだろうに、いつもなら我慢できるはずの涙が馬鹿になったみたいに止まらない。言葉も。
「ねえ、まさみち。ぼくが、いらないっていわれるのは、なんでだろう」
「征士郎さんはここの人気者です。みんなあなたが可愛い」
正道は、そう言って子供を寝かせ、布団の上からぽんぽんと叩いてやる。
正道とて、子供が聞きたいのはこんなことではないと知っている。けれど、彼が欲しがっているのは家族の手だと知っていても、自分には他に出来る事がなかった。
当主勝一に命じられ、征士郎がここへ来る手続きの一切を行ったのは自分だった。両親の死後引き取られた子供のいない牧師夫婦の元からここへ連れてこられ、1年経つ今日まで、この家の子供達にすら会ったことのなかった彼が、自分は二つの家族に受け入れられなかったのだと、そんな悲しい思いを抱いているであろうことに、今まで思い至らなかった自分に呆れる。
「自分は、征士郎さんがここへ来てくれて嬉しいですよ」
「ほんと?」
「本当です」
そっか、そう何度か呟き、子供は、やがて泣き疲れて眠った。
興奮したのがいけなかったのか、溜まっていた疲れが出たのか、翌日から熱を出して寝込んでしまった子供を、正道は自室に置くことに決めた。女中にもここで看病する様に言いつけて仕事へ向かう。
一番奥の隅の部屋へ、そう言いつけた奥様がここへ足を踏み入れることなどないのだ。仮に叱られたとても知ったことか、そう思う。いい大人が、寄ってたかっててめえの都合ばかり押し付けやがって。むらむらと湧いてきた怒りのままに、正道は何があってもこの子供の味方になることを決めたのだった。
一度あまりに簡単に会えたから、今度も会えると疑っていなかった。
けれど、庭に彼はいなかった。ならばと開けた彼の部屋は、恐ろしいほどにしんとして人のいた気配がなく、部屋の主がたまたま不在にしている様には到底見えなくて、愕然とする。
どういうことだ?何があった?まさか、母が彼をどこかへ?あり得ないことではないと思えた。逆になぜ、そんなことが起こらないと思ったのか、いつでも会えると思ったのか。
けれど、あの子供と遊んだのはたった一週間前のこと。明日も来るかと聞かれた、それなのに。
宗二は、自分が思いの外衝撃を受けていることに驚く。
先程まで人の気配を避けてきた宗二は、今度は事情を知る人間を探して視線を彷徨わせる。ちょうど門をくぐり庭へ入ってきた女中を見つけ、駆け寄った。
「おい、あのちびどこだ?!」
いきなり現れた宗二に腰を抜かしたのは、先日征士郎と縄遊びをしていた女中だった。ひどく驚き焦った様子だった彼女は、宗二の手にあるの子供の菓子に、あっと目を止める。
「あの、それは征士郎さんに?」
なんのことだと眉を寄せた宗二は、視線の先にあるものに気付いて、そうだと頷いた。
「ああ。なぜいない?」
正道の私室をなんの遠慮もなく開けた宗二は、布団に横たわる征士郎の姿を見てほっと息を吐いた。
「いるじゃねえか」
「え、・・・・・・そーじ?」
「よお、風邪だって?なんだよ、せっかく来たのに遊べねえじゃんーーーっておい、」
征士郎は、宗二の姿を見るや起き上がり駆け寄ってその足に飛びついてきた。
「・・・そうじだ」
「なんだよ、けっこう元気だな、おい」
「そうじ、きがむいたの?ねえ、ぼくだいじょうぶだから、あそぼ」
宗二は、足にぎゅうぎゅうとしがみついてそんなことを言ってくる征士郎に呆れる。触れてくる小さな身体はひどく熱いのだ。
「ばーか、熱がある奴は遊べねえんだよ」
言ってひょいと抱き上げる。簡単に腕の中に収まった身体を布団の上へ着地させ、また起きようとするのを肩を押さえて止めた。
「寝てろって」
「やっと、あえたのに」
自分を映しゆらゆらと揺れる碧眼に、吸い寄せられるように視線を絡め取られる。
「また来るから。今日は寝てろ」
「・・・・・・ほんと?」
「ああ」
「そうじ、・・・・・・きてくれて、うれしい」
「遊んでやれねえのにか?」
「・・・もう、あえないとおもっていたから」
えへへと笑う征士郎に、宗二もにっと笑う。
「それな、俺も思った」
「・・・・・・?」
「お前が部屋に居ねえから」
「あ、・・・これは、ぼくがねつを、、だから、まさみちは、」
「言わねえよ、馬鹿」
宗二は、そんなことを言いたいのではないと、焦った征士郎を宥める。そうではなく、あの時、自分は確かに、もう征士郎に会えないことを残念だと思ったのだ。
「なあ、さっさと治せよ。川遊び連れてってやるから」
「・・・・・・」
征士郎は黙って唇を噛み締める。本当?嬉しい、絶対だよ?あと一言でも発すれば涙を堪えられなくなりそうで何も言えなかった。
この日から次第に離れへ入り浸る様になった宗二は、しまいには離れの征士郎の部屋に住み始める。そして、それは宗二が東京の学校へ通うようになるまでの間続いたのだった。
「お帰り。ねえ宗二、ちゃんと母さんに挨拶してから来た?久しぶりなんだし、長くいられないんでしょ?今日は夕食はあっちで食べたら?」
久しぶりに帰ってくるや、母屋への挨拶も碌にせずに離れへやって来て寛ぐ宗二に向ける征士郎の言葉はそっけない。
それに、宗二はムッとした視線を向ける。自分が東京へ行く前は、それこそ片時も離れずに、宗二、宗二と後をついて回っていたというのに、ちょっと離れるとこれかと、子供の薄情ぶりに舌打ちしたい思いだ。
「うるせえな、俺がどこで飯食おうが勝手だろうが」
「そうだけどさ、愛想一つで円滑にいくもんがあるならやっとけって話」
おまけに生意気だ。
「それこそ、なんの得があんだよ」
「・・・宗二馬鹿でしょ?」
「ああ?!殴られてえのか」
「あれ、今でも簡単に殴れるつもり?」
「表出ろや」
「・・・僕もう子供じゃないんだから、母屋にいればいいのに。あっちにも宗二の部屋あるでしょ」
「別にてめえに構ってるわけじゃねえ。こっちのが落ち着くんだよ、ほっとけ」
宗二は久しぶりに帰ってきた部屋を見回す。掃除の行き届いた埃ひとつない部屋、新調されている座布団、いつでも眠れる様整えられた寝床、糊を落とした新品の着替えまで用意しておいて、あっちへ行けと言われても、だ。
「お前が此処に追いやられてんのは僕なんかに構うからだろう」
「は?違ぇ。何勘違いしてんだ」
「違わないよ。あのさ、前から話そうと思ってたんだけどさ・・・」
何か言いたげな征士郎の顔に、ろくな話でない予感しかしなかった宗二は、後にしろ、夕飯まで寝るから起こせと追い払った。
だから夕食後に、入っていい?と部屋へやって来た征士郎を、宗二はひどく嫌そうな顔で迎えた。
「・・・なんの話がしてえんだよ?」
「ねえ、宗二。僕はあんたの足手まといになるくらいなら卒業を待たずに此処から消えたっていいんだ。算術も読み書きも、前倒しで進めてある」
征士郎の言葉に、宗二の眉間に皺がよる。
「はあ?どうやってガキひとりで生きていくんだよ」
小馬鹿にした口調で返す声は低い。
征士郎はそれに臆する事なく、居住まいを正し真剣な顔で宗二を見た。とはいえ、いよいよだと思うと口を開くまでに少し心を落ち着ける必要があった。それは、征士郎が宗二が東京へ行く前から考えていた事だったし、離れがたくてずっと言えずにいた事でもある。
「宗二、僕は、学校を出たら、正道に仕事を紹介してもらって住み込みで働くつもりだよ。今はそっちの勉強も見てもらっている」
宗二は目を見開く。征士郎は尋常小学校入学以来苦もなく首位を維持している。勉学だけでない。物事の理解判断が早く目から鼻へ抜けるような彼は、どこで働いても重宝されるに違いない。だが、着物からのぞく細く頼りない手足はまだ子供そのもので、決して頑強とはいえない成長過程の身体は十分な栄養と休息を必要とするだろう。そんなものを働き先が気にかけてくれるとは思えなかった。
「ここを出ていくよ」
「・・・馬鹿を言うな。せめて中学を出ろよ」
お前は出来がいいんだからよ、そう呟く。
「馬鹿な話だったら正道は協力しないよ。宗二だって、僕に構ったりしなけりゃ母さんとも険悪にならずに済むし、ここで少しは居心地良く過ごせるようになると思う・・・いや、ここが嫌なら戻ってこなくていい。あっちで働いたっていいんだ」
「馬鹿な・・・」
「別れの挨拶にはまだちょっと早いけど、ここで僕を気にかけてくれてありがとう。本当に嬉しくて有難かった」
征士郎は真っ直ぐに宗二を見つめると、万感の思いを込めて言った。離れの優しい人達に囲まれて尚拭い難かった寂しさを埋めてくれた、離れにいる血の繋がりも何もない自分を気にかけてくれた人だった。
宗二は再び、馬鹿な、と呟く。征士郎の言葉は、働きにいくではなく「さようなら」だ。なんで自分が突然別れを突き付けれられているのか分からない。
「僕はここに居るべきじゃない。・・・・・・この歳になればいい加減分かる。母さんが迷信を気にするような人なもんか。むしろそんな頑迷を嫌う人だろう。父さんも、ただの友人の子供を養子になんかするようなお人好しかよ」
「あの親父に浮気なんて出来わけねえだろ」
「恋はできるさ」
「あの子にはあの人の血は流れていない、それでも自分のものにしておきたいほどの執着を見せつけられて、憎まずにいられるとでも?だってさ」
「ーーどこで、、」
「帰ってきた宗一郎兄さんと母さんの会話だよ。兄さんは、宗二が思ってるよりまともだよ。いつまで離れに置いとく気かって話してた」
「てめえに同情したかとでも?あれだ、あれ。世間体」
「違うってば。同情ってより良識とかそっちの話なんじゃない?」
「嫁取るからじゃねえの?」
「もう、頑固だなあ。もっと、ずいぶん昔の話だよ。兄さん達が僕を嫌うのも無理もないんだ」
「・・・お前に罪はないだろう」
「まあそうだね、別に僕は悪くない。あの時は子供だったんだ」
征士郎はあっさりと頷いて、けれど続ける。
「でも卒業してもここにい続けるほど無神経な人間にはなりたくない。あまりにもあの人が哀れだろう、兄さん達もね。」
「あいつが可哀想?」
宗二の問いに征士郎は頷く。ついでに言うなら自分などに絆されたばかりにこの家で冷遇されている宗二も哀れだった。
「そう。あの人も哀れだ。だからって父さんが悪いとも思えない」
「何でだよ、諸悪の根源だろう」
「宗二は彼に恋をするなと言うの?どうにもならない事だってある」
宗二は、何を知ったかぶってと舌打ちする。
「なに達観してんだよ、お前いくつだよ・・・」
深いため息を吐いた宗二の次の言葉は、征士郎には全く思いもよらないものだった。
「ああ、よし、分かった。お前も東京へ来い」
「ーーーは?」
会ってからずっと小生意気な口ばかりきいていた征士郎が、目を丸くして固まる様は愉快だった。宗二は今日初めてふふんと機嫌よく笑う。
「は、じゃねえよ。ようは、この家を出たいんだろう?俺たちが離れる必要がどこにある?卒業したら一人で働くだ?お前、正道も俺も誰もいねえとこで、風邪でも引いたらどうすんだよ」
「自分の面倒くらい自分で見れる」
征士郎の反論に、宗二は、ガキがと吐き捨てる。
「勘弁しろよ、何も分かってねえな。家へ帰らねえってことは、病気や怪我をしたら療養する場所もねえってことだ。死んでも、ここを捨てて出ていったお前の親みてえにあっちで墓に埋められて、下手すりゃ知らせも届かねえ」
きょとんとした征士郎は、馬鹿だなあと軽やかに笑った。
「知り合いの会社なんだから、辞めてなけりゃ死んだ知らせくらいはいくさ。それに、そんな奴、それこそ僕の親も含めてごまんといるだろう。僕がここの墓に入る方があり得ない」
死んだ知らせとあまりにも軽く言うので、一瞬本気で頬を張ってやろうかと宗二の腕に力がこもった。
「・・・・・・簡単に言うな、てめえにどんだけ手間がかかってると思ってんだ」
「・・・・・・?」
「正道はよ、寒くもないのにしょっちゅう風邪を引くてめえのために、ずっと部屋を貸してるだろ。その見た目でいじめられちゃかなわないってんで、学校へ上がる前にこの辺りの遊びを全部教えたのは俺だ。喧嘩も仕込んだ」
「・・・・・・」
「お前の知らなかった雪の恐ろしさも、雪道の歩き方も、全部俺が教えた。雪遊びもだ。てめえは誰とかまくら作って遊んだんだよ」
「・・・・・・」
「俺はてめえに死ぬ程貸しがあんだよ。勝手に踏み倒す算段してんじゃねえ」
「だからだよ!もうこれ以上迷惑をかけたくない。宗二、あんたの邪魔になりたくない」
「だから、もう遅えって言ってんの」
征士郎は天を仰ぐ。そうだ、彼の言う通り今更過去は消せない。今自分が消えたところで、家族と彼の間の溝は埋まらないのだろうか。
「なあ、お前は俺に会わない方がよかったか?」
宗二の言葉に、征士郎は首を横に振る。そんな訳がない。もう両親の記憶も朧げな自分の、一等大切で大好きな人だった。
「だろうな」
宗二はそれに当然だと頷く。あの離れは宗二がようやく見つけた居心地の良い帰る場所だった。
「・・・お前が来たからじゃねえ。母さんにとって俺は元々厄介なガキだった。そもそも打ち止めにするはずが親父にもう1人と懇願され、出てきたのが加減の分からねえ乱暴者だ」
性格の捻じ曲がった兄が何度も聞かせてくれたよと、宗二は冷笑を浮かべる。
「宗二!」
「黙って聞けよ」
「・・・・・・」
「あの年、兄貴が帰って来て、なにかっちゃあ仕事見習いのストレスを向けてくる。母さんは何も言わねえが、喧嘩にうんざりしているのが伝わる。俺が居たくなかったんだよ、あんなとこ。外へ出ても、この目付きと態度でどうやっても喧嘩になっちまってな」
「別に正道とだって仲良しこよしでやってたわけじゃねえ。うっせえ奴だって思ってた。・・・・・・お前が俺を慕ったから、ここの奴らは俺を受け入れたんだ」
「ここに居たくないなら、こっちで中学へ通えよ。親父が勝手に連れてきたのはただの事実だし、金持ちなんだから利用してやれって。そっから先はお前の希望通りなんでも好きにしろよ」
「だから、・・・なんで宗二が僕の世話をするのさ」
「なんでって、、勝手にいなくなられたら、俺の帰る場所がなくなる」
宗二はさも当たり前のように言う。
泣き笑いのような表情になった征士郎は、震える声で諭す。
「馬鹿だな、宗二。結婚したら、そこが宗二の帰る場所なんだよ」
「だとしても、お前もずっと家族なんだよ。この馬鹿」
「どう、、」
「この先、困ったら頼れ。なんかあったら相談しろ。なくても顔見せにこい。そういうことだ」
「・・・・・・」
「さっきの言い方だと、お前、もう二度と誰にも会うつもりなかったろ」
「僕にできる唯一のことだ」
不本意ながら宗二達の家族を掻き回してしまった事実はもう変えられないにしろ、それが最善だと思っている。
「俺の家族はずっとお前だったんだ。今更離す気はねえ」
征士郎はただ呆然と宗二を見つめる。胸がいっぱいだと人は言葉を失うのだと、初めて知った。
「こっちへ来いよ。この家は俺たちがいなくとも成り立つだろう?」
「そっ、、かぁ、」
「そうだよ」
ここで、どうしたって邪魔者でしかない自分は去るのだと、彼といずれ会えなくなる日が来ると思い詰めて長い。それが、ずっと家族と言われるだなんて、想像もしていなかった。
「借りは返さなきゃね」
「あのなあ・・・」
征士郎の小生意気な物言いへ口にしかけた宗二の文句は、潤んだ碧眼に喉の奥へ押しやられた。お前のそれは本当にタチが悪いな、宗二は心の中で悪態をついた。
帰る場所 @20090703
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