第5話

気がつくと私は、三味線の棹を行き来していた先生の左手に手をかけていた。そのまま自分の顔の目の前にそれを引き寄せて口に含んだ。口の中が捉える先生の指の輪郭。ゆっくりと指の腹に舌を這わせてみる。


先生の綺麗な指、ずっと食べてみたかったの。


愛おしくて私は夢中で先生の指を舐めた。


「寧々さん…おやめなさい。」


焦っている様子の先生の声がする。でもちゃんと甘く響いてるのが分かった。


そのまま先生の指を握りしめたまま、そっと自分の小指の爪を先生の手首に立てた。同時に願いを込めるように私は顔を上げて先生に言った。


「ずっと先生の事が大好きだったの。先生も私の事を好きになってください。私の事だけを考えて。」


そのまま崩れるように先生にもたれかかる。コトリと転がる三味線の気配。私を抱きしめる先生の腕の感覚。先生の匂い。これから起こる事、全部覚えていたいのに、暴力的に襲ってくる眠気に私は抗えなかった。虚ろにしか動かない脳は、先生の唇の温かさとか湿った息遣いをずっと遠くに感じさせた。やがて細い糸が切れるように意識が途切れ、気がついたら西陽が差し込む部屋で先生の腕の中にいた。


抜け殻みたいに散乱した着物以外は、全部が夢みたいな午後だった。


とにかく音を立てないように静かに着物を身につけて私は先生の家を出た。夕方の気配に急かされるように家に向かう。角を曲がるとふいに椿の香りが鼻をついて私は思わず顔をしかめた。


「今お帰り?ずいぶんとゆっくりなさってたのね。」


ハッとして顔を上げると奥様が立っていた。椿の香りに仄かに混ざるお酒の匂い。 


「着崩れてるわよ。急いで着たの?」


奥様の手が私の衿元に伸びてくる。


「え…?」


思わず声が漏れた。奥様の小指の爪が赤く色づいている。


「寧々さんの爪…、私と同じ色してる。」


奥様の手が私の手を掴んだ。痛い。


「また来てね。あの人、私じゃもうダメなのよ。」


心臓が飛び出すかと思った次の瞬間、耳元で奥様がそっとゆっくり囁いた。そして楽しそうにふふふ、と笑った。


「帰ったら、あの人の爪も赤いかしら。」


fin

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鬼の居ぬ間に 三浦カエル @kaerumiura

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