第4話
「あら、寧々さん。」
声をかけられハッと顔を上げる。そこを曲がれば先生のお家、という所でばったり奥様とお会いしてしまった。湿り気を帯びた椿の香りが鼻をつく。どうやって背伸びしたって敵わない大人の色香を漂わせながらフッと微笑まれ思わず動けなくなってしまう。
「今日はお稽古だったのね。ごめんなさいね、私は少し留守になるのでお茶もお出しできないですけど。ゆっくりなさっていってね。」
心を読まれやしないか気が気ではなかった。少しの間を置いてから静かに遠ざかっていく綺麗な後ろ姿。見送りながら私の中から熱いおかしな気持ちがジワジワと込み上げてくる。先生と2人きりだなんて…神様までも私の味方をしてくれるのね。嬉しくて嬉しくて玄関先で先生のお顔を見るなり、飛びつきたい衝動を我慢するのがやっとだった。
「どうしたのですか?」
お稽古でもないのに突然やってきた私に、目を丸くして先生は驚いた。
「どうしても今すぐ唄いたい歌があるんです。三味線が難しいので先生に教えて頂きたいの。」
たった今思いついた適当な嘘が口をついて出た。
「流行りの歌ですね。どうぞ。」
先生の目が心なしか輝いた様に見えた。音楽の事だったら先生は何だって聞いてくださる。私は気持ちを沈める様にそろそろと短靴を脱いで玄関の脇に揃えた。
「奥様はお出かけなんですね。今、そちらでお会いしました。」
長い廊下を歩きながら先生の背中に声をかけた。紺色の大島紬がよく似合う後ろ姿。
「今日はお茶会に呼ばれたそうですよ。遅くなるようです。」
2人の足音が廊下を軋ませる。家中が妙に静まり返っているのを感じた。
いつものお稽古部屋に通され、いつものように床の間の桐の箱から三味線を取り出す先生の所作に見惚れた。
「今日は三味線をお持ちでないんですね。譜面はありますか?」
私に座るように促しながら、先生が座る。私も向かいに座った。
先生は静かに微笑んでいる。なんだか何もかも見透かされてるみたいでドキドキした。昨夜は一睡も出来なかった。朝が来たら先生にお会いするんだ、それしか考えられなかった。
何も言わずに黙っていると、諦めたように先生は調弦を始めた。
勘所を押さえる長い指が綺麗で目を奪われる。私はジリジリと先生に詰め寄った。自分の理性と別のところで体が動いてしまう様な抑えの効かない感覚だった。
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