「俺、異世界転生する」と宣言された話

不二丸 茅乃

無題


「俺、異世界転生するから」


 そう言って笑ってみせたのは、少なからず付き合いのある男だった。

 今回連絡があったのは桜の花が散り始めた一昨日の話で、半年くらい全く会っていなかった。時々メッセージアプリに『元気?』などの短文は入って来るが、二・三言返したらそれきり。

 またなんてことを抜かしているんだ、と呆れの溜息が出そうになるのを必死に呑み込む。


「久し振りに連絡して来たと思ったら、開口一番それか」


 彼はベッドに横になっている。サイドテーブルには、少し前に流行った異世界転生系の有名な小説が山積みされていた。

 黒い表紙に、文庫本よりも大きめな奴だ。


「元気そうで安心したよ、タカユキ」

「だろ?」

「それで、大事な話って?」


 『大事な話があるから』。

 そうメッセージが届いた一昨日、『仕事があるからすぐには行けないよ』と返信した。


「おお、そうそう聞いて驚け」

「……」


 『俺ね、白血病になったんだ』

 その次に、入院している病院の住所と病室番号が送信されて来た。

 目を通すには通したが、返信は出来なかった。どう返せばよかったのか、全く分からなくて途方に暮れていた。

 そんな気持ちを悟られたくなくて、素っ気ない言葉を掛けてしまうのに彼は気付いてしまっただろうか。


「余命、三か月だって宣告された」


 自分の余命を伝えるその口は弧を描いていた。


「三か月」

「まぁ、余命ってのは予測で、期待値らしいから。……もっと早くに死ぬ可能性も、宣告より長生きする可能性もあるらしいんだな、これが」

「話して良かったの」

「いいんじゃない? お前だし」


 彼が薦めるままに、側に用意されていた見舞い人用の椅子に座る。

 この病室は個室ではない四人部屋だが、他の病床は空だ。入口のネームバッジも、彼の物しか無い。

 静かな病室だというのに、努めて明るい彼の声が静寂を切り裂く。


「手ぶらじゃ何だったから、見舞い品持って来た。林檎食べられる?」

「ああ、この病院ナマモノ禁止なんだ。果物も一律駄目」

「……そっか」

「悪いな、折角持って来てくれたのによ」

「全然。……こっちこそ悪い」


 折角持って来たものが無駄になった。

 自分がちゃんと聞いておかなかったせいなので、買って来た林檎は出さない。

 荷物の中に入れたそれは真っ赤なのに、入院している彼の顔色は真っ青だ。

 見舞い品も駄目、気の利いた会話内容も思いつかない。居心地の悪い空気を感じた、その時。


「いやー、でも俺ついに異世界転生かって思うとちょっとワクワクしちゃうよな!」

「……」

「転生先のメシが美味いといいよなぁ。いや、それともマズメシの世界で俺が料理で無双するか? ハンバーグの無い世界でハンバーグ作って、俺の発明した料理ってことにして新しい名前つけたいな」


 この心の黒い靄を晴らすが如く明るい声が聞こえる。

 この場に二人しかいないし、自分は黙ったままなので誰が話したかは消去法で分かる。

 それくらい、彼の声も掠れて変わってしまっていた。


「お前、目玉焼きも焦がすだろ。無理だろ」

「だよなー。……じゃあ科学技術持ち込むか」

「お前化学赤点だったよな?」


 軽い調子でぽんぽんと話していると、彼の変貌なんてどうでも良くなった。

 昔から付き合いのある関係だから、少し何かが変わったくらいではいつもの調子に戻るのも早い。


「出来たらお前と高校時代やってたゲームみたいな世界が良いな。ほら、中世ヨーロッパっぽい世界でさ、騎士とか馬車とか出てくるやつ。エルフとドワーフも出てきて、剣と魔法で戦う奴」

「そこに置いてある小説みたいな?」

「ここまで血生臭くなくていいんだけど、まぁ俺が英雄になれるならそれが一番いい!」


 半年前と比べて、随分痩せた。頬だけかと思ったら、シーツから出ている腕も手も指も、肉が削げて肌の肌理きめが粗い。

 まだ、若い。働き盛りとか言われる世代ですらまだ上だ。だから病魔にやられて余命を宣告されるのはあまりに早かった。

 だから、彼はこれを『異世界転生』と呼んでいるのだろうけれど。


「英雄になったら、美人が俺をほっとかない訳じゃん? 日替わりで違う美女を侍らせるとか夢じゃねえ? 両手に花が出来たら更に嬉しいしハーレムはもっと嬉しい。全世界の女性は俺の恋人」

「右手にブロンドの美人左手にブルネットの美人、とかいう不潔なアレか」

「そんな事言うなよ、男は皆そういうのに憧れるじゃんか。だろ?」

「一緒にするな」


 ……でも、その軽口に、今日明日じゃ死にそうに無いなという安心感を覚えたのは本当で。

 また近いうちに来るよ、なんて言って病室を早々に後にする。

 来るなら連絡なんていらないからな、と手を振って貰って病室を出た。

 次に病室に来る時、持って行っても困らせないで済むお土産を調べておかないといけなかったから。




 春の花が散って、夏の花が背を伸ばす。

 うだるような暑さが例年よりも早く来て、病室に向かう足が週に一度になって二ヶ月。


「……」


 彼が伝えて来た余命まで、残すところあと一ヶ月だ。それをどんな心持ちで迎えればいいか分からなかった。

 仕事中も気もそぞろという状態で、最初は上司に怒られた。でも事情を話したら逆に謝られて困惑した。上司も昔憧れた有名人が白血病で亡くなっているらしく、思う所があったそうだ。

 他人の病気はどうしようもない。医者でさえどうにもできないものを、自分達がどうこうしようもない。出来るのは見守るだけ。

 上司の言葉は嫌な響きとともに胸に圧しかかった。

 ――圧しかかったのだが。


「……焼き鮭食いてえな……」

「……」


 当の本人は、ぼんやりと窓の外を見ながらそんな事を呟いている。

 食欲に傾倒する妄言が吐けるだけ、まだ元気なのだろう。

 病院の看護師さんとも顔見知りになって暫く経つ。看護師さんから聞く症状も安定しているらしく、もしかすると回復できるかも――なんて言葉を貰っている。


「食欲あるの」

「ぼちぼちって所かな。病院食は不味いってずっと聞いてたけど、ここのメシは美味いと思うよ」

「へえ。じゃあ何かあったらここにお世話になろうかな」

「おいおい、何かって何だよ」


 僅かな期待に縋れるほど、彼の手に肉がついている訳では無い。

 更に痩せてきているように見えて、骨と皮しかないような手首。

 疎らに髪が抜け始めたのを隠すために被り始めた毛糸の帽子。

 いつも乾いてひび割れた唇の皮。

 そんなものを見て、食欲があるなんて誰が信じられるだろう。

 誰も居ない四人部屋には少し前に新しく入院患者が増えた。でも、その患者も今日来た時には入り口の名前も部屋の荷物も消えていた。


「異世界転生するとして、何がしたいんだよお前」

「俺? ……ハーレム作るのは決定事項として、……英雄になるのも決定事項で」

「英雄になりたいのかよ」

「じゃないと異世界転生したいなんて思わないよ。皆が俺を崇め奉る。最高だな」

「なんとも低俗な思考でおじゃる」

「言うねぇ」


 掠れる声は、もう前のように元気な笑い声さえあげられなくなってた。

 見舞いに持って来るものは無難に飲むゼリーにしたが、それさえ封も切られず置かれているだけ。

 買って来た姿のまま三つほど積まれたそれらを見ていると、視線に気付いたのか彼は口を開く。


「お前の方こそさ。異世界転生できるとして、何がしたい? どんな世界がいい?」

「……こっちに聞くのか」

「ほら、お前の好きなゲームあったじゃん。初っ端人肉お出しされる奴。家に兵器落とすまでがチュートリアルだったっけ?」

「あの世界は絶対嫌だ。ゲームだから良いんだよ。平和な奴がいいな、牧場やるやつとか」

「……それは現実でやれよ」


 他愛ない話をしていると、不意に廊下の向こうから足音が近付いてくる音が聞こえた。

 消灯時間以外は開け放したままにしろと言われる扉は、その足音が部屋の前で止まる小さな音までをしっかり伝えて来た。


「……お?」

「……」


 足音に気付いて振り返ると、入り口で青い作業服を着た男性が立っていた。

 白髪交じりの髪はふわりと厚みがあり、体は中年太りと筋肉質の中間といった具合にがっちりしている。

 男性はこちらを見て固まっていた。来客があるなんて思ってもなさそうな顔。


「……父さん。こんな時間に来るなんて珍しい」

「おじさんか」

「そ。いつもは仕事なんだけどさ、ほら、着替えとかお願いしてるんだ」


 彼の父親なんて久し振りに見たから、すぐに誰だとは思い出せなかった。確かに、彼には一緒に暮らしている家族はもう父親しか家族はいなかったかと気付く。

 おじさんを最後に見たのは、中学時代に黒いスーツを着ていた時だった。


「……タカユキ、着替え持って来たぞ」

「助かる、ありがと。仕事は?」

「……少し抜けさせて貰っただけだ。……洗濯物は?」

「今日はこっち。頼むね」

「ああ」


 どこかぎこちない親子の会話。おじさんは洗濯物の入った籠を受け取って、そのまま出て行こうとする。

 息子の見舞い滞在時間、およそ三十秒。あまりに短すぎないかと思ったが、それは自分という異分子が家族の邪魔をしているのかと思い至った。


「……もう帰るわ」

「え、もう? 折角来て貰ったのに」

「お前もゆっくり寝てないといけないだろ。治ったら本格的に異世界転生する世界どこがいいか考えようぜ」

「……」

 

 彼の笑みには既に力が無い。こんな短い間しか話してないのに、疲れてしまっているらしい。

 これならもう少し早くに退室していればよかった。荷物を持ち上げて、席を立つ。


「また来週来るよ。暑さで体壊すなよ」

「そっちもな」


 それが、彼の顔を見ながら話した最後の会話だ。


 病室を出てから廊下を歩くと、ナースステーションにさっき見た青色の作業着の男が立っていた。さっきのおじさんだとすぐに分かったが、看護師さんに丸めた背中を撫でられている。

 何事か震える声も、近付くにつれて聞こえて来た。最初に自分に気付いたのは看護師さんだ。


「……あ」


 看護師さんも、言葉が出ずに悲し気な顔を隠さない。昔はよく白衣の天使と聞いたが、天使はそんな悲し気な顔をするのだろうか。

 看護師さんの様子が変わったのに気付いて、おじさんが振り返る。……あまり似合わない、白の綿ハンカチを顔に当てていた。


「……」

「………」


 何も言えずに、見つめ合う。

 その瞳は真っ赤になっている。濡れているハンカチから見ても、だいぶ泣いていたのだろう。

 ここじゃなんだから、と、看護師さんは近くの面会所に案内してくれた。テーブルと椅子が並ぶ、ちょっとした憩いの空間だ。

 今は誰もいない。


「タカユキはな」


 壁沿いに設置してある『見舞客の方はご自由にお飲みください』のポットから茶を持って来てくれたおじさんは、二人分の茶をテーブルに置いて話し始めた。

 病室に居る時よりも静かな空間に、朴訥とした人柄を現す低い声だけが聞こえている。


「……俺が行くと、いつも……具合が悪そうにしているんだ」

「え」

「薬の副作用、らしい。呻くばかりで、俺と話らしい話も最近は出来ていない。はい、か、いいえ、か、どちらかで答えられるような質問をするだけで、話は終わる。……でも、看護師さんからな、聞いていたんだ。君が来ている時のタカユキは、いつも明るく話してるんだって。半信半疑だったが、俺は、久し振りにあいつと会話らしい会話をした」


 たった数秒の短い会話。あんなもので会話と呼べるのか。それじゃあ、自分達がいつもしている会話って長話にならないか。


「……嬉しかったんだ。ありがとう」


 そう言っておじさんはまた涙を流す。白いハンカチは掌に握りしめられて、皺ばかりの物体となり果ててしまっている。

 いえ、なんて言葉を返すのに精いっぱいだ。こんな風に感謝されるようなことはしていないのに。


「君の事をあいつがたまに話すのを、前から聞いていた。君みたいな友達がいてくれることも嬉しい。ありがとう」

「……そんな事。自分は、別に」

「家内が死んだ時も、君が支えてくれたと聞いている」

「……」


 彼の母親――おばさんは、自分達が中学生だった時に死んだことは聞いている。

 葬式に出席はしたものの、中学生が何かしら出来る訳じゃなくて。

 呆然としているあいつに、なるべく声を掛けて、少しでも喪失の虚無感から離してやれたらなって思っていた。


「家に遊びに行った時、よくお菓子とか御馳走になってたから……。おばさんのお菓子、美味しかったです」

「家内はね、子宮癌だったんだ」

「……」

「白血病は遺伝しない病気、とは言われた。知識としてある。……でも、俺は、……病気で家族を二人も失うことになる。この辛さは、どう、言葉にしたものかも分からない……」


 もう、おじさんの顔は見えない。床と平行になるくらいに顔を下げて、ぼたぼたと涙が落ちるのだけは見えた。

 二人も――なんて、そんな、縁起でもない。


「や、やだな。まだあいつが死ぬって決まった訳じゃ無いじゃないですか」

「……」

「死にませんよ。元気になりますよ。あいつ、死んだら異世界転生するとか言ってるんですよ、そんな馬鹿言えてる間は死にませんよ。絶対、おじさん置いて死にませんよ」

「………」


 気休めかも知れない。

 口から出てくる言葉は先を見てない希望でしかないけれど。


「死にませんよ、あいつは」


 ――分かっていたのだが。


 白血病患者が余命三ヶ月で、無菌室に入っていない理由くらい。

 分かっていても、それをあいつに重ねたくなかった。

 あいつは俺と同い年で、いつもみたいに馬鹿な話を続けていて。

 ここ最近こそ忙しくて会えていなくても、病気が治ったらどこか一緒に遊びに行ってもいいかな、などと。


 そんな希望が、叶う訳が無いと。




 それから一週間で、タカユキは退院することになった。

 それが完治しての退院でないことも、分かっていた。

 どうしても抜けられない仕事で、その時も見舞いには行けなかった。

 退院から四日目。

 うるさい蝉の鳴き声に負けない通知音をさせて、タカユキからメッセージが来た。


 『息子が亡くなりました』


 ――お父さんがタカユキの携帯から送信したようだった。

 そのメッセージを見るだけで、一瞬目の前が暗くなって、思わず携帯の電源ボタンを押してしまった。

 流れる汗が、暑さのせいか冷や汗なのかも分からない。


 頭では理解していることばかりだった。

 あいつの病気も。

 あいつの病状も。

 今来たメッセージの意味も。


 それのどれもを受け入れる事が出来ないだけなのだ。




 ……葬式なんてものは出たことがある。

 けれど、自分と同い年の誰かの葬式になんて行ったことが無い。

 帰宅一番、手荷物を放り投げて真っ黒のネクタイを緩め、茫然とパソコン前の椅子に座る。この家には、座れるのがベッドかこの椅子かしか無かった。


「……」


 通夜も出た。

 告別式から先程帰って来た。

 仕事は今日は有休を使った。

 予定の無い自由時間になった日中、自由はあれど考えることが何もない状態になって息を吐く。

 涙は出なかった。

 啜り泣きは所々から聞こえた。

 あんなに若いのに――なんて、あいつよりも年を重ねた知らない中年女性が泣いていた。


 分かってんなら代わってやれよ。

 あいつだって死にたくて死んだわけじゃないんだよ。


 出来もしない暴言は唇の先に出て来ることは無かった。

 ただ茫然と、明るい日中の室内で、これまで見て来た事を何度も思い出していた。


 ――俺、異世界転生するから。


 あいつだって出来ない事を笑って言っていた。

 その言葉を、例え上辺だけでも実現させたくなった。


「……」


 パソコンの電源を入れて、起動を待つ。

 いつも見慣れたデスクトップの画面が、整理できず取っ散らかったままのアイコンばかり表示する。

 その中に、いつも片隅に避けて置いていた、ゲームのアイコン。

 あいつが好きだったけど転生したくないと言っていた、


「……」


 起動して、ニューゲーム。

 プレイヤーキャラの名前は。


「……『タカ』……『ユキ』」


 異世界転生なんて信じない。

 それでも、叶ってほしい願いはあった。

 あいつがもう病気で苦しむことも無く、あいつが夢見た英雄譚を綴れるように。

 それは俺のプレイヤーとしての腕にも掛かっているのだが。


「平和な世界じゃないけど、許せよ」


 キャラメイクが終わって、なるべくあいつに似せたつもりのプレイヤーキャラが動き始めた。

 こんな奴、あいつに似ても似つかないのに。


 それでも、冒険の始まりに心の慰めを求めてしまう自分がいる。

 『彼』の物語は、今始まったばかりだ。


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