〈六〉本当に欲しいもの
『子種をください』
たっぷり、三秒。朱華の発言を反芻した宵藍だったが、その口から出たのは「……は?」の一音だけだった。
混乱と困惑と、それから苛立ちが宵藍の中に沸き起こる。朱華を抱かないという話をしているのに、何故子種などということが言えるのか。この娘は一体今まで何を聞いていた? ――そんな苛立ちを宵藍が丁寧な言葉に変換しようとしていると、先に朱華が話を続けた。
「男性はお一人でも処理できると教えられました。宵藍様が私と閨と共にするのがお嫌なら無理強いはしません。ですが代わりに子種をください。そうすればお互い役目が果たせますし、宵藍様のご希望にだって添え、」
「――いい加減にしなさい!」
「ッ……」
貫くような怒声に、朱華の身体がびくっと強張る。そんな姿に宵藍は少しだけ罪悪感を抱いたが、それを振り払うように首を振りながら口を動かし続けた。
「あなたは何も問題を理解していない。私があなたを抱くのは嫌だと分かっている? そうでしょう。これだけ明確に拒絶しているんです、分からない方がどうかしている。ですが何故嫌なのかは全く理解していない」
「それは! 宵藍様にとって、わたしが気持ち悪い存在だからで……」
「私が言っているのはその理由ですよ。はっきりと言葉にもしました」
朱華の瞳が揺れる。彷徨う視線が、彼女の狼狽を宵藍に伝える。しかし朱華はすぐにきゅっと目を瞑ると、躊躇いがちに口を開いた。
「……わたしが人形のようだからですよね? 自分のことなのに他人に聞いて教えてもらうことしかできないのが、宵藍様には受け入れられないのですよね?」
宵藍からは、返事はない。代わりに聞こえるのは呆れたような吐息。その音に胸がきゅうとなって、朱華は「でも!」と声を荒らげた。
「宵藍様のそれはお役目とは関係がありません! わたしにはわたしの役目があり、宵藍様にも宵藍様の役目があります。私情ばかりを優先してお役目を放り投げるのは、あまりに子供じみた行為だとは思わないんですか!?」
朱華が睨むように宵藍を見る。必死な声だった。しかし、宵藍の表情は冷たいまま。
何故ならたった今、宵藍の中で苛立ちがはっきりと怒りに変わったからだ。先程大声を出して紛れた分もなくなった。急速に熱くなった体温は、その反面、彼の頭の中の温度を下げる。
「あなたには何を言っても無駄なようですね」
朱華に対して抱いていた気持ち悪さが、諦めに変わった。この娘は決して自分の意見を曲げない。それが他人に刷り込まれたものだと言っているのに、そのことを考えもせず、最初と同じことを言い続けるだけ。そんな相手に、いくら自分が心を砕いたところで何も伝わらない。
「今ので確信が持てました。私達は決して心を通わせられない。互いを理解することもできない」
最初よりもずっと冷たく、鋭い声で朱華を突き刺す。
「夫婦ごっこはお終いです。明日にでも陛下に離縁の話をしてきます。私ではあなたを満足させられないとでも言えばどうにかなるでしょう」
「そんな……! そんなことをしたら、あなたの立場が……!」
「朱華様のせいですよ。あなたが離縁を申し出てくれれば原因を追求されることはないのに、私が言い出したとなると話は変わってくる。根掘り葉掘り聞かれ、あらぬ想像をされて……立場どころか人間としての尊厳と信用も失うでしょうね」
「それが、わたしのせいだと……?」
「ええ」
きっぱりと返された声に、朱華の目が湿り気を帯びた。
「何故そんな酷いことをおっしゃるのです……わたしは、わたしの役割を果たしたいだけなのに……」
「酷い? 酷いのはあなたの方ですよ。あなたは私のことを理解しようとする素振りを見せながら、結局は私の意思を無視して自分の我儘を押し付けるだけではありませんか。それにあなたはさっきはっきりと言いましたよ。私があなたを気持ち悪いと思うのと、お役目は全く関係がないと。その気持ちを優先するのは子供じみた行為だと。あなただって同じです。お役目を優先するのであれば、さっさと離縁して別の男を見繕ってもらえばいいのです。訳もなく私にこだわるのは子供じみた行為だ」
いつしか宵藍の目には朱華の顔が映らなくなっていた。代わりに視界に入るのは彼女の頭頂部。赤みを帯びた髪が夜闇に蝕まれ、まるで黒髪のような輝きを放つ。
場違いにも、よく手入れされている、と思った。きれいな艶のある髪は、触れたらさぞ気持ちが良いのだろう。〝朱華様〟付きの侍女達が毎日せっせと手入れをしてこの少女を作り上げているのだと思うと、内面どころかこの入れ物さえ作り物のように思えてくる。
「離縁には時間がかかります。早く周りに頼んで新しい男を用意してもらってください。あなたには時間がないのでしょう?」
宵藍が追い詰めるように言えば、美しい艶を放つ髪がふるふると小刻みに揺れ出した。
「なんで……なんで分かってくださらないんですか!」
ふわりと、柔らかそうな前髪が朱華の顔の周りで跳ねる。その苦悶の表情すらも引き立てるように。そうして出来上がった作り物の入れ物が、宵藍を見つめる。
「わたしは自分のお役目を果たしたいだけなのに! 旦那様を愛し、子を成すことがわたしの存在意義です! わたしはあなたに嫁ぐと決まってから、あなたのことを知ろうとできるだけのことをしました。あなたのことを愛そうと……! それなのにそんな簡単に別の男にしろだなんて言わないでください! あなただってそうやってわたしの気持ちを蔑ろにするじゃありませんか!」
そう言って肩で呼吸をする朱華は、まるで本物だった。上気した頬も、真っ赤に濡れた目も、そこに朱華の本心があるのだと訴えかけてくるかのよう。
「私を、愛す?」朱華の様子と思ってもみなかったその言葉に、宵藍の理解が少し遅れる。
「……何故私を愛そうと? 子を成せれば夫への感情などどうでもいいでしょう。たとえ私のことを嫌っていてもお役目には影響はないはずです。誰かに夫は愛すべきだと習ったのですか?」
子を成すことが自分の役目――この少女は徹頭徹尾そう言ってきた。そう振る舞ってきた。それ以外の考えや望みなどなく、自分はその役目を果たすためだけの存在なのだと態度でも言葉でも示してきた。
だが今、彼女は夫を愛したいと言った。役目とは関係のない欲求だ。それまでの朱華の言動からは理解できない発言に宵藍が戸惑っていると、朱華が「いえ……」と、誰かに習ったのかという宵藍の問いに否定を返した。
「では何故」
「家族に、なれると思って……」
「家族?」
宵藍が怪訝そうに問えば、朱華はぽつりぽつりと話し出した。
「わたしには家族がおりません。誰の腹からも生まれていない……母も、父もおりません。子はたくさんいるはずですが、わたしには彼らの記憶がありません。それに、仲の良い侍女も結局は他人……家族にはなれません」
気落ちしたような声が、室内を満たす。
「
「己火は……多分、家族じゃないんだと思います。彼の主はわたしですが、それは昔のわたしであって今のわたしじゃない。彼はただ、過去の命令を守ってくれているだけです。明確な主従関係がある以上、彼は家族とは言えない」
言いながら、朱華は自分の気持ちがどんどん暗くなっていくのを感じていた。言葉にするごとに、自分は孤独なんだと言い聞かせられている気分になる。ほかでもない自分の声のはずなのに、過去の自分が今の自分に語りかけてくる気がする。
「子を産めば家族ができます。でも子にとってはわたしだけでなく、父親もれっきとした家族。ならば子を通してその子の父である夫もわたしの家族です。家族のことは愛したい。周りから教えられたわたしのものではなく、わたし自身のものが欲しいんです。だから夫を愛したい。愛して、自分の力で家族になりたいんです」
伝われと、宵藍を見つめる。彼が自分を嫌いなことは分かっている。理解してくれないことも、もう分かった。
けれどこの気持ちは否定されたくなかった。初めてはっきりと口にした、自分の想い。今までなんとなくでしか感じていなかったそれは、こうして言葉にした途端、強い実感を持った。そんな大事なこの気持ちを、誰かに無下にされたくなどない。
そう願いを込めて宵藍を見続ければ、彼が目を動かすのが見えた。ずっと合うことのなかった
「……ならば最初からそう言えばいいものを」
当惑と、罪悪感。その瞳から読み取れる感情に、朱華が首を傾げる。
「初対面の時からあなたが口にするのはお役目のことばかり。お陰で私はあなたには自分の意志が全くないとばかり思っていましたよ。意志がないどころか善悪の区別も付かない……そんな赤子のような相手を抱かねばならぬのかと、この役目を引き受けたことを後悔しました。だから遠ざけた」
「えっと……」
何が言いたいのだろう、と朱華の両の眉根が近寄る。そんな彼女に宵藍は小さく息を吐くと、「お役目のことは一旦忘れてください」と些か柔らかい声で告げた。
「私に時間をください。もう少しだけ、あなたを理解できるように努めてみます。そしてもし理解できるようになったなら、その時はまた改めてしっかりと話し合いましょう」
「それは……離縁しなくていいと……?」
「保留です」
返ってきた言葉に、朱華の首がまた傾いた。保留とはどういうことだろう。今すぐ離縁ということではなさそうだが、離縁の話自体が消えたわけではなさそうだ。
けれど、それでは都合が悪い。
「でも、保留だと時間が……」
「そう長くはかけません。あなたに時間がないことは理解していますから」
宵藍の目が朱華を見つめる。その視線に朱華は嘘がないことを悟ると、やっと「分かりました」と頷くことができた。
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不死鳥の嫁入り 〜透明な檻の中で少女は自分を嫌う夫と愛を知る〜 新菜いに/丹㑚仁戻(ほぼ読み専) @nina_arata
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