二つの月
坂月タユタ
二つの月
夜空に輝く二つの月を、私は駅のホームから見上げていた。少し感覚を開けて浮かぶ衛星たちは、神々しい光を放って周囲を照らしている。一つは昔からある自然の月。もう一つは、人類が造り出した人工の月――「ルナ2号」だ。
地球は長年のエネルギー危機に悩まされていた。電力消費のピークを抑えるために、夜間も明るい環境を作れないか。そうして生まれたのが「夜を昼に変える月」の構想だった。
数十年の研究と莫大な投資を経て、ついに打ち上げられたルナ2号は、地球の軌道を周回しながら光を放つ。太陽光を蓄え、それを夜間に拡散する技術で、夜の街に昼間のような明るさをもたらすのだ。
「最初の夜には歓声が上がったのよ」と、隣に立つ同僚の西村が言った。「ほら、みんながスマホを空に向けて。あの頃は希望があったわよね」
「そうだね」と私は曖昧に答えた。
希望――かつて、二つの月が示した未来は輝かしいものだった。ルナ2号のおかげで電気代は下がり、夜間の犯罪率も減少。経済効果も計り知れなかった。
しかし、時間が経つにつれ、人々の生活は少しずつ変わっていった。夜でも昼のように明るい環境は、活動時間を制限するものを取り払った。その結果、労働時間は伸び、休息は短くなり、人々はいつの間にか「止まる」ことを忘れてしまったのだ。
私の仕事もその一つだ。二十四時間稼働のデータセンターを管理する仕事。シフト制の勤務はあってないようなもので、明けても暮れても働き続ける日々。今日もまた、深夜に緊急対応が入り、疲れた体を引きずって帰路に着いている。
「でもさ、二つの月があるなんて、子供の頃に聞いたら夢みたいだって思わない?」西村が冗談めかして言う。
「まあ、ね」と私はまた曖昧に返す。子供の頃の私は、誇張なく二十四時間働かされることを、予測できていただろうか。
ホームに電車が滑り込んできた。明るい夜空に浮かぶルナ2号をちらりと見て、私は車内に乗り込む。席に腰を下ろすと、不意にスマホが震えた。画面を見ると「速報」の文字が飛び込んでくる。
《ルナ2号、故障の疑い。明日未明に一時的な運用停止へ》
私は思わずニュースを読み進めた。どうやら蓄電装置に異常が発生し、発光が止まるかもしれないという。技術者たちは迅速な対応を進めているが、一時的に夜空が「一つの月」に戻るらしい。
私は西村にそのことを伝えようと顔を上げたが、彼女はすでに車両の反対側で眠りについていた。疲れた表情を浮かべたまま、頭を窓に押しつけて、呑気に大口を開けている。その姿に、私は言葉を飲み込んだ。
電車は家路を急ぎ、街の明るさが次第に薄れていく。家に着くと、私はそのままソファに倒れ込んだ。まどろみの中で、ふと先ほどのニュースのことが頭をよぎる。ルナ2号が光を失った時、私たちはどんな夜を過ごすのだろう。久しぶりの暗闇に戸惑うのか、それとも何かを思い出すのだろうか。
答えが出る前に、私の意識は眠りに落ちていった。
***
夜中、ふと目が覚めた。時計は午前3時を指している。カーテンの隙間から漏れる光が、いつもよりずっと暗い。私は導かれるように窓辺に立ち、外を見た。
そこには、一つだけの月が浮かんでいた。自然の月だけが夜空に輝き、街はまるで遠い昔のような闇に包まれている。辺りは静まり返り、懐かしい夜の匂いがした。
ぼんやりと夜空を眺めていると、仲良く並んだ星たちの姿が目に入る。あれ、何座だっけ? 昔はよく見ていたはずなのに、もう名前も思い出せない。でも、まだあったんだ。当たり前のことなのだが、かつての夜がまだ存在しているという事実が、なんだか私を安心させた。
その夜、私は久しぶりに深く眠った。暗闇がこれほど温かく、優しいものだったことを、すっかり忘れていたのだった。
***
翌朝、目覚めるとニュースでは「ルナ2号が復旧した」と報じていた。ずいぶん早い仕事だ。キャスターが話すところによれば、今日の夜には二つの月が戻るらしい。
しかし私は、あの一つの月の夜を忘れないだろう。あらゆる利便性と引き換えに、私たちは穏やかな夜を手放した。それが人間にとって幸せだったのかどうかは、もう誰にもわからない。
二つの月 坂月タユタ @sakazuki1552
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