無言の愛 - マルガリータ
コトン、と、雨粒が店の屋根を叩いた。その音に、檸檬はふと顔を上げる。
雨は次第ににぎやかさを増していき、窓の外に、どんよりとした暗い景色が広がっていた。
「ありゃ……通り雨、かな?」
「ですね。予報では」
パラパラ、サアサアと。断続的な音はまるで、小さな川のせせらぎのよう。地面を打つ雨脚は、もはや絹糸のように細くなってしまったのだろう。
辺り一帯には、流れるような水の音が響いていた。
だけど――。
こんな水っぽい空気の中でも、どこか居心地よく感じてしまう。その理由は、このバーのおかげだろうと檸檬は思っていた。
彼女は今日も、退勤と同時に<BAR クリスタル>まで足を運んでいる。眩いプリズムが、ガラスのメリーゴーランドからチカリと反射していた。
「実は傘、持ってないんだよねー……」
「おや」
「だから雨宿りがてら、いーっぱい頼んじゃおうかな」
「小一時間ほどでやむと思いますよ」
たしなめるような物言いだが、悠の声音は不思議とまっすぐで、そしてどこかみずみずしい。その声は外の雨音に負けることもなく、檸檬の耳にしっかりと届いていた。
悠は続けて、「そういえば……」と、静かに声を響かせる。
「こんな雨の日に、ピッタリのカクテルがございます」
その言葉を契機に、彼女はグラスを磨く手を止めた。檸檬はカウンターに両肘をつき、「ぜひ、お願いします」と笑顔で応える。
差し出されたのは『M-30 レイン』。雨の日をたたえたような、淡いスカイブルーの色合いだった。
雨模様の風景を、グラスの中に閉じ込めたようにも見える。
思わず「すごい」と声を零してしまっていた。
檸檬は誘われるようにグラスに手を伸ばし、一口目を含む。柑橘の酸味としっとりとした甘い味わいが、口いっぱいに広がっていた。
――まるで、日々の疲れをそっと洗い流してくれるように。
「味も……うん、サッパリしてて美味しい……っ」
「お口に合って良かったです。こちらは、雨が好きなとある音楽家のために捧げられたカクテルなんですよ」
「へえ、そっか……じゃあ、雨がテーマのカクテルなんだね。悠さんってば、本当にお酒のうんちくが多いんだから」
檸檬は称賛するように、静かにグラスを傾ける。よどみの一つもない透明なグラスの中で、水色の液体がくるりと円を描いていた。
「きれい……」
雨だれの音色を楽しみながら。アルコールに浮かされて、そんなことを呟いてみる。
すると、悠はそっと窓の外に目を向けた。
雨は、まだまだやみそうもない。
檸檬はふと、このカクテルのように雨空に思いを馳せてみる。自分は、どうだろう。雨、ちゃんと好きだったかな。
「……なんでもその音楽家は、ご令嬢の名前にも、雨にちなんだものにしたんだとか」
「えー? あはは、それはよっぽど……でも、ちょっと分かるなぁ。好きなものを名前に込めたくなるって気持ち」
「ですね。それが雨の日というのが、いかにもアーティストっぽくて……ところで、私は檸檬さんのお名前も素敵だと思います」
突然の悠からの振りを、檸檬は笑顔で受け入れた。
「そう? へへ、ありがとう。私もね、自分の名前は結構好きなんだ」
カウンターにグラスを置いて、いそいそと足元のバッグに手を伸ばす。中からは、レモンのチャームがついたシャープペンシルが取り出された。
「見て、悠さん。このレモンはプラスチックだけど、クリスタルカットが施されてるの。こんな風にさ、レモンのグッズは可愛いものが多いんだよね」
檸檬が大げさにペンを抱きしめると、悠はくすくすと笑いながら。そして、さり気なく水を差し出してくれた。
「あ……ごめんなさい」
「いえ。可愛いシャーペンですね」
まだ、本格的に酔ってる訳ではないけれど。それでも、優しく微笑んでくれる悠の優しさに、ついついいたたまれなくなってしまう。
檸檬は大人しく、それをいただくことにした。
二、三回しっかりと飲み下し、それからふう、と息をつく。
「私の、立花って苗字にも檸檬の名前はピッタリだし……だから、両親には感謝してるの。つまりね、我慢をしてる訳じゃない。こうやって胸ポケットとかに差し込むと、仕事中も使えそうな気はするんだけど……」
「控えてしまうんですよね。お仕事柄」
そう、と頷いた。
「でも、こういう小物を持っているとやっぱり落ち着くなー……子供っぽいなんて気にしないで、もっと大事にしたいかも」
檸檬は声を落としながら。そして、自分に言い聞かせるように呟いた。
「やっぱり、明日からは積極的に使おうと思う」
「いいと思います。それに……その方が、きっと名前も喜びますよ」
「……ん? 名前が?」
「ええ」
悠の頷きはしっかりとしていて、肯定をより強調する。
檸檬は数回目をまたたかせ、うーんと首を傾けた。
「親が、じゃないんだ?」
「もちろん、親御さんも嬉しいと思います。だけど名前だって、檸檬さんの人生そのものですから。
日々の出来事や感じたこと、すべてをしっかりと記憶して、ちゃんと寄り添ってくれているはずですよ」
悠は、カウンターに戻されたグラスを受け取ると、そのままおもねるように尋ねてくる。
「お次はいかがなさいますか」
「うん、まだ飲みたい気分なんだけど……」
「では、レモンジュースを使ったカクテルなどいかがでしょう?」
「いただきます!」
「かしこまりました」
檸檬は上機嫌で残りの水を飲み干した。
そうしながら、先ほどの悠の言葉を振り返る。
「名前が寄り添う、かぁ……そんな風に、考えたこともなかったな」
指先で、グラスのふちをそっとなぞった。指についた雫は頼りなく、軽く叩いただけでもすぐに姿を消してしまう。
ずいぶんと、儚いものだ。今の、この雨だって。上がれば良かったなってなるし、地面が乾けば跡形すら残らない。
(でも……)
今は、そんな雨に優しく包みこまれている。この安心感が、檸檬にはあたたかく思えて仕方がなかった。
「お待たせしました。マルガリータでございます」
澄んだ声に顔を上げて、二杯目のカクテルを視界に入れる。
いつの間にか完成していたようだ。シェイクする音でさえ、BGMの一部になっていたらしい。
「このカクテルも、とある女性の名前が由来だったといわれています。少し悲しい話ではありますが……だけど、カクテル言葉にはもう一つの意味もあって」
悠はそこで言葉を切り、少し照れくさそうに告げた。
「〝無言の愛〟。名前はまさしく、ご両親から最初にいただく贈り物ですよね。そして、檸檬さんの人生を静かに見守ってくれる名前こそ、無言の愛そのものだと……私はそう思います」
そう言って、はにかむように向けられた笑顔が、ずいぶんと可愛らしい。
檸檬は素直に微笑んだ。
(言ってることは、ちょっぴりキザだけど……)
だけど、悠のフォローしてくれる気持ちが、しっかりと伝わってくる。
「素敵。何だか、気持ちが軽くなるお話だね……」
「飲み過ぎでは?」
「もう、悠さんってば」
檸檬はそっとグラスに手を伸ばした。グラスを彩る塩がキラキラと反射して、柑橘の甘い香りがやわらかく届く。
氷のような儚い透明感が美しい、キリッとした大人のカクテルだった。
「……すごく美味しい。苦みもあるけど、レモンの甘さもちゃんとあって……そう。爽やかな感じ!」
「ええ。柑橘系はテキーラと相性がいいので、うちでもよくこうやって提供しています」
「ふふ、そっかぁ……甘いし、可愛いだけじゃないんだね。こうやって、引き締めるような一面も持ってるんだ。レモンって……」
檸檬は深く味わうように、ゆっくりと目を閉じる。このカクテルにも、どこか名前の持つ力を感じさせるような――そんな、何かがあるような気がしていた。
「レモンの便利さ、我々としても助かってますよ」
「……悠さんこそ、もしかして酔ってる?」
「まさか」
くすくすと笑いながら、悠は軽く肩をすくめてみせる。そして、おもむろに一枚の白いカードを差し出した。
そこには、<BAR クリスタル>の店名と、端っこにはメリーゴーランドのシンプルなイラスト。
そして、真ん中には悠の名前がデザインされている。
名刺だ。ショップカードとしての役割も果たしているのか、小さな文字で携帯電話の番号も記載されている。
「て、いうか……悠さん、この苗字。〝橘〟って……?」
悠は頷いて、軽く首をかしげてみせた。
「はい。実は私の苗字も、〝たちばな〟なんです。漢字は違いますけれど」
「で、でも!」
あまりの衝撃に、檸檬は身を乗り出して告げる。
「これって、柑橘の字じゃない? すごい、こんな偶然ってあるんだっ」
「ええ、そう。私も驚いてますよ」
驚きと興奮が隠せない檸檬とは対照的に、悠はそっと胸に手を当てて、どこか安心したように微笑んだ。
「気づいて頂けて良かった。だから? って言われるかとヒヤヒヤしていましたよ」
檸檬は首を左右に振り、そして改めてグラスを手に取った。
「橘 悠さん、素敵な名前だね。今日のカクテルもメインは柑橘だったし、すごいなぁ……私、立花 檸檬の名前が余計に好きになっちゃったよ」
「はい。私も、です」
ふと外に目を向けると、雨音が徐々に弱まり始めている。
ガラス窓の向こうには、薄い光が差し込んでいた。
ぼちぼち雨もやむ頃だろう。
悠の名前が印字されたショップカード。メリーゴーランドのイラストが、どこか穏やかな気持ちを呼び起こす。
財布の中にそっとしまいながら、檸檬は心の中で悠の言葉を思い出していた。
名前が人生に寄り添うという、やさしい解釈。
(でも、そうだ……私の名前は、私の人生そのもの)
大切にしなければならない。この名前がもたらしてくれたものには、大切な縁もある。
雨音に包まれた店内で、檸檬は悠に向かい、そっと微笑んだ。
メゾン・ド・ガーリー 折春 昏 @orihar_kon
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