メゾン・ド・ガーリー
折春 昏
初恋 - アップルマティーニ
今日、パンプスを新調した。
仕事中の自分は、いつも大人の仮面をつけている。地味で、目立たないように徹底して。窓口の顔であることを、常に意識していた。
(でも……今夜はちょっとトクベツ)
檸檬は意識して顔を上げる。つまらない日常に、ささやかなスパイスを足してみたくなっていた。
いつもなら、通り過ぎるだけだったガラスのショーウィンドウ。だけど、今夜は思いきって冒険を試みる。
選んだものはグレージュカラーの、先の尖ったシンプルなデザイン。ソールに差し込まれたイエローゴールドの光沢が、外灯の明かりを受けてとろりとした輝きを放っていた。
これを履けば仕事中も、もちろん退勤後の今だって。ふと目線を下げれば、いつでも幸せの色があしらわれている。
短いヒールは歩きやすく、小洒落た感じもバッチリだし。地味だけど、したたかな一品だ――と、檸檬は満足していた。
知らず、気持ちが前向きになる。だって……今からの時間はほんの少しでも、自分に正直でいたいから。
「いらっしゃいませ」
木製のアンティーク調のドアを開けると、バーカウンターの向こう側から柔らかな声が降りてくる。
バーランプの光はほのかに暖かい。ささやかだけど、この店の奥行きまでを、しっかりと照らしていた。
カウンターの端には、このバーの象徴たるガラスのメリーゴーランドが飾られている。
それは、外の風に小さく揺れながら。チカチカと、まるで星のようなまたたきを見せてくれていた。
このきらめきを見るたびに、檸檬はゆっくりと呼吸をすることができる。胸に居座ったままの小さなわだかまりは、まるでモヤのように薄れていくのだった。
カバンを持ち直して、そしてゆっくりと背すじを伸ばす。
「こんばんは、悠さん。今日も一杯お願いします」
<Bar クリスタル>――ここが、私のお気に入りの場所。
ここに来ればいつだって、ヨーロッパのやさしい街並みに来たような……そんな、不思議な安心感に包まれるのだ。
午後6時過ぎ。アフターファイブで仕事が上がって、非正規雇用の立場である自分は、残業を任されることもほとんどない。
今日は、ユウウツな日だった。こんな日に履くことになって、おろしたばかりのパンプスにちょっとだけ申し訳ない。
叶うことなら、もっといい日に迎えてあげたかった。
「……お疲れですね」
「ええ、まあ」
ふう、と小さく息をつく。苦笑して応えながら、檸檬はスツールに腰掛けた。カウンターの中に立つバーテンダーは、注文のために静かに手を止める。
同時に、「あれ?」と声をこぼした。
「今日は、いつもと違う雰囲気なんですね。その髪飾り……りんごですか?」
「あ……ふふ、そう――さすが悠さん。目ざといんだ」
「お似合いですよ。だけど、珍しいな。ひょっとして、お仕事でのPRの一環とか」
「あはは、そんな訳ないですよ。こんなつまらない服装じゃ、さすがに台無しですって」
檸檬は褒め言葉を素直に受け取って、りんごのヘアピンにそっと指を触れた。
「今日、ね。窓口で、ちょっと大変だったんです。お昼にいらしたお客様が、理不尽なクレームばっかりで……他の職員さんの手を止める訳にもいかないから、私がずっと出ずっぱりでして対応してて」
そう。この話は、思い出すだけでもイヤになる。
「役所の書類は分かりづらい」という、ごくごく一般的なクレームから始まって、その後はあらゆる動作にケチをつけられた。
挙げ句、手続きが終わっても延々と居座られる始末。
専門的な知識が必要ならば、正規雇用の職員さんにバトンタッチできるけれど……これは、最後まで私が処理すべき辛い案件になってしまった。
「それは、……そうでしたか」
悠は、気の毒そうに顔をしかめてみせる。たったそれだけの共感で、気持ちがうっすらと晴れていくようだった。
檸檬は首を左右に振り、気を取り直す。それから、小さく肩をすくめてみせた。
「いつもなら〝窓口の顔〟に相応しくないって、お局さんに注意されちゃいそうだけど……同情されたかな? 今日は、お咎めがなかったから」
「それだけ頑張ったってことですよ、きっと。それに……何かいいですね、そういうの。いつも持ち歩いてるものですか?」
「うん、そう。これはね、私にとって、ほろ苦い初恋の思い出なんだ」
うっとりとしたような、どこか寂しそうにも思える声色。檸檬はなにかを思い出しながら、じわりと滲み出る記憶を――その縁を、そっとなぞっていた。
(ああ……)
こんなにも、一瞬で優しい気持ちにしてくれる。そんな貴重なアイテムだから、気づけばもう何年も持ち歩いているものだ。
「……よければ聞かせて頂いても?」
「ふふっ、もちろん」
テーブルに両肘をつき、そっと目を伏せる。
その思い出は、今となっては少し古い。だから、輪郭はぼやけているけれど、当時の気持ちはちっとも色褪せない。
幼い頃の自分の記憶に、檸檬はゆっくりと意識を移した。
あれは、もう20年も前。檸檬がまだ十にもなっていなかった、本当に本当に幼い頃のこと。
当時、ほんのりと好きだった近所の男の子が、このヘアピンを突き出すようにプレゼントしてくれたのだ。
「へえ……」
悠は目を細め、静かに頷いてくれた。
「素敵な話じゃないですか。その彼とは、今は?」
「うん……残念ながら、それっきり。父の仕事の都合でね、うちのお引っ越しが決まっちゃった時なんだけど……」
母親同士の仲が良かったから、私たちは無理やり外に連れ出された。
行き先は個人経営の、小さなかわいらしいお店。店内には、様々な雑貨や色とりどりのアクセサリーが飾られてある。
幼い檸檬は、すっかりと心を奪われた。
プラスティック製の棚には、ガラスの目をした子猫たちが優しくこちらを見つめている。他にも、カラフルな布地に覆われた小物入れや、陶器のオーナメントまで。キラキラとしたアクセサリーなんかもたくさんあって、何を見ても新鮮だった。
当時の自分はあちこち目移りしながら、お気に入りの商品を見つけては母親を振り返り、その返事さえも楽しんでいたものだ。
そして……レジの隣の、白いワゴンに入っていたものが、このヘアピンセット。
ビニールの小さなラッピング袋の中に、赤りんごと青りんごがそれぞれ一本ずつ。ピンの周りには、白くて小さなりんごの花。
その、いかにも子供用のそれに、檸檬は足を止めて見入っていた。
すると、今度は彼が。当時のあの男の子は戸惑いつつも、自分の母親の手を握りながら、真っ直ぐにレジへと向かう。
ポケットに手を突っ込んで、彼は少しだけ動きを止めた。わずかな逡巡を見せたあと、ぎこちなく取り出した小銭を差し出して購入する。
檸檬を振り返り、そして誇らしげにプレゼントしてくれたのだ。
その時はお互いに、とても照れくさい表情をしていたと思う。
たくさんの小物たちに見守られながら、檸檬は震える手でそれを受け取った。小さくお礼を言いながら、泣き出したいくらい嬉しかったことを覚えている。
母親の手を借りて、その場で前髪をとめてもらった。だけど、どこを見ていいか分からずに、ずっと視線を移ろわせていたと思う。
ふと、「良かったね」と、母親に声をかけられた。
「素敵な贈り物。檸檬によく似合ってる」――と。
幼い私は、うなずくことだけで精一杯。結局、母親の腰に強くしがみついていた。
男の子とはそれ以降、最後まで目を合わせることはない。
ただ――真っ赤になった横顔や、耳たぶの形さえ、檸檬の中では鮮明に残っている。
りんごのヘアピンを身につけるたびに、その記憶に救われていたのだ。
初めて、人の思いを受け取ったかつての少女。その時に感じた踊りだしたくなる気持ちは、大人になった今でも生きている。
ほんの少しの勇気で、今までの日常が違って見える。だからこそ、まんまとパンプスを買い替えたのだから。
静かに回想と説明を終える。悠は、やわらかく微笑んだ。
「なるほど。確かに、少し切ないですね。でも、綺麗な思い出だ」
「うん……それにね、私の名前は檸檬なんだけど……ひょっとすると、あの子は知らなかったのかなーって」
軽い調子でそう告げると、悠はわずかな沈黙を挟む。それから、「ああ」と、得心してくすくすと笑っていた。
「それで、ほろ苦いってこと」
「そ。まあ、年頃の男の子だもんね。お母さんたちと近所の女の子と買い物なんて、絶対につまらなかっただろうし」
でも……と、檸檬は言葉を続ける。
「あの時は、うれしかったな。寂しいって気持ちよりも……どこか、報われたような気がしたんだと思う。私の初恋がね」
悠は、小さく感嘆とした息をこぼした。そして、もう一度「なるほど」と口の中で言葉を遊ばせる。
「では――今日の檸檬さんに、おすすめのカクテルがありますよ」
「わ、本当?」
檸檬は、待ってましたと言わんばかりに身を乗り出した。客の期待を一身に受け、悠の細い指先がシェイカーに伸びる。
それからの動作には、一切の迷いがない。いろんな銘柄の液体を混ぜ合わせ、シェイクする姿もどこか確信めいている。
「こちらのリキュールは少々酸味がありますが、果実本来の甘さも感じられる。大人の女性に、よく好まれるフレーバーですね」
そんなうんちくも聞きながら。名優さながらの演技に酔いしれて、檸檬はしばしその幻想に魅入っていた。
「さ、お待たせしました。アップルマティーニです」
やがて、慇懃な態度で差し出される。カクテルグラスには、クリアなライトグリーンの液体が注ぎ込まれていた。
「わー、キレイ……」
「ええ。今夜の、青りんごのヘアピンに合わせて……それから、初恋の彼。その子の気持ちも汲んでおります」
「え?」
グラスに触れる前に、檸檬は首を傾げてみせた。悠は頷いて、眩しそうに瞳を細めてみせる。
それから、ゆっくりと唇を開いた。
「マティーニには、〝知的な愛〟というカクテル言葉がございます。ところで、檸檬さんは島崎藤村という詩人をご存知ですか?」
「え、と……国語で、習ったような」
「十分です。さて、藤村の『初恋』という詩の中では、女の子に恋をした少年と、その気持ちを象徴したりんごが描かれているんですよ」
ぼんやりとしながら、檸檬はその説明に聞き入った。
まだ、どこか掴みきれていない。けれど、けぶる睫毛に覆われた悠の目はひたすら優しくて――その双眸が、檸檬の感情を出口へと、まっすぐに連れ出してくれる。
「……檸檬さんの初恋の人は、きっとロマンチストだったのでしょう。彼はりんごのヘアピンを渡すことで、あなたへの気持ちを表したのだと、私はそう思います」
その時、チカリと一瞬、ガラスのメリーゴーランドがやさしく輝いた。
「……悠さんこそロマンチストだよ」
はにかみながらそう答えると、悠は肩をすくめてみせる。
その頃には、体中にまとわりついたやるせのなさは、すっかりと薄れていた。
檸檬はグラスを受け取って、そっと一口目を流し込む。たちまち、爽やかな青りんごの香りが口の中に広がった。舌に甘酸っぱさを残しながら、ソーダの小さな泡と共に、ゆっくりと喉を滑り落ちていく。
グラスには、りんごのスライスが添えられていた。それは、ほのかに赤く色づいていて、確かに恋をした少女のほっぺのよう。
「改めて、お似合いですよ。檸檬さん」
「……ありがとう。そうだよね。たまになら、こうしてつけてみよっかな。真面目一辺倒な服装なんて、見てる方もつまんないよね」
「ちょっとしたアクセントとしてなら、私はいいと思います」
「へへ――あ。ところで、悠さんは? こういうヘアピンとかは、つけちゃいけないの?」
「え。わ、私ですか?」
檸檬からの質問を受けて、悠は露骨に戸惑った。「似合うと思うけど」と言葉を重ねると、さらに困ったような笑顔を見せる。
「あら」
さっきまでは、とてもスタイリッシュでかっこよかったのに。
「んー、これはこれで……」
「か、勘弁してください……」
「悠さん、ショートだけどまっすぐな黒髪なんだし。お肌も白くてキレイだから、どう? こっちの、赤りんごのヘアピンをつけてみる?」
「それは檸檬さんのでしょ……私は結構です」
「えー、絶対似合うのにー」
檸檬は駄々っ子のように告げた。悠も、おそらくやぶさかではないのだろう。
二人はまるで子供のように、少しの間だけ、小さくはしゃぎ合っていた。
ふと、悠がサイドの髪を耳にかける。その仕草に、檸檬は小さくハッとした。
いつか、今夜のお礼に。彼女の可憐さにふさわしいヘアピンを、プレゼントしてみても良いかもしれない。
このバーでつけていても似合うような、ティアドロップ型のデザインとか。もしくは、耳元を彩るピアスでもいい。
そして、きっと。
こんな夜にこそ、パンプスを新調できて良かったと――檸檬は、心からそう思っていた。
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