命の水は打ち捨てられた井戸から湧き出づる

色街アゲハ

命の水は打ち捨てられた井戸から湧き出づる

 列車の窓から見えた都市の色は灰色だった。

 

 川を隔てた向こう側、分厚く燻んだ雲の覆い被さった下で暗く浮かび上がる都市は、凡そ命といった物が感じられず、巨大な残骸か嘗て都市だった物の成れの果て、とでもいった姿を晒していた。

 きっとあそこにはもう、住む者は誰も居らず、言葉も身体も失った者達が当て所無く現れた消えたりしながら彷徨うだけの、もう墓場ですらない虚ろな入れ物なんだろう。

 何時かはボクもあそこに……、そこまで考えて止めた。向いに薄く目をつむって何か考えてる風な友人の方に目を向ける。時折思い出した様に目を開いては眠そうな目を擦り、ボクと同じ様にぼんやりと外の景色に目を向ける。けど直ぐにうんざりした様に目を逸らすと、また目を閉じて、きっと同じ考えが頭の中をグルグル回っているんだろう、答えなんか出ない考え事に戻ってしまう。

 ボクだって同じだ。色々と頭の中に考えが過るけれども、その一つだってまともな答えに辿り着く事だって出来やしない。だから分かるんだ。友達とボクは同じ、どころか、この列車に乗っている人達全部、ボク等と同じ年頃の子供も居れば、疲れた様に身体の傾いた大人達、みんな答えの出ない袋小路に入り込んで、途方に暮れている。助けの手なんて無い。皆が皆、自分が今日を生き抜くのに精一杯で、人の事まで目を向けている余裕なんて無いんだ。皆が皆、どうして自分だけがこんな目にって思ってる。厚ぼったい雲が空を覆って、そこからそんな皆の涙の雨が降る。雲は物凄い勢いでグルグル回って、その中で調子の外れた千のオルガンが鳴り響くと、たくさんの羽根の擦り切れた壊れた天使が、虚ろな眼窩と底の無い口を空に向けて、声を涸らしたガラガラ声で何やら意味の分からない歌? を頻りにがなり立てている。お願い、誰か助けてよ。


「ホラ、見てあそこ!」

 不意に友人がボクの手を取り窓の外を指し示す。何やらえらく興奮した様子で、頻りに「あそこだよ、ホラ、あそこ!」と指さす方向に目をやると、通り過ぎる間際に目に映ったそれは、草臥れた住宅地の間にポツンと切り抜かれた更地。その外れに半ば草に埋もれた格好で立っているのは、赤茶けた錆の浮いた、組み上げ式の井戸だった。

「珍しいねえ、今でもあんなのあったんだ。」

 まるで宝物でも見付けたかの様に友人は曇りの無い笑顔を向けて来る。ああ、これだ。この笑顔にボクはどんなに救われた事だろう。初めて目の当りにした、その時からボクはまるでまばゆい光に吸い寄せられる蛾みたいに、友人の傍を離れられなくなってしまったんだ。それまでボクの生きて来た黒と白と、それから煤けた茶色しかない世界に、他の色も在るんだって事を教えてくれたんだから。

 片やこのボクに、友人に対して返せるものが何か一つでもあっただろうか。自分に何が在って、何が無いのか今以て分からないままでいたこのボクに。

 だからだろうか、突拍子もない事である事は重々承知の上で、ボクは友人の手を取り促すのだった。

「次の駅で降りようよ。あの井戸を見に行こう。」

「えっ」

 驚いた様に友人は大きく目を見開いて、手を引っ込めようとした。ボクはその手を離さない。何時だって遠慮しがちで、めったな事では自分から何か行動を起こさない友人を、ボクは開いたドアから自分諸共連れ出した。

「大丈夫かな、こんな所で降りちゃって。」

「定期だから大丈夫だよ、乗り降り自由さ。」

 自信ありげに言っているけど、本当は内心ドキドキしていた。ボク等の通っている学校がミッション系という事もあり、常日頃から‶折り目正しく、清らかであれ″と教え込まれているものだから、こんな風に決まった道筋から外れる事なんて実は初めての事だし、それでなくとも普段だったらただ通り過ぎるだけの意識にも上らなかった駅をわざわざ選んで降りるという、日常の崩れる瞬間に直面する機会、そうそう経験する事じゃあない。


 知らない駅の知らない街に降り立って、思っていたより緊張していたのか、気付くとボク等はどちらからともなく手を握り合っていた。

「わあ。」

周りを見渡して、友人は声にならない声を洩らす。

「本当に降りちゃった。どうしよう、怒られないかな?」

その言葉に、僕は軽く肩を竦めて見せた。

「大丈夫なんじゃない? それに、そうでなくとも怒られるだろうボク等。」

「確かに、そうだ、ね」

 友人の顔が曇る。言ってからしまったと思ったがもう遅い。事実は時として人を傷付ける、とは良く聞くが、実際ボク達は二人とも傷付かずにはおれない‶事実″の中にいた。これこそがボク達二人を結び付けるもう一つの理由だった。家に帰っても居場所が無い。何時だって息を潜めていなければならず、いつ爆発するか分からない理不尽な怒りに耐え続けなければならなかった。


「何でアンタは何時も私を困らせるの! 何時だってそう! 何で、なんで、なんで……!」


 友人の母親は何か事ある毎に癇癪を起こしては、こんな言葉で延々友人を責め立てて、手こそ上げる事はなかったけど、家の外にまで響く甲高い声を絶えず張り上げていた。それが日常であり世界その物だった友人は、何時しかちょっとした事でも身体を強張らせる様になってしまい、それがまた別の失敗を生む呼び水となる。至る所にばら撒かれた怒りの種がその上で次々と芽吹いて、最早怒っている方も怒られている方も何が理由でそうなっているのか分からなくなってしまうのだ。


「何で生きてるんだろう。」


 そう友人が零す事が有った。


「生まれて来ない方が良かったのかな?」とも。

 

 その時の友人は、今にも消え入りそうな表情で。堪らず強く抱きしめて、「キミは悪くない。」と背中をさすりながらそう言い続け、落ち着くまでボクはずっとそうしていた。


 ボクはボクで、家に居場所なんて無かった。母親は、お母さんは、何時だって機嫌が悪くて、家の事をしながら、その目は何処か別の所を見ている様で、


「何で……、……ばっかり、……許せない、……アイツ……、」


 ブツブツと呟きながら、心ここにあらずといった様子で家事をする姿は、何かに取り付かれている様で、怖くて近寄れなかった。それでも一心不乱に動いてばかりいる様子を見兼ねて、何か手伝おうと近寄ろうものなら、一言、


「邪魔!」


 と、跳ね除けられ、ボクは終いに関わる事を諦めてしまった。話し掛けもした。お母さん、何でそんなにイライラしているの? 何か酷い事された? ボクに何か出来る事ない? でも、全部無駄だった。「うるさい!」


 そうしてまたうわ言の様にブツブツと呟きながら仕事に戻る。その様子をただ眺める事しか出来なかったボクは、こんなにもお母さんを苛立たせている人、人達? の中に自分が含まれていない事を願う位しか出来る事は無かったんだ。


「神様は何時も私達を見守っていて下さいます。」

 学園のシスターの口癖の様な言葉。本当かどうかは知らない。むしろ嘘だったら良かったのにな、と思う。だって、もし本当に神様が居てボク達を見守っているのだとしたら、こんなボク達を見て何もしてくれない凄く意地悪な神様、という事になっちゃうもの。ひょっとして、苦しむボク達を見て楽しんでるのかな? そんな事まで考えてしまう。いけない事とは分かっているけれども。こんな事を言ったらシスター達は怒るかな、悲しむかな。


 放課後の帰り道、駅に乗るまでの道のりを歩きながら、ボク達二人は語り合った物だ。‶こんな所から逃げ出したい、でもどうしたらいいなかな、今は子供だからどうしようもないけど、大人になったらきっと、自分達で仕事と住む所を見付けて、何処へでも好きな所へ行けるよ、きっと。大人って何歳から? 確か十八からじゃなかったかな、今ボク達は十一だから、あと七年だね、……、……、気の遠くなる様な長さだね、そうだね、長過ぎるよ、そんなに待てるかな、それまで生きていられるのかな、駄目だよ、めったな事を言うもんじゃないよ、なれるよ大人に、必ずなってこんな所から出て行くんだ。″そんな、僅かばかりの希望に縋って。


 でも、心の中では不安を抑え切れなくて。想像も出来ない、自分達が周りの大人達と同じ様に大きくなって、今とは似ても似つかない姿になってしまうという事が。もしかしたら身体だけじゃなく、心まで変わってしまって、こんな事考えてる事すら忘れてしまうんじゃないかって。今日ここにいる筈のボクは、明日にはもう何処にもいなくなって、その事にすら気付かない。厭だ、そんなの厭だ。いなくなりたくない。そんな事になる位なら大人に何てならなくたっていい。そんな風に考えてしまうんだ。


 見知らぬ街を歩いて、見慣れない街並みを眺めていると、それだけでまるで別の世界に迷い込んだ様な気分になって来る。二人とも落ち着き無くキョロキョロと見回して、その度に視界を過る空。空は嫌いだ。晴れの時も雨の時も、昼でも夜でも、何時だって何事も無いかの様に素っ気なくて、何処までも広くって、何処に居たってボク達は世界から取り残されて、どうしたら良いか分からずに途方に暮れている、その事を否が応にも思い出させてしまうのだから。天にまします、か。確かにそうかも知れない。あの空っぽの空は確かに、何もしてくれない神様のいる所に如何にも似付かわしいと思う。もしかしたら、空と同じ様に、神様というのも実はからっぽで、ボク達の声なんて始めから届いてないのかも知れない。だから、何時も下を向いて歩く様になった。何度かシスターにその事を注意された。そんな風に下ばかり向いてちゃ暗い事ばかり考える様になってしまいますよ、と。でも、シスター、上には空があるんです、あの何にもない空が。見ていると吸い込まれそうになって来るんです。自分が空の中に真っ逆さまに落ちて行って、その途中でバラバラに千切れて何もかも無くなってしまうんじゃないかって、それが怖いんです。そう言えたらどんなに良かっただろう。でも結局言い出せなくて。ただボクは分った様な振りをしてこう言うのだった、「はい、分かりました、シスター。」


 そんな何処までも虚ろで空っぽな空の真ん中に、まるで引っ掛かってでもいるかの様に、井戸と周りの空き地は浮かんで見えた。まるでボク達に残された場所はそこだけだとでもいうかの様に。始めに感じた興奮は今では何処へやら、すっかり世をすねた気分でいるボクに代わって、友人はその井戸に向かって走り寄っていた。「ホラ、見て、本物だよ!」「ああ、そうだね。」何がそんなに嬉しいのか、友人はボクに向けてはしゃいで見せる。仕方なしに、そもそもここまで連れて来たのは自分じゃないかと、若干の後ろめたさを覚えながらボクも井戸の傍まで歩いて行く。「さあ、そっち持って!」言われるがままに井戸のポンプの手摺りに二人で手を掛ける。見かけの割にその取っ手は滑らかに動いて、グッ、グッと何度も何度も上下させている内に何故だろう、余りに馬鹿々々しいのが可笑しかったのか、それとも、二人でこうして何かをする、という事が、それが何時の事か思い出せない位に久し振りの事だったからなのか、気付いたら二人して笑いながら、ボクと友人と、この世界で二人きり、何時までもこうしていたい、なんて思いながら、もう何も出て来ない井戸を頻りに漕ぎながら笑い合っていた。ギッチラ、ギッチラ、飽きる事無く。ああ、どうか神様、せめてこの時間だけはもう少しだけ、少しだけで良いから長く感じられる様にして下さい。この広い空の下で他に頼る相手のいない二人に、もう少しだけこうして笑い合える時間を下さい。



「ああ、楽しかったね。」「何も出て来なかったけどね。」「もう、そう言う事は言いっこなし!」

 別れ際に交わした会話が何度も頭を過る。さっきまで空を覆っていた雲は何時の間にか切れ、もう大分傾いた陽の光がその間から洩れ零れて、降り立った駅のホームに佇みながらぼんやりとそれを眺めていた。辺りはすっかり赤く染まって、照り付ける夕陽がじんわりと温かい熱を送って来る。ただそれだけ、何時もだったらただそれだけの事で終わっていたのに、この時に限ってそれだけで終わらなかった。望んでなんてない、ないのに、夕陽の温かな光はボクの身体の中にまで沁み込んで来て、何処にも行こうとしないで、ずっとそこに留まり続けていた。身体の奥底から指の先まで至る所にその熱は広がって行き、まるで温かなお湯に浸かっているのかと思える程に満ち満ちて行って、何時しか、それが陽の光によるものか、ボクの身体の奥から涌き出しているのか、分からなくなってしまっていた。そうして、ボクの心の奥にこびり付いていた何か良くない物、それまでもがその中に溶けて行って、一緒になって流れだして行く。ずっと懸命になって堪えていたけれども、ジンワリ僕の目から涙が溢れようとしていた。駄目だ、こんな所で泣くんじゃない。そう思って必死になって抑えようとするんだけど、止まらない、止められない。体の内から溢れ出て来る温かな水の様に流れる何か。それが涙と一緒になって溢れ出て来るんだ。止められる筈もない。せめて声の出ない様にと口元を抑えるのだけど、遠くに見える雲の切れ目、夕陽に照らされた雲が明るく輝いて、その奥に薄紫の、赤と青の入り混じった昼間と夜の境目、二つを孕んだ空の向こう側、その遥か向こうまで、この身体から止まる事なく涌き出る温もりが途切れる事なく満ちて行き、ゆったり波打つ水面の、海かと見紛う揺らめきの中にいる、そんな風に思えて来て、堪え切れなくなって駆け出していた。走り抜ける帰り道、飛ぶ様に過ぎて行く見慣れた街並みの中で頭に過ったのは、友人と一緒に懸命になって漕ぎ続けたあの井戸の事。思えばあの時から何時の間にか消えていた重く圧し掛かる様な、喉の奥に詰まった様な大きな塊の様な物。きっとそれからだったんだろう、それまで止められていた物が堰を切った様に溢れ出して、もう自分ではどうにも止められない、そんな事になってしまったのは。ああ、ボクは一体どうなってしまったんだろう。どうかしてしまったのかな。ひょっとして、今日死んでしまうのかな。取り留めの無い考えがグルグル頭の中を駆け巡り、何時もだったら身を竦める様にして潜り抜けていた家の玄関を開けて中に入っていた。

 お母さんは? 家の中はとても静かで、まだ沈み切らないで微かに残ってる淡い光の射し込んでうっすらと浮かび上がったリビングのソファーの上に、お母さんは寝ていた。ソファーからずり落ちそうになって、口を僅かに開いて、疲れ切った様になって。どうしてこんなになるまで自分を追い込んでいるのだろう。身体中がギシギシ言って擦り切れそうになるまで自分を追い詰めて追い詰めて、きっと、お母さんの中で心無い言葉や傷付ける様な仕草、そういった物が何時まで経っても身体から出て行かないで、お母さんの中で何度も何度も鳴り続けて止まらないんだ。そんな風に思ったら、思うよりも先にお母さんの手を握っていた。これに意味が有るのかどうかは分からない。でも、今この時であってもまだ身体の内から湧き続ける、身体中を満たして余りある、後から後から溢れ毀れ落ちるこの温もりが、少しでも伝わるのなら、それは所詮ボクの勝手な思い込みに過ぎないのかも知れないけど、それがほんの少しでもお母さんを良くする事になるのなら、そうしたいって思っただけなんだ。それに何より、ボクがお母さんの手をこうして握るのは、実は初めての事だった。手を尽くして来たと思っていた。やれるだけの事はやったと思って来た。でも、そうじゃなかった。荒れるお母さんの姿を見て、早々に見切りを付けて諦めてしまった。拒絶したのはお母さんだけじゃない。手を差し出そうともしなかったボクだって同じなんだ。こんな簡単な事もしようとしなかったんだから。結局似た者同士だったんだ。血は争えない。なら、こんな二度と訪れないかも知れない機会に乗っかって、こうして踏み込んでみるというのも、例えそれが無駄な試みに終わったとしても、何もしないままただ諦めてしまうよりはずっと良い、そんな事を考えていた。そうして考えている内に、お母さんの静かな寝息に当てられたのか、ボクもまた、深い眠りの中に沈んで行くのを感じていた……。



 翌日の一時限目が過ぎても友人は学園に来なかったので、もしかしたら何かしら良くない事にでも巻き込まれたのかもと思っていたが、その後休み時間になってひょっこりと姿を現わした。こちらが安堵の溜息を洩らす暇もなく駆け寄って来ると、開口一番、


「不思議な事! 不思議な事が、不思議な事が起きたんだよ! ねえ、聞いてよ!」

「うん、聞くよ。」


 友人の言うには、ボクと別れた時からもう何時もとは違っていたのだそう。目の前が何だか霞がかって、自分の周りに薄い膜が漂っている様に感じたのだとか。家に帰り着いてもその感覚は消えなくて、寧ろどんどん深くなって行ったという。具合が悪くなった、もしかしたら風邪でも引いたのかと思って、それは自分だけじゃなく友人の母親もそう感じたらしく、珍しくうるさく言って来る事無く、その日は早々に眠りに就いたのだとか。そうしたら夢を見た。周りに明るい水が張っていて、自分はその中で水と一緒になって揺らめいていたと。

「見上げた水面がとってもキラキラしていて、ずっとぼんやりしながら何時までもそれを見続けていたよ。キラキラ、キラキラってね。」

 そうこうする内に、周りにたくさんの気配を感じて、水面から差し込む光の中でそれらは薄っすらと形を取り始めて、始めは薄い影の様な物から、段々と形を結び出して、終いには水の中一杯に泳ぐたくさんの、赤や黄色に白に黒、色とりどりの金魚になって埋め尽くされて行ったのだそう。光を受けた鱗が煌めいて、上へ下へとチラチラと光りながら泳ぐ姿は、まるでお星さまと一緒になって空の中を泳いでいる様な気分だったと。

「ちょっかい掛けて来るんだ、たくさんね。小さい口をパクパクさせながら顔をツンツンつついて来たり、ヒラヒラの尾っぽで鼻の辺りを擽って来たりとかね。余りに擽ったいものだから思わず笑いだしちゃって。」 

 心底嬉しそうに笑って友人は続ける、

「不思議なんだ、生まれた時の事なんて覚えちゃいないけど、こうして言葉を話して、自分の足であちこち歩き廻る様になる前の、自分が自分になる前に、こんな風にして水の様な中を揺らめいていた様な、そんな気がするんだ。」と。

 どうだろうか、ボクには分からない。何故って覚えてないから。気付いた時には、今みたいに小憎らしくも小癪な言い回しを好んで使うボクという人間が居た。それ以前? 全くの記憶にない。でも、友人がそう言うならそうなんだろう。きっとそれは、水という姿で現れた世界の揺り籠の様な物なのかも知れない。友人は、ボクなんかよりずっと素直で、物事をそのまま真直ぐ見詰める事の出来る人間だから、ボクがこれっぽちも覚えていない‶以前″の記憶を朧気ながらも覚えているのだろう、と、そんな風に考えていた。

 そんな情景の中に居て、友人は割と初めの方からこれは夢だと気付いていたそうだ。けれども、同時にこれは夢であって夢でない、そんな風にも感じたのだとか。

「おかしんだ。夢な中にいるって事が分かっているのに、それが夢の中だけじゃなくて、目が覚めた後のその後の世界にまで、そのままこれは続いているって、そんな風に感じたんだ。そうして、段々キラキラしてる水面に向かって身体が浮かんで行って、水の上に顔が出たと思ったら、」

 目を覚ましていたそうだ。そうして目覚めた目で見た世界の余りの綺麗さに、暫く言葉も忘れて見入っていたのだとか。まるで、世界がすっかり洗われて、新しく生まれ変わったとでも言うかの様な。すっかり嬉しくなって、慌ただしく階段を駆け下りて、ばったり出くわした母親に、きっとそれは満面の笑顔だっただろう、

「お早う、お母さん!」

 そう言って、そのまま抱き着いたのだと言う。友人の母親はまるで固まってしまったかの様にその場から動かなかったらしい。暫くしてふと我に返って、もしかしてまた怒らせてしまったのか、と恐る恐る顔を上げてみると、

「痛い位に抱すくめられていたんだ、お母さんに。‶ごめんね、ごめんね″って、何度も何度も謝られて。どうして良いか分からなかったよ。こんなに泣くお母さん、初めてだったから。そうする内にこっちまでつられちゃって、暫く二人してわんわん泣いていたら、」

 こんな時間になっちゃった。そう言って、えへへと照れ臭そうに友人は笑った。その笑顔を見ながら、ボクは昨日の事を思い出していた。同じなんだ。あの時寝入ってしまったボクが、どれ位眠っていたのだろう? ほんの数分、それとも数時間? 目を覚ました時に、何だか温かい物に包まれている事に気付いて、不思議に思うと同時に、何だかとても心安らいだ気分になった。思わずそのまままた目をつむってしまおうかと思う位に。そして、不意に気付いた。お母さんの腕の中にいるって事に。ソファーの上に横になっていて、頭はお母さんの膝の上。その上にお母さんの腕がそっと添えられていて。その目はボクの顔にじっと注がれていた。お母さんの目は何時になく深く深く澄んで、まるで穏やかな海を見ているかの様で。ボクが目を覚ました事に気付くと、お母さんは乾いてかさ付いた唇を小さく動かして、

「ごめんね、ありがとうね。」って少しかすれた声で言ったんだ。


「ありがとうね、美緒。」って。


 美緒、ボクの……私の名前。何時からかただの記号に過ぎなくなっていた私の名前が戻って来た事にその時気付いた。私は、久し振りに、本当に久し振りに、本当の自分が戻って来た様に思えて、急に身体の奥から熱い物が込み上げて来て、何時しか声を上げて泣いていた。お母さんの優しく撫でる手が温かくて、私は、更に声を上げて泣いた。声の続く限り何時までも。


 自分の事ながら、随分と派手に泣き散らした物だ、と思い、その事を思い出しながら気恥ずかしさを覚えていると、友人が不思議そうに覗き込んで、問い掛けて来るのだった。

「どうしたの美緒、何か良い事あったの? 何だかとっても嬉しそう。」

 流石と言おうか、何と云うか。こういう時この友人は鋭い。私は努めてなんでもない風に装いながら答えていた。


「大した事ないよ、瑠香。でも、ありがと。」


 瑠香。私の友達。私達二人はこの日、失われてもう二度と取り返す事叶わないと思っていた嘗ての日々を取り戻した。



 日常は続いて行く。空は相変わらずの知らん顔。何処までも広く広がる空の中、白痴の雲が行方の定まらないままに遠く流れて消えて行く。世界の秘密は未だ解き明かされないまま時の流れに呑まれて行き、後に残された陽だまりの中、道端に映る木陰の揺らめきが微かにその名残を伝えようとしている様で。時折思い出した様に吹き寄せる風の中に、小さな、今にも消え入りそうな微かな声を聞いた様な気がしたけれど、それが伝わり切る前に風は通り過ぎた後で。微かに覚える嘆きの声。咎める様な責める様な、それは嘗ての私達の声。明日の見えない中、白紙の地図を前に居場所も行く先も見失ない、人の世を遠く離れて灰色の砂地に呑まれまいと藻掻いていた私達の。

 世の中を見限った気になって、理屈家を気取り必死に自分を保とうとしていた頃の癖が未だ抜けない。何でも理屈で片付けようとして世の中の事を分かった気になっていた私。却ってそれの所為で、遠ざかってしまう物もある、という事を知りつつも、これは最早染み付いた性分。今更変えられる物でもない。その点、瑠香の方が良く分かっている様に思う。

「きっと、神様のお陰だよ。」

 とあっけらかんと笑いながら言って、目の前に広がる明日に向かって飛び込んで行こうとする姿を見るにつけ、思い知らされる。私達の前にはすべき事、出来る事が山済みで、ちょっと目を逸らしただけで、それ等は放置した宿題みたいに溜まって行くばかり。大事なのは取り戻した日々を精一杯生きる事で、考えても分からない事は神様に任せてしまえば良いと。その為の神様だよ、と瑠香は悪戯っぽく笑う。今の話シスターに聞かれなくて良かったね、と私達は笑い合う。そうなった暁には二人してお説教だ。そうやって笑いながらも尚心の何処かに残る疑問。それなら、どうしてもっと早く神様は私達を助けてくれなかったんだろう、だとか、きっと今も尚止まる事の無い列車に乗ったまま虚ろな目で誰よりも救いの手を望んでる人達の下に現われないんだろうとか、そんな風に考えてしまう私は、やはり何処かでひねくれた考えが今以て抜けない人間なんだと思う。ふと、シスターが口癖の様に言っている言葉が頭に過る。「神様は何時も私達を見守っていて下さいます。」

 見守ってくれるとは言っているけど、‶現われる″とは一言も言っていない。「ああ、やっぱり。」という諦めに似た感情を始め覚えた。けれども、そのすぐ後に来た何とも説明し難い違和感に首を傾げる。何かがずれた様な違和感が消えない。何処か見当違いの方向を見ている様なこの感覚。。もしかしたら、物凄く思い違いをしていたのかも知れない。誰でも良い、誰かが神様に祈る時、或いは、‶神も仏も在る物か″などと毒づく時、一体その人は何処を見て言っているのだろうと、ふとそんな事を考えていた。それか、その人はどんな姿で神様とやらを想像しているのだろうか、とかでも良い。私も含めてそうだけれども、きっとあらぬ方向を見詰めて、頻りに‶神様、神様″言っているんじゃないかと。きっとその神様とやらは、お金を入れてボタンを押せばポンと出て来て、願いでも何でも叶えてくれる様な、自販機とさして変わらない類の神様なのだろう。こうして言葉にすると分かるけど、そんな都合の良い神様なんていない。いたらいたで、それならそもそも人間なんている必要ない。

 だから、きっと、神様は人の心の中にしか現れないんだ。そうして、心の中に現われた何らかの意思に実際に形を与え為すのは、結局の所、神の御手、とか神の御言葉、なんて言うけれど、それは他の何物でもない人の手であり、人の口から紡がれる言葉なんだ、と。神は手を差し伸べない。これも何処かで聞いた言葉だけれども、そもそも差し出す必要なんてなかったんだ、と。だって、もう何かを為したり助けたりするための手や言葉はもう

 きっとあの日、瑠香と私はあの枯れた井戸から私達の心の奥にそれまで隠れて見えなかった自分達の願いを掘り当てたんじゃないかと、そう思う。それはきっと、一度でも掘り当てたら二度と枯れる事のない、何時までも枯れる事のない水の様な物なのかも知れない。きっと、それは何処までも広がって、それは果ての見えない空の向こうまで届くまで。もしかしたら、またしても私は思い違いをしていたのかも知れない。あの日見た、列車の中にいた救われない風の人達。それは全てを諦めかけていた私の見た幻に過ぎなくて、実際は、それぞれの内に抱えた願いをその手に携えて、或いはもう既に何かを成し遂げた後なのかも、各々の家へと帰るべく、やがては開くドアから出て、それぞれの家へと帰って行くのだ、と。そんな彼等の姿が私の中に過るのが見えた様な気がした。


「ねえ、美緒、また何か考え込んでる? 何考えてたの?」

 隣を歩く瑠香が聞いて来る。わざわざ話す事でもない、こんな事は私みたいな理屈に捉われた人間が自分を納得させる為の物で、瑠香の様に自然とそれを為している様な人間にはいらない物なんだ。だから、私は、

「ううん、何でも。」

 そう答えて、何故だか気分が良くなったのか、知らない内に口笛を吹いていた。瑠香も真似して吹こうとするのだが、上手く音が出なくて、ヒューヒュー空気の洩れる音がするだけだった。思わず笑ってしまう私。唇を尖らせたまますねた様に頬を膨らませる瑠香。そうして、また私達は笑い合う。きっとその音はあの空の向こうまで伝わって行くのだろう、と、そんな気がした。その先に一瞬だけ見えた様な気がする二人の姿。それは大人になった私達。ああ、こんな事なら、と私は思う。大人になるのもそんなに悪い事じゃあない、と、そんな風に思えて来るのだった。




                                終

 

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命の水は打ち捨てられた井戸から湧き出づる 色街アゲハ @iromatiageha

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