第33話 天使が投げる、ナイトメア(悪夢)ボール?



 side アーウィン(メートの監督)


 

「まさか…………サブマリン!(アンダースロー!)」


 誰が叫んだのか、大きなどよめきの中、その言葉だけははっきりとアーウィンの耳に届いていた。


 アーウィンは、ピッチャーがアンジェに交代するというアナウンスを聞いた時、「やはりか」という思いと同時に、「まさか」と背筋が寒くなるのを感じていた。

 あり得ない!

 そんな思いがどうしても押し寄せてくる。

 しかも、彼女が今見せようとしているピッチングフォームは、MLBでも数が少ないサブマリン投法。


 左腕が背中に向けて大きくテイクバックされ、そして深く沈んだ身体からしなるように左腕が振り出される。

 両肩から腕までが一直線になった綺麗なフォームを見た時、自然とアーウィンの口から言葉が漏れていた。


「perfect zero position……(完璧なゼロポジション)」


 ゼロポジションとは、インドの整形外科医が1961年に発見した最も肩関節に負担がかからないポジションのことだ。それは、肩甲棘と上腕骨が一直線上になる肢位であるを示している。サブマリン投法の最も理想的な姿勢とされている。


 その重心が低い姿勢から、地面を舐めるように左腕をしならせ、ボールが放たれると…………


 ズバン!!!


 真っすぐなボールが、地面から浮き上がるように大きく伸び上がりながらキャッチャーミットに吸い込まれた。真ん中低め。キャッチャーは、1ミリもミットを動かしていない。


「ス、……ストライク!」


 一瞬、戸惑った審判がストライクのコールを告げると大歓声が沸き上がった。


「な、なんだ! 今のボールは!?」

「見えなかったわ!」

「球速は?」

「え!? 103マイル(時速165キロ)だって!?」

「嘘だろ!サブマリンなんだぞ!」

「なんてボールだ!」

「さすが、エンジェル様!」


 アーウィンは、ベンチ上から聞こえてくる声を聞きながら、日本でプレーしていたころに読んだ大好きだった野球漫画のことを思い出していた。



 ――――あれは……



 その漫画で登場したのは、アンジェと同じ左のサブマリン(アンダースロー)投手だった。その女性ピッチャーが活躍する姿は、それがフィクションだと分かっていても、トキメキを感じたことを今もはっきりと覚えている。


 マウンドではアンジェが次の投球動作に入っている。球場のどよめきは収まらない。

 それも当然だろう。

 サブマリン投法は下手投げだ。浮き上がるようなボールが低いリリースポイントから放たれるため、打者が幻惑されやすく、ボールの下を叩くことで凡フライが生まれやすい。

 当然、ボールへの力の伝え方は上手投げよりも弱くなるので、球速は出にくい。


 それなのに…………


 彼女は100マイル!、いや正確には103マイル(165キロ)もの速球を投げた。信じられない。MLBでのサブマリンの最速球速記録は確か93マイル(150キロ)ほどだったはず。

 観客席から「あんなボール見たことないぞ!」という声が聞こえたが、それも無理はない、地面すれすれの、見事なゼロポジションから100マイルの速球が伸びてくるのだ。

 ピッチングマシンは、ほとんどが上手投げだ。下手投げのピッチングマシンが存在することは知っているが、アーウィンは見たことがない。

 つまり、それだけ馴染みのない投法で上手投げと同じ、いやそれ以上の速球が放たれたのであれば、見たことがないという声が上がるのも仕方がない。


 再び振りかぶったアンジェが、見事なゼロポジションのフォームでボールを放る。


「おい!」


 アーウィンは、アンジェが投球した瞬間、思わず声を上げていた。


 右バッターから見て内角高めに向かって伸びるボールにアーウィンは、一瞬、事故が起きたと思い、ヒヤッとした。


 しかし、バッターが小さく悲鳴を上げて尻もちをつくと…………


「…………ストライク!」


 静まり返った球場の中、少しの間を置いてから審判がコールを叫ぶ。


「え!?」


 倒れたバッターが、そのコールを聞いて思わず審判を振り返った。だが、審判は小さく首を横に振る。そしてバックスリーンを指差した。


 バッターが今度はバックスクリーンに振り返ると…………


 アンジェが投げた今の投球がリプレイで映し出された。


 完璧なフォームから投じられたボールがバッターの顔の高さに向かって伸びていき、マウンドとホームベースのちょうど中間ぐらいの位置で鋭く左に曲がり落ちていく。

 そして、キャッチャーミットにボールが吸い込まれた後で、バッターが尻もちをついて倒れ込む姿があった。


「う、嘘だろ…………?」


 呟くバッターの声がアーウィンにも聞こえた。


 やがて…………


「なんだ! 今のボールは?」

「あのスピードでボールって曲がるのか?」

「上に伸びた球が下に落ちたぞ!」

「あれって、マジックボール(魔球)なのか!」


 歓声は上がらないが、観客の声が聞こえてくる。

 その声を聞きながら、アーウィンは、信じられない表情を浮かべ、唖然としたままスクリーンを見ていた。



 ――――なんだ! 今のボールは!?



 下手投げの左ピッチャーから、真っ直ぐに顔面に向かって伸びてくるボール。電光掲示板を見ると、球速は100マイル(時速160キロ)。最初の球速と、ほぼ同じだ。

 どう考えても、バッターボックスに立って今のボールを見れば、尻もちをつく。バッターは責められない。

 何故なら、顔の前にボールがやってくると思えば、仰け反るのは当然だからだ。しかも、そのボールは100マイルもの危険球だ。避けるだけなく倒れるのも仕方がない。


 しかし…………


 スクリーンに映し出された今の投球は、まるでピンポン玉のように急激にグイとコースを変えた。左に曲がりながら落ちたのだが、あんなボールは見たことがない。

 球種をどう言えばよいのか分からないが、しいて言えば、シンカーとスプリットが混ぜ合わさったようなボールと言えばよいだろうか…………



 ――――だが、サブマリン(アンダースロー)で投げたボールだぞ!?



 そう、上に向かって伸びていく100マイルのスピードボールが、球速を落とさずにそのまま、突然鋭角な角度で曲がって落ちる?

 あり得ない。絶対にあり得ない。硬球は、そんな風に曲げられない。


 こんな球を打てるのか? もちろん打てるはずがない!


 下手投げの上に向かって伸びるボールが突然、体とは逆の方向に曲がって落ちる。

 もしも、ビビらずにボールを待てるとしても、無理だ。絶対。

あのスピードで上に向かって伸びてくるボールが突然下に落ちれば、バッターからはどう見えるのか?


 簡単だ。消えた! というアンサー(答え)だ。


 バッターの、今の表情がそれを物語っている。驚きなんてものじゃない。

 実際、バッターはまだ立てずに、呆然としたままだ。今のボールが、ストライクの判定を受けたことを信じられないのだろう。


 バッターが陥った状況は容易に想像できる。


 顔面に飛んでくるボール。待てたとしても、衝突までゼロコンマの秒程度。

 どうする?

 待てるのか?

 無理だ。反射的に避けるしかない。プロのベースボールプレイヤーなら猶更だ。もしも、あのボールが顔面に当たればどうなる?よくて病院送り、下手をすれば…………


 しかし、ビンボールを避けたと思ったら、なぜかストライクの判定だ。


 バッターの驚愕ぶりをアーウィンは十分に理解できていた。


 もしもあのボールを打てるとするなら、まずビンボールと思えるボールを避けずに待てる度胸が必要だ。

 だが、反射が優れた野球選手であればあるほど、あのボールは絶対に避ける。

 言ってしまえば、目の前で両手をバチンと叩かれて反射的に目をつむってしまう、という体の反応を、無理やり止める必要があることを意味している。その無理をした上で100マイルで飛んでくる、しかも変化したボールを打つ? できるはずがない。


 さらに驚きなのは、キャッチングだ。

 たぶんだが、最初のストレートのボールと、1ミリも変わらぬ場所でキャッチしている。

 これはキャッチャーの技術ではない。おそらくキャッチャーもボールを見極めていないのではないか?

 実際、距離が離れたベンチから見ているから、今のボールが変化したことは分かるが、スクリーンに映し出されたリプレイを見なければ、あの変化を見極めることはできなかった。

 あのキャッチングは、キャッチャーが行ったのではなく、構えたミットにアンジェが寸分なく投げ込んだ、というのが正解だろう。


 信じられない!


 あのスピード、そして変化。それなのに、構えたキャッチャーミットに1ミリの誤差もなく投げ込むことができるなんて…………

 もちろん、今回がたまたまだった、ということもあり得る。普通のピッチャーなら。


 だが…………


 アンジェに限って言えば、今のが偶然だとは言い切れない。いや、偶然だと判定することがミスジャッジだろう。間違いなく。

 なぜなら、彼女がシーズンが始まってからこれまで見せてきたプレーは、全てが偶然ではなかったのだから。ホームランを含む打撃もそう。5回裏のトリプルプレーもそうだ。ならば、今回のピッチングも同じと考えた方が良い。


 ようやく立ち上がろうとしているバッターを見ながらアーウィンは、日本で見た野球漫画が再び脳裏に浮かんできた。

 確か、9回裏2アウト2ストライクから彼女が投げる「1球限定」のそのボールは、「夢のボール」というような名前が付けられていた。


 だが、アンジェが投げた今のボールは決して「夢のボール」ではない。そんな煌びやかなネーミングで呼べるボールではない。

 バッターにとってみれば、夢なんかじゃないことは確かだった。

 どちらかと言えば、夢ではなく悪夢の方が相応しいだろう。



 ――――天使(エンジェル)が投げるのは、「ナイトメア(悪夢)ボール」か…………



 アーウィンは、自分に思い浮かんだ「悪夢」の言葉に、思わず小さく身を震わせていた。


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