第32話 何が始まるのか?
side レイモンド(大統領補佐官)
「レイ、アンジェはピッチャーもできるのか?」
ジェームズ・パーカー大統領が尋ねると、同席していた大統領補佐官のレイモンドが手元のタブレットを操作してから答えた。
「えーっと…………いえ。今シーズンの登板は一度もありませんね」
「確か、ベースボールでは野手がピッチングするには、大きな制約があると聞いたが?」
「調べてみます。お待ちください――――」
「大統領、私が回答させていただいてもよろしいでしょうか?」
レイモンドが答えを探すのに手間取っていることに気がついたのだろう、同席していたメジャーリーグの広報官が申し訳なさそうな口ぶりで声をかけた。
「ああ、頼む」
「ありがとうございます。MLBのロースター(選手登録枠)では、野手で選手登録した選手は、大量得点差がある場合や延長戦以外での登板は許されていません。ですが、投手で選手登録した場合は、投手以外のポジションを守ることは制限されていません」
パーカー大統領が、なるほどという表情を浮かべて頷いた。60代前半の大統領は、相応の年齢だが髪はまだ黒く、その鋭い目つきは政敵を全て射殺すと噂されている剛腕の政治家だ。
「そして、アンジェですが、選手登録は投手で行われていますので、今回の登板に問題はございません」
「そうか…………彼女のピッチングが楽しみだな」
「これまでアンジェのピッチングは一度も公開されたことがありませんから、どの程度かは分かりません。しかし、守備では100マイル(時速160キロ)以上の送球をしていますから、かなり見ごたえのあるピッチングをするものと思われます」
「打っては130本を超えるホームランを放ち、守ってはトリプルプレーを成立させる。さらにピッチャーまでできるとなると、まさしく大スターか」
「ええ。MLBは彼女のお陰で今シーズン、飛躍的な成長を遂げさせていただいております」
広報官が自慢そうに胸を張りながら答えるのを聞いていたパーカー大統領は、被っていたメートチームの帽子のツバに手をやる。MLBの招待はメートのホームゲームで行われている。今日の大統領は、メートの帽子だけでなくユニフォームも着用していた。
「それにしても…………今日は好ゲームだな」
「はい。それはもう。隙のない乱打戦が途中から息を呑む投手戦に変わりましたが、こんなゲームは珍しいです。特に、5回裏には先ほど大統領が話されたアンジェがトリプルプレーを成立させましたが、今シーズン、トリプルプレーはまだ2度目ですから」
大統領の質問に広報官は嬉しそうに答える。
レイモンドは広報官の気持ちが分かっていた。大統領が観戦に訪れたゲームで、シーズンに何度もないような好ゲームが展開されているのだ。おそらく、これで定期的に大統領を球場に呼べるのではないかと考えているのだろう。手に取るようにわかる。
「ファンが大喜びするのも分かるな」
「はい」
大統領も広報官の考えを分かっているのか、機嫌が良い表情で答えていた。
それにしても…………
――――なぜパーカー大統領は、ベースボールの観戦に訪れたのだろうか?
その意味をレイモンドは考えていた。
いや、MLBから招待を受けたから、というのは分かっている。しかし、その「招待」はこれまで幾度となく送られてきていた。
それこそベースボールのMLBだけでない。
アメリカンフットボールのNFL(ナショナルフットボールリーグ)、バスケットボールのNBA(ルバスケットボールアソシエーション)、そしてアイスホッケーのNHL(ナショナルホッケーリーグ)、いわゆるアメリカ四大スポーツの全てから定期的に招待するという話は来ている。
だが、パーカー大統領が大統領に就任して一年半が経つが、多忙を理由に、過去、スポーツチームからの招待を受諾したことは一度もなかった。
今年に入ってから、大統領がアンジェの情報を集めようとしているのは知っている。アンジェが日本国籍も有していることから司法省や中央情報局(CIA)を招集したのはまだ分かる。それはアメリカでオープンにされている情報収集機関だからだ。
だが、なぜか国家航空宇宙局(NASA)やエネルギー省も招集したのがいただけない。
いや、恐らく「火星」での話や「南極」の話が関係しいていたのだとは思う。
だが…………
「始まるな」
その時、パーカー大統領が短く告げた言葉に、レイモンドは何故か「何が始まるのだろう?」という疑問が浮かんでいた。
▼▽▼▽
side ノリス(キャッチャー)
マウンドでは、アンジェが投球動作を開始しようとしていた。
昔は、MLBでも登板前、8球の投球練習が許されていた。だが、今それはもうない。それに今回は交代時のトラブルと称した待機時間もあった。
そのため、マウンドに上がったアンジェは、球場の騒めきがまだ落ち着かないまま、プレーを開始していた。
ノリスは構えた。真ん中低め。サインは不要だ。ミットの位置に必ずボールはくる。寸分なく。ノリスの役目はボールを受け止める、それだけだ。
「おい、エンジェルが左で投げるぞ!」
観客が叫んだ声をノリスが聞いたとき、球場を大きなどよめきが包む。
――――そりゃ、そうだろう…………
ノリスは思った。
■□■□
ショートで守るアンジェは右投げだ。
そして、彼女が右投げでピッチングしたのは、入団テストのときに目の当たりにした。
だが…………
ノリスは正捕手だ。自他ともにトロリーズの司令塔と認められている。ファンからも「不屈のノリス」と呼ばれるている。
しかし彼は、入団テストで彼女のピッチングを受け止め、そして立ち上がり、「Impossible!(無理!)」と叫んでしまった。「不屈」は無理だった。
その叫びは、しかし監督を始めチームの首脳陣全員が同意した。
何故なら――――
その時、アンジェが右投げで、見た目で軽く放ったボールが自動計測された表示は、時速150マイル(時速241キロ)だった。
彼女の手を離れたと思ったボールは、次の瞬間ミットに綺麗に吸い込まれていったが、そんな速度の硬球をキャッチしたことが一度もないノリスは、「ボギッ」という鈍い音と同時に手首に激痛を感じ、右手首を抑えながら立ち上がって叫んだのだ。
もちろん、キャッチングするだけならおそらく200マイルでも可能だろう。曲がりなりにもMLBの正捕手を任されているのだ。
だが、時速150マイルで投げられた硬球などノリスは経験がなかった。重さ148.8グラムの硬いボールがいきなり見たこともない球速でミットに飛び込んできた。それも何の予告もなく突然に。
ノリスが、キャッチのタイミングを計れなかったのも当然と言えた。
ただ、不思議だったのは、叫んだあと手首の痛みを何故か感じなかったことだ。
骨が折れた(と思った)あの音は、今思い出しても背筋が寒くなる。
もちろん、球速計の表示を見た全員が、ポカンと口を開けたままだったのは言うまでもない。
■□■□
アンジェが入団テストで見せたピッチングは、参加者全員に厳しい緘口令が敷かれた。
それも当然だろう。
アンジェが最初に投げた投球が、その日の最高時速だったのだが、誰もがその投球が全力でないことを理解していたからだ。
その後も、時速125マイル(時速200キロ)の球を10球ほど軽く投げ込む姿を見せられた時、さっきの投球が奇跡的なものではなかったことを十分に理解させられていた。
さらに大きな問題は、アンジェのボールを受け続けることがいかに難しいかが分かったからだ。
時速125マイルですら、10球を受けたノリスの手はジンジンに痺れ、手のひらは真っ赤になっていた。
もちろん、ミットを工夫すればある程度は緩衝される。だが、時速150マイルの球を受け続けることは考えられなかった。しかも、マシンが投げた球ではない。いわゆる「伸びのあるストレート」。それも尋常でない伸びだ。
おそらく一試合分を投げれば、完全試合も容易かったはずだが――――時速150マイル(時速241キロ)の伸びが尋常でない速球を打てるバッターがいるとは思えない――――一人3球、27人のバッターで最低でも合計81球を受けなければならない。それは絶対に無理だ。絶対に。手が壊れてしまう。
そう…………まだ見ぬ彼女の全力投球は、絶対に受け止めきれないことを、ノリスは何故か確信していた。
■□■□
アンジェが両手を高く頭上に振りかぶる。
右足が上がり、その体が大きく前傾姿勢を示したとき球場は再び大きなどよめきに包まれていた。
立ち上がった誰かの声が響き渡る。
「まさか…………サブマリン!(アンダースロー!)」
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