第31話 ピッチャー、ナンバー20、アンジェ・ミラー!
「私が投げる?」
何も言えないエバンスに、アンジェがもう一度、話しかけた。
いや、言っている意味は分かっているんだ。だが…………
エバンスは固まっていた。
■□■□
アンジェがトロリーズの入団テストを極秘で受けたのは、もちろんミラー財閥総帥ミツキからの要望だ。
トロリーズのオーナーは「ミラー・コミュニケーション」。そのミラー・コミュニケーションのCEO(最高経営責任者)は、ピーター・ミラー。亡くなったミツキの夫の弟になる。
もちろんミラー・コミュニケーションはミラー財閥の傘下にある企業だ。ミツキは共同オーナーではないが、トロリーズは実質、ミラー財閥の球団として知られている。
そして、ミラー財閥のトップがミツキ・ミラーであることは言うまでもない。
ミラー一族は睦まじい一族としても有名だった。誰もがミツキの意に従う姿勢を見せている。もちろんピーターも同じだ。
したがって、ミツキからの要望はオーナーであるピーターの要望とイコールだった。いや、球団の首脳は、それよりも重く受け止めていた。
だから…………
わずか16歳の少女の入団テストは、ミツキが満足すればそれで済むと軽く考えていたし、だからこそ極秘で行った。もしもオープンになれば、テストの結果にミツキが不満を訴えると思ったからだ。16歳の少女がテストに合格するはずがない。「flunk!(不合格!)」という結果が世間に知れ渡ることをミツキは望まないだろう。
誰もが、そう思っていた。
しかし――――
アンジェはその下馬評を全て一掃した。
テストに参加したのは、ミツキの手前もあり監督とコーチ陣、そしてチームの主要メンバーだった。オーナーとその姪っ子が、メジャーリーグに憧れてチャレンジする。確かにあってよいストーリーだろう。例えそれが、プロの洗礼を受けるものであったとしても。
だから、監督も参加した選手も、テストが終わってミツキと少女に、皆のサインボールでも渡せば満足するだろうと軽く考えていた。
だが…………
アンジェはエースであるマークが投げたボールを一球を除き、全てスタンドインさせた。最初こそ、軽い気持ちで投げたマークだったが最初の一撃で顔色を変えた。お遊びで投げたボールと言えど、90マイルを越える速球をアンジェが軽くバックスクリーンに運んだからだ。
途中、マイクが本気で投げたはずの100マイルを越える速球を粉々に爆発させたのは、今でも見た者は伝説として語り継いでいる。そしてマークは、その一球でアンジェに心酔したといえる。投げたボールを片っ端からスタンドインさせられたにも関わらず、その頬は紅潮し、アンジェのバッティングに見惚れていた。
そして、テストが始まって一時間後。
参加していた誰もが沈黙していた。
アンジェは打撃だけでなく、走塁、守備のいずれもで信じられないレベルのプレーを連発させたからだ。シーズンに入ってからは、クロスプレーによる万一の怪我を恐れてアンジェに盗塁はさせていない。だが、恐らくチャンレンジさせれば100%で成功させるはずだ。
テストでアンジェは、リリーフピッチャーがセットポジションからクイックで投げたボールよりも早くホームベースをタッチしていたのだから…………
ベースボールのホームベースからぐるりとダイヤモンドを一周する塁間は、全て同じ距離だ。
その距離は90フィート(27.431メートル)。MLBの最速の選手は秒速9メートル強で走るから、塁間は3秒未満で走り抜ける。もちろん、陸上のスタートとは違うから、次のベースに到達するまでの実質の最速は4秒をわずかに切るスピードとなる。
しかし、アンジェはそれを2秒未満で駆け抜けたのだ。
「No way!(信じられない!)」
その時、テストに参加していた全員が、両手で頭を抱えて同じ言葉を叫んでいたのは今もはっきりと覚えている。あのスピードは、100メートル走なら間違いなく9秒すら切っていたはずだ。
守備も同様。異様に広い守備範囲。
なんでショートがバックスクリーンに飛び込むライナーを、フェンス際でキャッチできるのか?あり得ない。
ショートのポジションにいるのに、レフト前ヒットの当たりを、レフトの位置でキャッチしてファーストでアウトにする?あり得ない。
どこでも取れるというから、セカンドの頭上をライナーで越える当たりを放ったら、ジャンプしてキャッチしていた。間違いなく、打球を放つ前にはショートのポジションにいたのに、なぜだ? あり得ない。
これならどうだとコーチが全力で打った打球が、うっかりライナーでホームラン性の当たりとなったのすらもキャッチした。しかも素手で。頭上3メートル以上の打球だったのに。あり得ない。
もしも、見ておらずにこの話を聞いたなら、「馬鹿な!」と軽く笑い飛ばしていたことだろう。
もちろん実際に見たのだから、そんなセリフを言うことはできないが。
そして、テストの最後に見せた「No way!(信じられない!)」の極めつきがピッチングだった…………
■□■□
「ちょ、ちょっと待て!」
しばらく口を開けて呆然としていたエバンスは、慌てて両手を前で振った。
「何を投げる気だ?」
変な言い方をしていることは自分でもわかっている。でも、これは聞かなければならない。
すると、アンジェは小さく左腕を下から上に振り上げた。
「これ? で、いい?」
「本当だろうな?」
エバンスは念を押す。
「ん」
だが、アンジェは素っ気なく答えただけだった。
――――仕方ない
イニング間の制限時間はすでに過ぎている。ピッチャーが登板可能かの確認を行っているということでわずかな猶予時間を貰っているが、もうそれも終わることを分かっていたエバンスは、覚悟を決めた。
もともとシーズン前、アンジェはピッチャーとして起用することを考えていたので「投手」で選手登録をしたからいつでも登板はさせられる。だが、開幕初戦、彼女は5打数5ホームランを放ってしまった。
それに、彼女をピッチャーで起用するには、大きな問題をクリアしなければならない。
打撃での活躍と、ある大きな問題があったことで、アンジェはショートが自然と定位置となっていたのだ。
エバンスは、すぐに審判に駆け寄り交代の選手を告げる。
「ピッチャーはアンジェに交代だ」
「はぁ?」
審判が驚いた顔をしたのも当然だろう。野手登録をしている選手が、特別な状況でない限り、マウンドに立つことはできない。そして今、この場面は、その特別な状況ではない。
「だから、アンジェをマウンドに上げる。ショートはカルロだ」
「ちょっと――――」
ちょっと待て、と言いかけた審判だったが、言葉を途中で止めた。アンジェが「投手」登録している選手であることを思い出していたからだ。
「…………分かった」
そして――――
「ピッチャー…………ナンバー20、アンジェ・ミラー!」
交代のアナウンスが球場内に流れる。アウェイチームのアナウンスは通常、シンプルに行われるのだが、やはりアナウンサーも興奮していのだろう。ゆっくりと、そして力強いコールを告げる。
「え?」
「エンジェルがピッチャー?」
「嘘だろ!」
「なんで?」
「マジか!!」
「だって、彼女はショートだろ? ピッチャーはできないだろう?」
「いや、そういえばアンジェの選手登録は『ピッチャー』だった。覚えてるぞ」
「本当に?」
「信じられない!」
「なんて日だ、今日は!」
一瞬、どよめいた球場だったが…………
アンジェがマウンドに駆けていく姿を見たファンは、一斉に立ち上がり、そして大歓声を上げていた。
▼▽▼▽
side アンジェ
マウンドに向かって走りながらアンジェは、スタンドをチラリと見た。
VIPルームの窓から、大叔母が手を振っているのが見える。その隣で並んで立っているのはデンだ。
アンジェは自然と笑みが浮かぶのを感じていた。
以前から、大叔母から「なぜ、杏樹ちゃんは投げないの?」と言われていた。「チームの事情」とだけ答えていたが、もちろんその理由をアンジェは分かっていた。
だが、ようやく大叔母の要望に応えることができる。もちろん「チームの事情」が解消したわけではない。それでも、今できる範囲で最高のプレーを見てもらおう。
アンジェは、ヤル気になっていた。
▼▽▼▽
side エバンス(トロリーズの監督)
エバンスは、キャッチャーのノリスを呼び寄せた。
「ボス、本当にアンジェに投げさせるんですか?」
「仕方ないだろう? 彼女が投げると言っているんだ」
エバンスの言葉にノリスは驚いた表情を見せた。
「本当に? アンジェが?」
「ああ」
確かにアンジェはピッチャーマウンドに向かっている。
「まさか、本気で投げる気なんじゃ?」
「いや…………」
そしてエバンスは、さっきアンジェが見せた左手を下から上に振り上げる動作を見せた。
「ほ、本当でしょうね?」
ノリスが心配するのも仕方がない。エバンスはよくわかっていた。
「ほら見ろ」
そしてノリスがマウンドを見ると、確かにアンジェが右手にグローブを嵌めている。
「分かりました。信じてますよ!」
エバンスは「頑張ってくれ」と、マスクをかぶり直したノリスの肩をポンポンと叩く。
五回裏のアンジェが成したトリプルプレーが今日の大一番だと思っていたのだが…………
どうやらその考えは正しくなかったようだ。
マウンドを見ると、アンジェが少し嬉しそうな表情を見せている。どうやら、ヤル気を出しているようだ。
エバンスは、再び――――小さなため息をついていた。
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