第30話 そういえば、この少女の選手登録は……



 side アーウィン(メートの監督)



 7回表が終わり、観客が一斉に立ち上がった。

「7th inning stretch」の始まりだ。観客の多くが「TAKE ME OUT TO THE BALLGAME(わたしを野球に連れてって)」を歌い始める。


 アーウィンは、この一時(いっとき)が好きだった。


 ベースボールは商業スポーツだ。スポーツとしては選手がいれば問題ないが、商業スポーツの視点で見れば、選手だけでは成り立たない。

 時々、勘違いする選手がいるが、ベースボールの財政を支えているのは、試合を見に来てくれ、そしてグッズを買い求めてくれるファンだ。ゲームを放映してくれるネットやテレビ局、ラジオ局からの放映料もそうだろう。あとはスポンサーの支援も大きい。それらの支えがあって、初めてベースボール選手は報酬を手にすることができる。

 そして、ベースボール選手は、ファンやスポンサーの皆が、この商業スポーツをより楽しんでもらえるよう、毎ゲーム足を運びたいと思ってもらえるよう、競い合う。


 この選手とファンの交わりを毎試合感じ取れる「7th inning stretch」は、ホームであってもアウェイであっても関係ない。野球選手なら大切にすべき一時(ひととき)だろう。


 アーウィンはベンチの前に立ち、大きく伸びをする。


 ふとグラウンドを見ると、ショートの位置でアンジェが立っていた。グラブを脇に抱え、リズミカルに揺れている。

 そう、なぜかアンジェは毎試合、この歌を歌っている。アウェイだと敵チームの名前が歌詞に含まれるのだが、そんなことは関係ない。声がはっきり聞こえることはないが、ファンと同じ歌詞を彼女は歌っている。たぶん。

 そしてファンは、そのアンジェが歌う姿を楽しみにしており、同時に応援していた。


 ベースボールのゲームを采配する監督の目から見れば、アンジェは敵として巨大すぎる。それも大きな大きな乗り越えることが難しい壁だ。なにせ、どこに投げても簡単にホームランを打たれてしまう。仕方がないから申告敬遠を選べば、敵チームのファンだけでなく自チームのファンからもブーイングが飛び込んでくる。

 だが…………一野球人として見るならば、彼女の野球に向かう姿勢は間違いなく真摯だった。彼女を慕う者が多くいることをアーウィンは納得していた。



 ――――さて



 7回裏が始まる。5回表までの乱打戦は嘘のようにピタリと収まった。点差は5対7のまま。まだメートがリードしている。

 乱打戦が収まったきっかけは明らかだ。あのアンジェのトリプルプレー(三重殺)からだ。

 しかし、トロリーズのピッチャーはすでに6人目だ。ブルペンデーのピッチャーは通常5~6人。そして、残念なことにメートもトロリーズと同じく6人目が投げていた。お互い、もうピッチャーの余裕はない。


 いや、ピッチャーはまだいるが、これ以上の起用は今後のピッチャー陣のローテーションを大きく崩しかねない。

 今はロースター(選手登録枠)によって、シーズンの開始時に、「投手」、「野手」、「二刀流選手」のいずれかの区分で登録が求められている。

 そして野手に登録された選手は、「延長戦」「8点以上リードされている」「9回時に10点以上リードしている」の3つのいずれかでない限り、投手として登板することは許されない。

 さらに、野手で登録された選手はシーズン終了まで野手のままだ。シーズンの途中で「投手」に選手登録を変更することはできない。

 つまり、本ゲームは今のところ5対7の試合となっているため、延長戦が始まるまでは、「投手」として選手登録をした者しか、ピッチャーをさせることができないことを意味している。



 ――――あるいは、このあと点差が大きく開くかだが…………



 おそらく、球場の雰囲気と、今の引き締まったゲーム展開を考えると、この後ゲームが大きく崩れることは考えづらいだろう。

 となると、今後もしも何がアクシデントが生じれば、ローテーションピッチャーの投入も余儀なくされる。



 ――――そう言えば…………



 ふと、アーウィンはあることを思い出していた。

 シーズン開始時のアンジェの選手登録が、実は、野手ではなく投手だったことを。


「野手」が「投手」として出場するためには大量得点差や延長戦などの大きな制約があるが、「投手」で登録された選手が「野手」として出場することに制限はない。

 そしてアンジェがMLBに登場した当初は、ピッチャーとしての登録だったため、彼女のピッチングがどれほどのものかと大きく騒がれた。

 だが、シーズン開始後、なぜか彼女が登板することは一度もなく、逆に開幕直後からバッターとしての活躍があまりにも大きかったので、いつしかアンジェが投手枠の選手であることはあまり語られることはなくなっていた。

 その理由として挙げられているのが同じくロースターの決まりとして、「投手」として登録された選手は、シーズン終了時まで「野手」や「二刀流選手」への登録変更ができないからだ。そのため「投手」の選手登録をしているが、「野手(ショート)」としての出場は仕方がない、と見られていた。

 さらに多くのファンが、毎ゲーム、アンジェが活躍する姿を見たいと願っていたこともある。投手として起用されたなら、ゲームに出られない日がどうしても出てくるだろう。それをファンは求めていなかった。


 しかし…………


 本ゲームにおいて、用意していたピッチャー枠が尽きた時、トロリーズはどうするのだろうか?

 もしかすると、今まで封印していたアンジェの登板を許すのではないだろうか?



 ――――まさか……



 アーウィンは、自分が思いついた考えに、そんなことがあってたまるか、と身をぶるぶると震わせていた。

 まさかと思うが、もしもアンジェが投手としても超一流だったら…………?

 これ以上、アンジェが活躍するのを見せられるのは、一野球人としては歓迎すべきことなのはよくわかる。実際、アーウィンもそう思う。



 しかし…………



 信じられないホームラン記録を樹立中の――――そう、アンジェはまだメジャー記録を毎日のように更新し続けているのだ――――バッターが、いや少女が、もしも誰も打てないようなピッチングを見せたらどうなるのか?

 ファンが狂喜乱舞するのは容易に分かるが、敵チームの監督して考えれば、これほど迷惑なこと、いや……恐ろしいことはない。



 ――――ダメだ



 ベンチに戻りながらアーウィンは、自分の脳裏に浮かんだその途方もない考えを振り払おうとしていた。

 しかし、なぜかこびりついたように、その考えが脳裏から剥がれることはなかった…………



 ▼▽▼▽



 side エバンス(トロリーズの監督)



 8回裏。


 一度は、乱打戦から投手戦と変わったゲームだったが、8回表のトロリーズの攻撃から、また怪しくなってきた。

 その理由は分かっている。

 ピッチャーが足りないのだ。


 8回表のトロリーズの攻撃は、満塁まで攻めたが点が入らなかった。追いつけなかった、逆転できなかったのは残念だ。だが、おそらく9回もこのペースは維持されるだろう。なぜなら、メートもすでに今日のピッチャーを使い切ったからだ。


 しかし…………


 実態は、トロリーズも全く同じだ。

 すでに6人目のピッチャーの登板を余儀なくされてしまっている。


 さらに大きな問題がある。


 7回裏の最後のバッターが打ったピッチャー前のゴロをファーストに投げる際、無理な姿勢で投げたようで、ピッチャーが腰の違和感を訴えているのだ。



 ――――どうする?



 これからシーズンの終盤が待っている。腰の状態に影響があるのなら、今、無理をさせてはいけないだろう。

 となると、明後日以降の登板予定の先発陣から起用するしかないのだが…………


 今の時期に、ローテーションを崩すのはハイリスクだ。それはよくわかっている。ゲームは生き物だ。一度、しかめっ面をさせてしまえば、再び微笑ませるまでに相当な時間と手間を要することになるだろう。

 何より、次戦以降の先発ピッチャーは、ブルペンにはいるが投球練習を行っていない。すぐに投げさせようとしても無理だ。



 ――――どうする?



 もう時間がない。ピッチャーがマウンドに向かわないので球場が騒めきだしている。



 その時――――



「投げる?」


 なぜかショートの守備位置にいるはずのアンジェが、いつの間にかエバンスの前に立っていた。

 思わず、エバンスは変な表情になってアンジェを凝視していた。



 ――――今、目の前の少女は何を言った?



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