モネと天使の印象

𝙉𝙉

第1話 晴れ、時々天使。

 満開の桜の花、校庭を満たす新しい匂い。

 茅西 慧は桜に囲まれた、大きな正面門をくぐった。嫌に高級感があり、ついさっきまで中学三年生だったお子ちゃまたちを迎えるには、少し贅沢な気もする。

 着慣れていない新品の硬い制服。まっさらなセーラー服と学ラン。まだ汚れはない。でも白いからそのうち汚くなっていくんだろうな。真っ白な生地はそうしてすぐ汚れていく。慧はなんとなく制服の第一ボタンを開けた。息が苦しかったのだ。この後の入学式に耐えられるだろうか。

「カナコって呼んで!」

「じゃあ私はルミでいいよ!」

 通りすがりの女子たちが騒いでいる。プリーツの多いスカートを泳がせているが、まだ制服は硬いらしい。プリーツはまとまった形のまま、浮遊していた。

 女子ってなんとなく輪を作るのが早い気がする。もう友達?だってまだ初日だぜ?……いや、俺が内気なだけか。

 昔からそうだったな、なんて慧ははしゃぐ女子たちを横目に己の十五年の人生を振り返った。

 幼稚園も小学校も特に思い入れはない。今だって、連絡を取り合っているのは一人、二人である。中学校はもっと思い入れがない。別にいじめられてはなかったが、馴染む気にもなれなかった。あのテンションというか、おふざけについていくのが正直面倒だったのだ。

 でも後悔はない。……いや、嘘。後悔はある。本当なら、この高校に来る予定はなかったから。上手くいけば、もっと才能があれば、"あいつ"を説得できて、それで、それで…………今は、こんなところにいない。いなかったのに。

 だが後悔したところで仕方がない。もう過去は変えられないから、この先を変えるしかない。慧は小さくため息をついた。……どうせなら、学ランは黒がよかった。

「ねえ!本当に可愛いってずっと思ってたの!」

「その髪色って地毛?メッシュもとっても可愛いね!」

 早足で昇降口に向かう慧の視線の先に、ちょっとした人集りがあった。本当にちょっとした人集り。女子数名に囲まれたその中央にいる人物に目をやってみる。

「あ、……うん!これ、地毛なの…お父さんと同じ……」

 去り際にちらっと見えたその髪色は、陽の光を柔らかく反射する銀そのものだった。まるで人間離れしているみたいに綺麗で、儚くて。ただ通りすがっただけなのに伝わるというか、感じる可憐さ。

 天使だ、と思った。直感的にそう、思った。神聖だった。

 ……いや、キモいな。

 自分が絵を描く人間だからなのかはわからない。わからないけど、昔から綺麗なものに惹かれる性質があった。それはルッキズム的な意味ではなく、内面的な。その人のその物の性質というか。

 今回はたまたまそれがあの名前も知らない女子だった。だから惹かれたのだろう。別に一目惚れとかそんなんじゃない。そもそも、ああいう人間は俺と住む世界が違う。一生関わらないでこの学園生活が終わっていくであろうことは容易に想像できた。

 何もショックじゃない。いかに穏便に、何事もなくこの高校を卒業して自分の目指す道へ進むことが何よりの目標なのだから。慧はまたさらに足を早めた。遅刻して目立つことだけはなんとしてでも避けたい。


 

 教室内はびっくりするくらい騒がしかった。

 初日のはずだよな?みんなほとんどの人が初めましてのはずなのに、この大騒ぎ。特にその輪の中に入るつもりもないので別にどうだっていいけど。慧はこぢんまりとした自分の席で、本を開いた。騒がしい外の世界から目を背けるには、この手元に広がる小さな世界に没頭するのが1番良い。

 読み途中のページをめくる。文字を辿る。ここだ、ここまで読んだ。そうそう、ちょうど今ポスト印象派の解説に入ったところだったな。慧はさらに読み進めた。

 今読んでいるのは、印象派とその派生についての解釈本。楽しいから読んでいると言うより、好きな世界を見ているに近い。だから飽きることはなかった。最も、印象派に何の興味もない人間にとっては、心底退屈で、つまらない代物かもしれないが。

「おし!席に着けー」

 不意に、教室の喧騒が弱くなった。大きな声の主を見れば、先ほどの入学式の時に紹介された――名前は忘れた――教師がそこにいた。教卓に向かい、強くその太い体を構えている。……たぶん、俺があんま好きじゃないタイプ。慧は小さくため息をついて本をしまった。しかし、この喧騒を一瞬にして鎮めたその実力は認めよう。

「これからみんなに自己紹介をしてもらう!名前と好きな教科と、趣味と一言……あとは言いたいことがあれば補足してもらって大丈夫だからな!」

 このクラスの担任であろう教師は自信たっぷりにそう言い放つと、名前の順を指定した。相田という名前の生徒から順に立っていく。次に井上、上田、上原……それを慧はぼんやりと見ていた。か、……かやにし。意外とすぐじゃねえか。

「よし、じゃあ茅西だな。よろしく頼むぞ」

「え、……、」

 ああ、えっと……なんだっけ。名前と好きな教科と趣味?一言……適当でいいだろう。

 どうせ誰も聞いていないんだから、早く終わらせたい。さっさと終わらせて、黙りたい。要は目立ちたくないのだ。目立つことが好きじゃない。だから……絵も人に見せたくない。慧は周りに少しばかり目をやって、それからゆっくりと立ち上がった。

 突如、慧に集められるクラスメイトたちの視線。それらが一点、慧の顔に背中に腹に全てに集中する。

「茅西、慧です」

 この視線の焦点になることが辛い。好きではない。

「好きな教科、は……英語で、」

 自分自身に自信を持って、誇り高く気高く生きている人間っていいよな。嫉ましいくらいに羨ましい。

「趣味、……あー……」

 趣味。……趣味ってなんだ?絵を描くことは……別に、趣味じゃない。好きじゃない。そういうんじゃない。

『じゃあ、なんで絵描いてんの?』

 それをしないと、俺が俺でなくなる気がするからだよ。茅西慧が茅西慧であると言うことの存在証明。それが、絵を描くという行為、そのもの。

 絵を描けない俺は、俺じゃない。

「特に、ないです。よろしくお願いします」

 心底つまらない人間だ、俺は。慧は腰から崩れるようにして、硬い椅子に尻餅をついた。まるで糸が切れたマリオネットみたいにすとん、とその場に落ちる。

「趣味、ないのか?」

 余計なことを言うな。慧は小さくその場で「はい」と返事をしたっきり立ちあがろうとはしなかった。いや、できなかった。まるで椅子と尻が接着剤でくっついたみたいに、その場から立ち上がることができなかったのかもしれない。遠くの方で先生が「趣味はあったほうがいいぞー」などと適当なことを続けているが、余計なお世話だと思う。人生を豊かにする方法は他にいくらでもある。

「じゃあ次は、茅場町だな」

 後ろの席へと自己紹介のバトンが渡される。へえ、この人はお芝居が好きなんだ。次の人……ああ、この人は理解が得意なのか、すげえ。俺は言うほどできないから。慧はただ机の角、一点を見つめていた。頬杖をついたままの手首はなんとなく赤くなってきている。

『趣味は、絵を描くことです』

 そう言えたら、どれだけ良かっただろうな。

 昔は違ったんだ。昔は。本当だ。本当にそうだった。江戸川の土手の風景を描いて、そうしたら母さんが褒めてくれた。姉貴もすごいねと言ってくれた。それだけでよかったのに。いつからか、"アイツ"の評価を求めるようになってしまった。評価を求めるようになってから、久しく妙典駅にはおりてない。

『落書きをしている暇があるなら勉強しろ』

「じゃあ次ー、日比谷だな」

 もう"は行"まで行ったんだ。嫌な過去を思い出していると、時間はあっという間に過ぎていく。慧は何気なく顔を上げた。

 ……あ、と思った。ゆっくりと立ち上がったのはあの時、さっき見た銀色の少女。そうか、同じクラスだったのか。

「うわ、めちゃくちゃかわいいな」

「俺タイプかも」

 近隣の席の男子達がヒソヒソと彼女を話した。

 さっきは通り過ぎただけだったからよく見えなかったが、今ならよくわかる。

 ガラス玉みたいに綺麗な瞳、その中に映る光は反射しているのではなくまるで光を放っているように綺麗で。重力に身を任せて下に伸びる綺麗な銀色は、他の何よりたおやかだった。その顔全体をよく見れば、どこか憂いを帯びているようにも見え、期待と不安が入り混じったような初々しい雰囲気さえある。

 神聖だった。少なくとも慧はそう感じた。あ、やばい。無意識に彼女を凝視してしまった。

「日比谷……翼って言います」

 この教室内で1人異彩を放っていたのは間違いない。まるで人間じゃないみたいに、純真無垢な。

「天使だな」

 そう、まさに。

「えと……好きな教科は、数学です」

 見れば見るほど、聞けば聞くほど彼女になんとなく興味が湧いてくる。

 でも違う、そうじゃない。そう言うんじゃないんだ、本当だ。慧は少しハッとして、日比谷 翼と名乗った天使から目を逸らした。これじゃあまるで俺が好きみたいじゃねえか。

「趣味……は、」

 別に、話したいとかそう言うことではない。なんとなく理由もなく1枚の名画にに惹かれるとか、彫刻に釘付けになるとか、そう言う感じ。慧の感情としては限りなくそれに近かった。そうらしい。慧自身がもう1人の己にそう言っている。だから、きっと間違いないのだ。

「……特に、ないです、」

「なんだ、日比谷もないのか」

 意外だな。慧は少しばかりまた日比谷をちらりと見やった。このくらいの年の少女ってもっと何か、あるもんだと思った。特に彼女は、と言うか。

 他の女子だって、ネイルが好きとかメイクが好きとか……あとなんだっけ。でもそんな感じだった。あんまり聞いてなかったからわからないが、趣味がない人は自分以外にいなかったなず。

「じゃあーあれだな、茅西と趣味なし同士仲良くなれるかもな!」

 本当にこの教師は余計なことしか言わないらしい。ふざけるな、慧は心内1人で怒りをぶつけていた。周りの視線が慧に集まる。同時に、慧は反抗心的に先生とは一切目を合わせないようにしていた。机の木目を凝視する。この木目、なるとみたいだな。

「その……お友達、たくさん欲しいから、あの……な、仲良くして欲しいです……!」

 最後、一言だけそう言うと日比谷はゆっくりとその場に腰を下ろした。ガタガタと椅子を引く音と雑な拍手が教室内に響き渡る。その中で、慧もやる気のない拍手をして見せた。

「日比谷さんめっちゃ可愛かったね」

「ね!いいなあ、私も仲良くなりたい」

 ほら、わかるだろ。もう既に自分とは住む世界が違いすぎると言うことが目に見えている。特に構わない。必要最低限しか関わる気はないし。

 彼女のことは綺麗だと思うが、特に興味は湧かなかった。それは向こうも同じだろう。内気で人と積極的に関わろうともしない真反対な俺のことなど、そもそも見えていないはず。慧は小さくあくびをした。

「じゃあ次は〜……」

 そうして自己紹介が続いていく。そう言えば、明日の予定はなんだっけ。昼飯いるんだっけ、まあいいや。そのうち説明されるだろう。慧はまた、めんどくさそうに少しだけ顔を上げた。





 ――――――――――――――




 さて、忙しない1日がやっと終わった。慧は教室で荷物をまとめていた。入学式の後だから、下の門のところで家族や友達と写真を撮っている生徒の方が多い。母さんもさっき少し来てくれたが、長居させるのも悪かったから先に帰させた。今晩はツナのテリーヌにしてくれるらしい。楽しみだ。慧は荷物をまとめるその手を早めた。教室内には慧と、女子数名しか残っていない。

「帰ろー!」

「帰ろ!帰ろ!ねえ!今日プリクラ撮ってこ!」

「最高!はやく行こっ!」

 ついにはその女子数名も帰ってしまったので、教室内は正真正銘慧1人となった。廊下の遠くの方で先ほどの女子達の楽しそうな笑い声が反響してくる。別に羨ましくはない。中学の時もずっとこんな感じだったし。

 筆箱……入れたな。手紙も書類も持った。よし、帰るか。そう思ったところで、教室内に1人の影が入ってきた。ちらっと横目で見やる。……銀色の髪。なんだっけ……あの少女、思い出した。日比谷 翼だ。

「……」

 座席の後ろ、自分のロッカーを何やらごそごそしている。忘れ物でも取りに来たのかもしれない。

 まあ俺の知ったことではない。慧はまとめた荷物を持って、くるりと教室内から背を向けた。早く帰ってツナのテリーヌを……

「……あ、あのっ!」

 不意に、踵を返した慧の背後で透き通った声が響いた。……俺か?いや、多分違う……

「かっ、茅西くん!」

 あ、俺だ。慧はゆっくりと振り返った。目の前にいるのは、白銀の天使。

 そのガラスみたいに透き通った瞳と、淀んだ江戸川みたいな青い瞳が重なる。目が合う。おかしいな、そんな透き通った瞳で、淀んだ江戸川は見るもんじゃないのに。

「日比谷さん、だっけ。……なんか用?」

 自分よりも20cmくらい背の低い彼女を見下ろす。

「あの、……えと、」

 彼女はこちらを軽く見上げて、目を泳がせていた。まるで大きな獣を目の前にして、怯えている小山羊みたいに小さくなっている。

 ごめん、別に、怖がらせるようなつもりはなかった。だが、昔からそうだった。昔からこうなのだ。初対面の人に対して、必要以上に緊張してしまう。それも、自分とは住む世界が全く違う人間を前にしているのだから尚更。ごく普通を取り繕っていても、慧のその心臓は破裂しそうなほどに鼓動していた。

 もういっそ、止まって欲しいくらいには、苦しかった。慧は目の前の天使を見れずにいた。

「私と……お友達、なって、……くれる……?」

 彼女は確かにそう言った。目の前の慧を見上げて、小さい口を開いていた。

「え、俺……?」

 何かの間違い?人違い?慧は思わず聞き返してしまった。だって、ありえない。キラキラして、可憐で、神聖で、それでいて、……可愛くて。そんな彼女が、俺を視界に入れ、認知したことすらも理解し難い。本当か?

「うん、茅西、慧くん……」

 俺らしい。その名前を確かに呼んでいたから間違いない、……。

「あー……うん、なろう、友達」

 友達ってこうやってなるんだっけ。しばらく新たな友達を作っていないからわからない。

 でもなんか、新鮮な気がする。友達になろう!と言ってなるもんじゃない気がしていたから。もっとこう、成り行きで話して〜、みたいな。だが不思議と、悪い気はしなかった。俺でいいの?とはずっと思っていたが。慧の心はどこか晴れやかだった。まるで天使に救済されたみたいに、浄化されていく。

「ほんと……?ほんとに……!?私とお友達になってくれるの……?!」

 ぴょんぴょんとどこか嬉しそうにその場で跳ねて見せる彼女。その顔は快晴。雲ひとつなかった。目をきらっきらとさせて、慧にちょこん、と近寄る。その小さな手を慧の腕にそっと添えて。

「あのねあのね!えっとね、私……茅西くんとお話ししたかったの!」

 えへへ、とどこか照れくさそうに彼女はとびっきりの笑顔で笑って見せた。心の底から嬉しそうに、まるで、慧との出会いを心待ちにしていたかのように。

 そんな、そんな笑顔を向けられるほど俺は価値のある人間じゃない。中途半端な才能を過信して、生きて、……。

「……いいの?俺で」

 君ほど可愛くて可憐な人はもっとキラキラしている人間の方が似合っている。こんなくすみきった茶色じゃなくて、メイクが趣味の女子達とか運動部に入っている優れた男子達とか。間違いなくそう、絶対に。

「茅西くんがいい」

 彼女の目に迷いはなかった。透き通ったその瞳は、慧の瞳の奥の自我そのものを見つめていた。一点を見つめると言うより、見透かすと言う表現が適切かもしれない。心の奥底を覗かれて、救いの手を差し伸べてくるような。

「へんなやつ」

 間違いなく、そこにいたのは天使だった。間違いなく、天使の印象がそこにあった。慧は思わず吹き出してしまった。物好きな天使もいるもんだ。わざわざ己の住む天界を抜け出して、こんな廃れて寂しい世界を覗きに来るなんて。

「えへへ、よく言われちゃう」

 彼女もまた、その色素の薄い顔に満面の笑みを浮かべた。

 おかしいな、俺たちって初対面のはずなのに。今さっき、ほんの数分前に正式に知り合ったばかりなのに。もうこんなに笑いあって、こんなのって初めてで。

 土足でズカズカと己の領域に入ってこられるのは嫌なはずなのに、どうしても彼女に心を許してしまいそうな気がしてしまう。反対に、彼女をもっと知りたいとさえ思ってしまう。なんでだろうな、なんでだろうな。自分が自分じゃないみたいに、慧は胸を高鳴らせていた。

「茅西くんの目ってすごく綺麗だね」

「汚いだろ」

「綺麗だもん」

 こんな薄汚れた青い瞳を綺麗だと思う方がおかしい。やっぱり日比谷 翼は変なやつだ。だから、だから……嫌いじゃない。きっと、多分。彼女も江戸川を気にいると思う。汚いけど、好きなんだ。また妙典駅で降りても……いいかもしれない。

「行こ、茅西くん。よければ……君と一緒に帰りたいな」

 彼女はそういうと、先に一歩前に出た。

「早く来てくれないと、置いて行っちゃうよ!」

 また一歩前へ、そうして教室を出る。

「はいよ」

 強引だけど、嫌な気はしない。ズカズカ踏み込んでくるのも、不思議と心地が良かった。こんなのは、正直初めてだ。

「てか、なんで俺なの?」

「なんでかなあ。私と同じ趣味なし人間だったからかも!」

「なんだそれ」

 思わず彼女と顔を見合わせて笑い合う。確かにそうだ、思い返せば2人とも趣味なし人間だ。あの教師の言うことも、間違いではなかったんだな。慧はスクールバッグを背負うと既に廊下の外にいる彼女の元へ歩いた。

「じゃあ、帰ろ!」

「ああ」

 そうして一歩、一歩と二人で歩みを進める。騒がしかった廊下も、今は二人きりの貸切だった。

 まあ、こう言うのも悪くない。

 変なやつ。だけど、不思議と悪い気はしない。むしろ、今の慧はどこかワクワクしていた。これからの学校生活に、未来に、これから先のこと、全てに。きっと、彼女も……そう思っていたらいいな、なんて。慧と日比谷はそのま二人で学校を後にした。

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