第3話 別れを惜しんで 美人キャバ嬢に心動かす

 俺は急ブレーキを思い切り踏み込んだ。タイヤがアスファルトに擦れる甲高い音を立てて車内が大きく揺れる。車は数メートル滑って停まると後部座席の白田と菅野が前方に投げ出されるようにもんどり打った。


「痛えな!」


 白田(ハゲの絵人間)が絵の描いてある顔を前の席のシートにぶつけて怒鳴ったがそんなもん無視だ。俺は混み合った車線の真ん中に車を止めたまま、後部座席の2人を振り返って怒鳴りつけた。


「おい、何だ拉致って!?」

 抑えきれない怒りが声に滲む。


 背後から軽自動車のクラクションがけたたましく鳴り響く。ヘッドライトの眩しい光がバックミラーで反射され車内が一瞬白く染まる。俺はそれに構わず続けた。

「そんなの聞いてねえぞ! 拉致監禁なんて重罪じゃねえか!」


「うるせえ!」

 白田が目を剥いて、絵のかいてある顔を俺に近づけながら睨み返す。「お前が聞いてるとか聞いてねえとか、俺は知らねえよ! 文句があるならルパンさんに聞けや!」


 白田の顔は苛立ちで真っ赤に染まっているが、そんなことはどーでもいい。俺は白田のしょーもない反論を無視して、後部座席隣の菅野に目を移した。


「菅野!」


 もう一人のコワーカーとやらに顔を向ける。「お前知ってたのか!? 拉致なんて、お前捕まったらやべーぞ! 重罪だぞ重罪!」

 菅野は怯えたように肩をすくめると震える声で答えた。

「ぼ、僕はただ言われたことをやってるだけで……詳しいことは分かりません……」


 背後でクラクションがさらに執拗に響く。バックミラーには軽自動車がパッシングを繰り返しているのが映った。


「くそっ……」


 俺は仕方なくアクセルを踏んで車を再び動かす。だが、頭の中は怒りと困惑でぐちゃぐちゃだった。


 何だよ拉致って……。こんなことになるなんて聞いてねーぞ。ただの送迎の運転手としての募集じゃなかったのかよ!?女の子を拉致だ? ――怪しい勧誘を信じた俺が馬鹿だったのか?


 どうする? このまま拉致に加担するとかありえないだろ。ハンドルを握る両手が汗ばんでいる。こんな道を突き進んだ先に、まともなハッピーエンドが待っているとは思えない。どっかで逃げるか……。



 とりあえず、GPSの指示通りに車を進めると、目的地らしい西麻布の裏通りで車を停める。

「おい白田、ルパンの携帯番号教えろ」

「俺も知らねーよ! 直接話すとかねえから。つかテレックサー繋がってんだろ。テレックサーで聞けっつーの!」


 テレックサー――闇バイト界隈で使われている匿名を保証している連絡アプリだ。全てのやり取りこれか類似アプリを通じて行われるているらしい。通話先双方の位置の特定は出来ず、且つチャット等のやり取りのログも残らないとかで、匿名性を保持したまま安全にやり取り出来るとか言ってるが、安全なのは結局身を隠している元締め側だけだ。

それもアプリ運営者が警察にサーバ側のログを開示すりゃIPやチャットログも筒抜けになるだろうに、これを万全と思って業界の標準にしてるところがまた頭が悪い。流石反社半グレが運営する闇バイト業界だ。


 車を停めた裏通りは暗く、ここが高級マンションが立ち並ぶエリアだとは思えない様子だった。街灯は少なく、フロントガラスから差し込む明かりは頼りないほどに弱々しい。辺りは静まり返っていて遠く表通りを走る車の音がかすかに耳に届く程度だった。俺はハンドルを握り締めたまま前方の暗闇を睨みつけた。時計は18時40分を示している。指示された19時までもうあまり時間がない……。


 ふぅと息を吐きだして覚悟を決めるとてスマホを取り出した。闇バイトの元締めと直接交渉するのは頭が重い。出来るのか?俺に。普段取引先の課長にすらボコボコに論破されて心の中で泣かされている俺に……。

テレックサーのアプリを立ち上げると匿名通話の画面が無機質に光る。発信ボタンを押すと、「連絡中」の文字が浮かび、受話器のアイコンが震え出した。


 出ない……相手が応答するまでの数秒――そのわずかな時間が、妙に長く感じられる。


 1分ほどコールし続けてついに相手が応答した電子音がした。


「あどうも、ルパンさん。津田です」

 呼びかける俺の声が思ったより震えている。すぐに低い声が返ってきた。

「おう、どした? 何?」

 どこか気怠げな、それでもどすの効いた声がボイスチェンジャーで加工さえれて響く。思わず俺の背筋に冷たいものが走った。


 車内には重たい静寂が漂っている。白田と菅野も気まずそうに息を潜め、俺とルパンのやり取りに耳を傾けているのが分かる。


「なんか……ちょっとだけ聞いてた仕事と内容が違うっぽいんですけど」

 俺は努めて冷静を装いながら、慎重に言葉を選んで話した。


「違わないよ」

 思ってもなかったルパンの返事が間髪を入れず返ってくる。


「いや、拉致とか聞いてないすけど……」

 スマホを握る手がじっとりと汗んだ。自分の心臓の鼓動がやけに大きく、過呼吸かっつーほど早い。

「で?」

「で、じゃねーよ!」堪えきれず、俺は声を荒げた。

「20万かそこらで女攫ってこいとかアホか!そんな俺のスーパーリスクノーリターンじゃねえか!」


 一呼吸おいて加工されたルパンの声が低く響いた。

「嫌なら止める? 俺、お前の顔も住所も知ってっけど」

 突然の意味が分からない言葉を咀嚼して心臓が一瞬止まる。そうだ、こいつは俺の顔も、住所も、生年月日も、免許証のコピーまで全部握っている――それを思い出した瞬間、全身から冷たい汗が噴き出した。


「お前んちに出入りする人間が通り魔に襲われて刺されたり、お前が寝てる間に家が不審火で燃えちゃうかもよ」

 正体不明の加工された声が追い打ちをかける。電話の向こうでククッと笑い声が聞こえた。


「何すか今の? 脅しですか?」

 声が震えるのを隠せないまま問い返す。


「うるせえなあ、お前は運転だけしてりゃいいんだよ。拉致は残りの二人がやる。お前は黙って運転だけやれ」

 バックミラーの端に映る白田と菅野は目を合わせ、苦い表情を浮かべている。


「とやかく言ってっとノーギャラにすんぞ」

 ルパンの冷酷な声が続く。

「来月までに200万とか言ってただろうが。やる気ないならいいぞ、こっちは。やりたい奴はいっくらでも居るんだから」


「……」

 応答する言葉がない。つまりこで逃げたら俺は家の前で刺されたり、寝てる間に火事に巻き込まれたりってことか――。アパートのドアを開けた瞬間に変なやつに刺される俺を想像して背筋が凍る。


「今度一言クレームするたびに1万引きな。お前、もう1万引いて残り19万だから。」


 間髪入れずギャラを差し引くと言ってきた。くそ……こいつ、俺の弱みを完全に把握してやがる。悔しいが、立場も場数も、何より交渉術が俺とじゃ天と地ほど違う。


「分かったな? 分かったら黙って運転だけやれ」

 ルパンの言葉が、今にも崩れ落ちそうな俺の背中を静かに押した。


「……はい、分かりました。」

 そう答えるのが精一杯だった。背中を押され奈落に落ちていく感覚。抗う力なんてどこにも残ってない。


 会話が終わり、スマホを仕舞う。俺はハンドルの上に突っ伏した。


 マジかよ……拉致誘拐とか、無理だって。しかも女の子だって? 危ない奴じゃん……。せめてその辺の酔っ払いのオヤジとかなら、まだ手伝えるかもしれないけど……。闇バイトなんかに申し込んだことを改めて悔やむ。だけどもう片足ずっぽし突っ込んじゃっててしかもその足は沼の底でガッチリ固定されてるらしかった……。


 「おい、7時だ。そろそろ来るぞ。準備しよう。」


 後部座席から白田の声が聞こえる。もぞもぞと動く音と共に、菅野に何かを渡している様子だ。

「お前にも一応渡しとくわ。」

 白田がそう言って、俺に何かを差し出してきた。

振り返って受け取ると、それは金属製の三段式の警棒と黒いニットの目出し帽だった。


「何だこれ? 何すんこれで?」

「いや、顔見られたらヤバいかなって思って買ってきたの。ダンキーで。」


「アホか!」

 思わず声が上ずる。

「こんなもん被って運転してたら、すれ違うお巡りさん全員の頭の上にビックリマーク立つわ!」


「え? そうかな……。じゃあお前は被らなくていいよ。後ろの席はどうせ外から見えないし俺かぶっとくから」

 白田があまり考えてない感じで答える。


 マジかよ……仮に犯罪犯すにしてこんなアホと組むことになるとは思わなかったぜ。まあ人生後先考えず顔に墨入れちゃうタイプの思い切りのいいお方みたいだしこいつはこいつなりに刑務所でも人生エンジョイ出来そうだな。俺とは別々の道を歩いていて欲しいけど。


 「来たぞ!」

 白田が小声で叫ぶ。

菅野がニット帽の上から銀縁眼鏡をかけて後ろを振り返った。

助手席から俺も視線を向けると、暗い通りの向こうから、一人の女が表通りに抜けようと暗い裏道を歩いてくるのが見えた。


 いかにも夜の仕事をしているような目を引く格好――濃い化粧、胸元の大きく開いたドレスに長いコート、短いスカート、ヒールの音が静かな通りにコツコツと響いている。


 こんな寂れた通りで派手な格好で、一人で歩いてくるなんて、何考えてんだよ……。だからお前は行動把握されて拉致されるような目に合うんだよ。


 俺の心臓はさっきよりも早く、そして重く鼓動を打ち始めた。


「よし、行くぞ。」

白田が低い声で言い、警棒を手にした。菅野も無言で頷いた。

俺はただ、運転席で動けずに座っていた。


 彼女が路地の車の後方にさし掛かった瞬間、後部座席のドアが音もなく開いた。

二人の影が夜に溶け込むように飛び出し、瞬く間に彼女に近づく。

「えっ……!?」

彼女の驚きの声が漏れる間もなく、背の高い方、恐らく白田が背後から羽交い締めにし、もう一人、目出し帽の上から眼鏡かけてるから菅野、が彼女の足に抱き着くように押さえた。激しく暴れる彼女のヒールがアスファルトを叩く音が耳に刺さる。


「ちょっ何よッ!!――」


短い叫び声をかき消すように、後ろの一人が手際よく口を塞いだ。抵抗する間もなく、彼女の体はずるずると車内に引きずり込んだ。手慣れてない?この人たち……。


 俺はハンドルを強く握りながらバックミラー越しにその様子を見ていた。心臓が嫌な鼓動を繰り返す。


「乗ったぞ。出せ!」


後部座席から声が飛び、俺は言われるがままにアクセルを踏んだ。車は暗い裏通りを滑るように走り抜ける。車内は一瞬、静寂に包まれた。だが、すぐに後部座席から女の子の暴れる音が満ちた。


 ヒールが床を蹴る音、シートに爪を立てる擦れる音、そして塞がれた口から漏れるくぐもった叫び声。

「おい、こいつ押さえろ。黙らせろよ!」

 白田が低い声で苛立ちを滲ませ、菅野に怒鳴った。

「えっ……ええっ?」

 銀縁はおどおどと女の子に手を伸ばしたものの、どうすればいいのか分からないのが明らかだった。恐る恐る彼女の口元に左手は添えるだけのように押さえ込むが、その瞬間、彼女はますます激しく身をよじった。


「僕には無理です。ごめんなさい!」

 菅野の声が裏返る。焦りと女性にたいする恐れがが混ざった声っぽい。


 「しゃあねえな……一回やっちまうか」

白田が吐き捨てるように呟く。その声は冷たくいやらしさと歪んだ興奮が滲んでいる。


 俺の手はハンドルを握りしめたまま動けない。心臓の鼓動が耳の奥で鈍く響き、胸が締め付けられる。空気がどんどん重くなり、息苦しさが増していった。


「ちょ、やっぱ無理だわ」


 思わず声が出た。これ以上耐えられない。路肩に車を寄せ、停車させると、さっき渡された警棒を掴み、ドアを開けて外に飛び出した。


「おい、何やってんだよ!逃げんのか?」

白田の声が背中に突き刺さる。

俺は何も答えず、警棒の先端を握り直した。重心を先にして構える。まるでバットを振るような感覚だ。


 後部座席へ回り込み、スライドドアを勢いよく開け放つ。

「車出せって!市川駅まで急げって指示だろうが!」

白田が怒鳴り散らすが、俺は無視した。


「ほわっちゃあ!」


 ガキの頃再放送で何度も見た昭和ケンシロウ風の掛け声とともに、白田の顔面に振り下ろす。

 めめきぃッ。鈍い音が響き、白田の顔面に警棒の握り柄がめり込んだ。


「へぶしッ!」


 奇妙な悲鳴を上げた白田が後部座席から転がり落ちた。ニット帽の穴から出た鼻を押さえる手の間から血が滴り落ちる。


「菅野!そいつ連れて外に出ろ!」

震える銀縁メガネ――菅野に怒鳴る。奴は慌てて白田を引きずり、二人とも車外へ降りた。


「ドア閉めろ!それから30メートル向こうまで走れ!」

俺の怒声に反応して、菅野は白田を引きずるようにヨロヨロと走り出した。


 俺は大きく息を吐き震えている女の子に目をやった。怯えた瞳でこちらを見ていた。その瞳は一体何が起こってるの?とでも言いたげに暗い車内で揺れている。


 「大丈夫。もう怖くないから」

柔らかい声を心掛けて声をかけるが、彼女はまだ震えたままだった。

俺は再び運転席に座り込み、車を発進させた。元来た道を引き返しながら、彼女の震えが少しでも収まることを願った。


 やがて、西麻布の薄暗い路地を抜け、イルミネーションでライトアップされた公園にたどり着く。車を乗り捨てて後部座席に戻ると、彼女をそっと車から降ろした。

「ここなら安全だろ。ちょっと待ってて」

 ベンチを指差し、彼女を座らせる。公園はカップルやナイトランナーが行き交い、人の目がある。ここあいつらが追ってきても無茶なことは出来ないだろう。ポケットを探り、小銭を取り出すと自販機へ駆け寄った。


「はい」


 ペットボトルのお茶を差し出すと項垂れていた彼女が俺を見上げる。目が合った。いやマジでものすごく可愛い。イルミネーションに照らされた彼女の顔がふと浮かぶ。長いまつげにぱっちりとしたお目めにギャルメイクがよく映えている。ふんわりとカールした長い茶髪からはいい匂いが漂ってきた。


 彼女は差し出されたお茶を少し警戒しながらも受け取った。

「お姉さん、大丈夫? ケガしてない? 名前は?」

 俺の問いかけに、彼女は小さく首をかしげながら答えた。

「あ、わたし、芹沢杏」

 一瞬考えると、彼女が付け足すように言った。

「あ、ごめん。それはお店での名前。本名は篠原真弓。で、あんたは?」

「お、俺は土御門。」

「はぁ? 土御門? 陰陽師かよ! ほんとのやつ言え!」

ギャルらしいツッコミに、思わず口ごもる。

「つ、津田純平です……。」

彼女は笑いをこらえるような表情を浮かべた。


 「津田君ね。一応、礼言っとくわ。ありがとう」

短くそう言うと、彼女はペットボトルのキャップを捻りお茶を一口飲んだ。

「で、何だったの?あんたたち」

暖かいお茶を飲んで落ち着きを取り戻したのかもともと肝が据わってるのか少し落ち着いた口調で聞いてくる。


「いや、俺もよく分かんないんだけど……率が言い送迎の仕事だって言うから申し込んだら、拉致った君を送り届ける仕事だったみたいで……」

自分でもどう説明していいか分からず、もごもごと口ごもって答える。

するとそれを聞いて彼女が半ギレで詰めてきた。そりゃ当然だ。

「何それ!? それって闇バイトでしょ? 何でそんなことやってんのよ!」

冷ややかな声で問い詰められる。俺は目をそらしながら正直に答えた。

「実は……FXでやらかして、来月までに200万くらい稼がないと破産しちゃうんだよね」

事情をかいつまんで話すと、彼女が鼻で笑って答える。

「馬鹿じゃないの? 借金してギャンブルなんかやるなんて勝てる訳ないじゃん」

彼女の辛辣な言葉に肩を落とす。

「いや、テレビで絶対パメラが勝つって言ってたから……。」

自分でも言い訳に言い訳を繰り返した。


 沈黙がしばらく続いた後、彼女はふと表情を引き締めて口を開いた。

「で、誰の指示?」

 俺は少し慌てて答える。

「俺は知らない。ただ、ルパンってやつがいてそいつがそれぞれに指示してて」

「ルパン? 誰それ?どこにいるの?」

「分からないけど、君を市川市に送迎するって話だった。詳しい住所は、さっきのあの二人のどっちかが知ってるらしい」

 芹沢杏、もとい篠原真弓、いや杏が手を口にやって考え込むと少しの間をおいて言った。

「市川市か……家永ね」

「家永?誰?」

「家永竜太郎。ちょっと前まで新宿を拠点にしてた半グレよ。うちの店にもよく来ててくれてて、お金もたくさん使ってくれてたけど……色々やらかしたから出禁になったの。他とも揉めてたみたいで地元に帰ったって聞いてたけど」

「たくさんってどれくらい使ってたの?」

「さあね、毎月300〜400万は落としてくれてたんじゃない? 私もだいぶ助けてもらってたけど」

「1年で5000万ペースかよ……エグいな。何やればそんなに金持ってんの?」

「聞いてた話だとオレオレとか?今は闇バイトを仕切ってるみたいね。まあどっちも携帯とリストがあればできる仕事だしね」


 彼女の冷静な言葉に、俺は改めて背筋が寒くなった。オレオレ詐欺や闇バイトを仕切ってる奴が水商売の女の子とかと意外と繋がってるのかよ。

「多分家永だと思うから、あんた警察行ったら?」

 彼女がそう言った。口調は冷静だが、どこか他人事のようだった。

「証拠がないんだよ。テレックサーってアプリでしかやり取りしてないからさ。」

 歯切れ悪く答えると、彼女は少し苛立ったように眉を寄せた。

「証拠? 電話のやり取りとか残ってないの?」

「ない。全部アプリ経由」

「じゃあ、直接行って、あんたと家永の会話を録音するとか?」

「どこに?」

「市川に決まってるでしょ」

 一瞬、言葉を飲み込む。身を守るためには悪い計画ではないのかも知れない。けどどうやって?


「でも住所とか知らないし……」


 杏が少し考えて言った。

「わたしも知らないけど市川のタワマンのどこかよ。前に飲み会の写真送られてきたし」

「タワマン? 市川にタワマンなんてねーだろ?」

「あるわよ。今や田舎の方がタワマン多いくらいなんだから」


 意外な話に、思わず言葉を返す。

「マジで? だって市川にタワマンに住む住むような上流階級なんていないでしょ?」

彼女は少し笑いながら答えた。

「馬鹿ね、タワマンに上流階級が住むわけないじゃない。上流階級ってのはセキュリティがしっかりしてる低層マンションか、高い塀のある一軒家に住むのよ。例え投資目的でタワマン買っても自分じゃ住まないわよ。タワマンに住んでるのは成金と田舎もん、それにホスキャバよ」


 なるほど、分からない。そんなもんかと頷きながらも、縁もゆかりもないその話に

「へえ、そうなんだ」と答えるしかなかった。

「じゃあさ、その家永ってやつの写真とか持ってない?」

「あると思う。ちょっと待って」


 彼女はスマホを取り出すと手慣れた感じで操作し始めた。

数秒後、画面に現れたのは派手なパーティーの様子を写した一枚の写真だった。中心には白に近い銀髪の坊主頭の男。ひょろりとした面長の顔に、どこか嫌味な自信を漂わせてて、右手の親指と人差し指をL字に広げて顎にあてている。

「なるほど、ルパンを名乗るわけだ」

写真を見つめながら、思わずそう呟いた。見た目だけでも一癖も二癖もありそうな男だ。

「ほら、これ高いビルからのビューでしょ。こっちにある窓の背景見たら、大体わかるはず。あと、アンスタとか見れば情報集まるかも」

「あー、SNSで分かるかな。もしよかったらリンク教えて」


彼女はスマホを素早く操作し、次々と家永のSNSを開いていく。その画面を俺も自分のスマホで確認する。


これで家永の住所さえ突き止められれば――警察に届けて、逮捕してもらえるか?

よし、市川に明日行ってみよう。


「君、どうするの?送るよ」

俺がそう声をかけると、彼女は一瞬考えると首を振りながら言った。

「いいわ。店に連絡して迎えを頼むから」


彼女は店に電話をかける。通話を終えると、少しの間黙ったまま俺を見ていたが、やがて口を開いた。


「それより津田君、あなた危ないわよ。気を付けてね」

その言葉は軽い調子だったが、どこかに重い警告が潜んでいるのを感じた。

「家永、裏切られて計画をぶち壊されたんだから。絶対何か報復してくるって。やな奴で危ない奴よ」


 杏が店に電話してから、10分も経たないうちに黒塗りの外車が公園の入り口に滑り込んだ。車から降りてきたのは、圧倒的な体格の男だった。

「迎え来た」

杏がその男を指差す。


「劉ちゃん、こっち!」


 呼ばれた男――劉ちゃんとやら――は、二メートル近いであろう巨体を真っ直ぐにこちらへ向けて歩き出した。その存在感に思わず息を呑む。革靴がアスファルトを踏みしめる音が重たく響き、俺の全身が本能的に緊張で強張った。


劉ちゃんは威圧的な視線を一瞬俺に向けると、低い声で彼女に話しかけた。

「お疲れ様です、杏さん。大丈夫ですか?こちらは――?」

「私を助けてくれた人」

彼女は俺を弁護するように必要以上に明るい笑顔を浮かべるとそう答えた。


劉ちゃんは一瞬驚いたような表情を見せた瞬間、くしゃりと子供のような笑顔を作って俺に言う。

「ありがとうございました。ぜひ今度遊びにいらしてください。ささやかではございますがお店からのお礼としてご招待させて下さい。その際はこちらをお持ち下さい」


劉ちゃんは深々と丁寧に頭を下げると、両手で名刺を差し出してきた。肩書には、**“ラシャンテ六本木店 チーフ 劉軍輝”**と記されている。


 名刺を受け取りながら、急に崩して笑顔になった劉ちゃんに俺は少しだけ息を呑んだ。逆にその変わりようが怖い。仮にここにいるのが俺じゃなくてアホの絵人間白田だったら恐らく一瞬で背骨折られてたに違いない。


 劉ちゃんは一瞬間を置くと少し気を遣う口調で再び彼女に向かって言う。

「杏さん、お客様お待ちですのでそろそろ……」

彼女は一瞬だけ俺を見つめ、そしてすぐにうなずく。

「うん、行こう。じゃあね、津田君。ほんとありがとうね」

「あっ……」

連絡先を聞こうと思って声をかけようとしたが……止めた。向こうは半グレが毎月数百万払ってまで一緒に飲みたいとやってくるお店のキャバ嬢。一方俺はこのままでは来月破産が確定している超経済弱者なのだ。連絡先を聞いたところで俺は彼女にとって営業する対象ですらないだろう。仲間を裏切って助けただけの男じゃ交渉権が弱すぎる。


 諦めて去り行く二人の後ろ姿を見つめる。車がゆっくりと動き出し、遠くなっていくテールランプをただ見送った。辺りに静けさが広がり、人もまばらになってきている。スマホを見ると夜の9時を過ぎていた。


 「さて、俺も行くか」


そう呟いて歩き出す。車はこのまま乗り捨てる。どうせ盗難車かなんかだろうしGPSも仕込んであんだろ。とぼとぼと最寄りの駅へ向かいながら、今日一日の出来事が頭を巡った。


パメラの敗北で200万借金に始まり、闇バイトの勧誘と応募、看板のないパーキングビル、アホな仲間ども、それを裏切ってキャバ嬢助けて、結局全てが徒労に終わる。


 忙しいだけで何の収穫もない日だったな。いや、それどころか、闇バイトを裏切ったんだ。この先、何が待ち受けているか分からない。来月破産する予定も相変わらずだ。憂鬱な頭を抱えて足だけが勝手に進んでいく。地下鉄の入り口を降りながら、俺はぼんやりと「明日からどうしよう」と思い始めていた。


 電車が最寄り駅に着き、改札を抜けた。すると周囲の慌ただしい空気にふと違和感を覚える。遠くで複数の消防車のサイレンが鳴り響き、その音が徐々に近づいてくる。

「どこだ?」「どっちの方だ?」

周りの人々がざわめく声を耳にした瞬間、胸に嫌な確信が芽生えた。


火事だ――!


「お前が寝てる間に家が不審火で燃えちゃうかもよw」

ルパンの言葉が頭の中で繰り返す。ぞっとする嫌な予感が全身を駆け巡る。次の瞬間、俺は家へ向かって全速力で駆け出した。

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