「コスプレ」と「セクシュアリティ」のあわいに
昔読んだ本(おそらく1980年代)で、「トランスセクシュアル」「トランスヴェスタイト」「トランスジェンダー」の三つに分類したものがあった。
トランスセクシュアルは、性自認と生物学的性別が一致しておらず、性別適合手術やホルモン療法などの医学的な処置によって身体と自認する性別の一致を望む人、またはその処置を受けた人のことで、トランスヴェスタイトは異性装者、反対の性の服装や性役割をパートタイムで身につける人たちのことである。なお、これは精神医学側が作った言葉なので、これを嫌うTVの人たちは、近年、クロスドレッサーCrossDresserと自ら名づけている。トランスジェンダーは、出生時に割り当てられた性別と性自認が異なる人たちのことである。
「うわぁもう混乱したトランスが複雑でわからない!」と嘆く困った人たちは、何度でも読み返しをするといい。時間はたくさんあるし、あなたたちが理解するまで、わたしは待っている。
トランスを三種に分類したはいいが、数十年経ったいま、トランスジェンダーだけが残ってしまった。戦隊モノの名前のようで響きがカッコイイ(変っ身、トランスジェンダー!)が、そんなことはどうでもよい。すでに用語が廃止された「性同一性障害(GID)」は置いといて、しかし“治療”した人たちが名乗るのはトランスジェンダーであってトランスセクシュアルではないのかが少し気になる。
トランスヴェスタイトは意味が間違っていると、某トランス女性にかつて指摘された。しばしば起こることだが、英語から日本語に訳されたとき「トランスヴェスタイト=服装倒錯者」とは、なんという誤訳だ(誤訳した本人からして、異性装をすると性的興奮をしたのかもしれない)。わたしたちは“ヘンタイ”ではない。異性の服を着ることは「倒錯」でもないし「変態性慾」でもない。「生物学的に男性なら男性用衣服を着るべし!」と誰が決めたのだろうか。いや、誰も強制的かつ一律に決めることはできない。
トランスヴェスタイトは、性自認は男性だが女性の服装をしていること(あるいは性自認は女性だが男性の服装をしていること)について、精神にまったく異常はない人のことである。ノンバイナリー(非二元論)なわたしは、いつも男性の服装をしているが、女性にも男性にもアイデンティティは形成していない。女性用は身体にぴったりしていて動きづらい感じがするし、拘束服じゃあるまいし、胸も腹も肩も腰も窮屈だからである。つねにゆったりしていて着心地がいいものを選ぶと、決まって男ものの服を選んでしまうのはいったいどういうわけだろうか。
また、DSDs(Difference of Sex Development:性未分化疾患)なる用語もひじょうに問題だ。「生物学的性別」と「性自認」が一致しているだけで「正常」とみなし、残りは「病気」とされる。
「染色体、生殖腺、もしくは解剖学的に性の発達が先天的に非定型的である状態」を指す医学用語で、権利運動などでは「インターセックス」と呼ばれることもある。
「性分化疾患」という単一の疾患があるわけではなく、アンドロゲン不応症や先天性副腎皮質過形成、卵精巣性性分化疾患、クラインフェルター症候群、ターナー症候群など、身体的性別に関するさまざまなレベルでの、約60種類以上の症候群・疾患群を包括する用語で、日本では以前までは「性分化異常症」「性発達障害」などと呼ばれていたものに当たる。
2024年現在、マスコミでは「性の多様性」というが、一昔前は「性のグラデーション」といわれ、個人的には「スペクトラム(spectrum)」という言葉に落ち着いた。スペクトラムとは、連続体あるいは範囲を意味する言葉であり、「次第に移り変わっていき、“どこで”という切れ目がないことを指す(松尾寿子『トランスジェンダリズム 性別の彼岸』」)。
スペクトラムはきわめて微妙であり、特に性のスペクトラムはプライバシー侵害になるため、他者について具体的には語れない事情がある。そこで、わたし個人の事例を語りたいと思う。
女性ものの服は昔から嫌いだった。なるべく身体を小さくタイトに見え、スカートを履いたら自然に脚を閉じるのは、おしとやかさのせいではなくスカートから下着がまる見えになるからだと思い、それが男性を性的に興奮させたり喜ばせたりするのがひじょうに嫌だった。わたしたちは観賞用ではないからだ。大股で歩き、座ったら脚を大きく広げる。窮屈なのは勘弁だ。この感覚は、シス女性もトランス女性も理解できないだろう(シス女性はいくつになってもパンツやスラックスを履いて自転車に乗ると自然に脚を閉じる、ヘンな生きものだ)。
ブラジャーをつけることよりも女性用下着売り場が苦手だった。白いレースがあちこちで揺れており、客も店員もみな“かっちりとした女性”をやっている。一部の隙もない。そこにひとりで入るとわたしは息苦しくて居心地が悪くなり、緊張して目がちかちかして焦点が合わなくなって、自分のサイズも測らずにいつも適当なものを買って急いで逃げていた(自分の下着を買うために友人知人につき合ってもらうのは論外である)。世のなかの凡庸なシスヘテ女性の経験はわからないが、新しい下着をつける自分を想像してうっとりぼんやりぼーっとしているのかもしれない。
やがて通販雑誌ができ、わたしもじっくりと落ち着いて購入することができた。20後半でブラジャーよりもタンクトップのほうが断然楽になり、それ以来つけていない(いまはキャミソールなる下着が爆誕して身体が楽になるという女性が増えた)。30代半ばでナベシャツを着て、ブラジャーより窮屈な感じもしたが、Tシャツを着て胸が平らになり、より解放感を得た。同時に、トランクスを履いた。トランクスは股に食い込むから前綴じボクサーブリーフを気に入っていまも履いている。
いまなら女性用下着を吟味してサイズを測ってもらい、ワコールなんかの「天使のブラ」を買うだろう(2024年11月末日現在ワコールのブラをチェックしたら、人気1位は「マッチミ―ブラ」だった)。ついでに通販で付け髭も買うだろう。付け髭とブラジャーをつけたわたしは「化け物」として恐れられるだろうが、わたし自身は何も変わらない。
そういうわけで、わたしは「コスプレ」の快感が理解できない。「違う自分になれる(なりきる)」のは服装やヘアスタイルや化粧のおかげではない。皮膚の外側で何かを転轍機にして別人になり、違う人格の演技や憑依をするわけではない。生まれ変わらない限り、自分は自分である。一生かかっても、他人にはなれないのだ。
かといって、皮膚の内側を改良することにも抵抗がある。わたしはノンバイナリーだがトランスジェンダーではない。生まれたときに割り振られた性別が嫌だからといって、身体(性器や見た目)をもうひとつの性別に変えることはない。世のなかには女と男しかない貧相な性文化なので、トランスジェンダーになる人もしょうがないと思っているが、わたしはやらない。第二次性徴ははるか昔あったが、すでに性別がわからなくなっているので、身体はこのままでいい。社会的性別に違和はあるが、身体に違和はないから大丈夫だ。問題なのは「社会」のほうだ。
女性も男性も、個人として応対するなら平気だが、集団になると途端に逃げだしたくなる。女性の「おしゃべり」や「愛想笑い」を、わたしは絶対したくないし、男性の「エロ話」や「体育会系文化(あるいは同調圧力)」にも辟易する。そもそも「女性同士」「男同士」「女らしい・女らしさ」「男らしい・男らしさ」という決まり文句も虫唾が走る。この場にいる者を勝手に性別で分けないでほしい。横暴すぎる。
三橋順子『歴史の中の多様な「性」』のなかで、「女装者」を次のように分類している。
1)生業&女装
2)生業&女体化
3)非生業&女装
4)非生業&女体化
「コスプレ」と「セクシュアリティ」のあわいに、というテーマだが、短く終わってしまった。邪推ではあるが、どちらも「フェティッシュ(性的代替物)」な感じがする。わたしだけの経験では物足りないから、有名人も引っ張り出しておこうと思う(そのための有名税だ)。
次の更新予定
『ノンバイナリー』を読む、そして書く コンタ @Quonta
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