風を食む灰

八木沼アイ

遺書

  私は、池の中で四肢を広げる蛙を眺めていた。

雨に体を打たれ、痛覚からの外界的な痛みではなく、体の内側からのドロッとした粘り気のある痛みだった。正解を探していた。この三年間、それが正しいと信じてやまなかった。だが、あの数秒で、不正解を貼り付けられるとは思いもしなかった。絶望、そんな生易しいものではない。苦しい。むしろ、酷な妄想を喉に詰まらせ、息ができなくなる。

 私は傘を差しながら、めいいっぱい手足を広げ、ピクリとも動かない蛙を眺めていた。


 「何を見ているんだい」

 「なんでもありません」

 「・・・そうか、じゃあ、行こうか」

 傘を畳んで、おじさんが呼んだタクシーに乗り込む。

「さっき電話した場所までお願いします」


 私とおじさんの間に沈黙が流れる。両親の葬式は、滞りなく進み、準備した喪服も、役割を果たして満足げだ。肩が少しばかり濡れていて、泣いているようだった。


「なぁ、これからどうする」


おじさんは、私に気を遣っている様子だ。分かっている。両親をなくした子どもになんて言葉を

かければいいなんて、大人でもわからないだろう。明確な答えはあるのだろうか。


「これから、ですか」


 正直、今の私には、これからという漠然とした未来を考える余裕はなかった。


「少し考える時間をください」

「それもそうだな、十分に考えるといい」

 おじさんはそう言うと、窓に目線を預けた。お互いの沈黙に了承はいらない、そんな雰囲気だった。タクシーは進む。


 幼少期、父にはあまり良くしてもらった記憶はない。生みの親である母にいたっては私を生んですぐに亡くなった。二人目はすぐに離婚し、三人目は今日、父と一緒に灰になり、同じ墓に眠っている。私は父方の祖父母の家で人生の大半を過ごした。我ながら振り返ると酷い経歴である。


 おじさんは祖母の兄であり、独り身だ。だからか、私を我が子のように扱ってくれる。嬉しいが、残念なことにその優しさは、私の心に空いた穴は埋められなかった。


「そういえば、お前のお父さんから手紙を預かっていてな、お前宛だ」

 おじさんは懐から白い封筒を出して、私の前に差し出した。ありがとうございます、と言ってその封筒を受け取り、開けてみると、手紙のようなものと同時に鍵が落ちてきた。手紙の内容は、紙の大きさの割に案外短いものだった。


「遺書。この鍵を、一回の時計の裏に箱がある。同封した鍵を使って、その箱の中身を確かめろ。お前に伝われば幸いだ」


 これで遺書は途絶えていた。私は鍵を握りしめて、家に向かうタクシーに鞭を打ちたい気持ちをウズウズと抑えていた。私は一筋の光も通さない曇天を、窓から眺めた。

 先日の不幸のことは、あまり考えたくない。葬式のことではなく、学校でのこと。私は三年間、定期テストに精力を注いできた。その結果、評定は5.0中、4.7。私にしてはよくやったほうだと思う。だが、そんな頑張りも虚しく、志望校の推薦は得られなかった。その日は不幸に好かれていたのかもしれない。タバコの不始末によって起きた火事、一棟が全焼し、死者二名。帰ってきたら、家が消火活動にお世話になっていたのだから、私は絶望にも好かれていた。近所の人が群を作り、何やら話し合っている。彼女らが私に気づき、近づくと、涙ながらに語ってくれた。

「ああ、こんな若くに両親をなくすなんて、可哀想に」

 後ろの二人もそれに続いて相槌を打つ。私はそこで初めて、両親の死を知った。ショックはさほど受けなかった。ただ、両親の喪失という事実が重くのしかかってきて、これからどうしようという不安だけが、私を苦しめた。忌憚のない感想を述べるなら、クソみたいな日だった。

 一体私が何をしたというんだ、と神を憎むべきか。いや、振り返ってみれば、私は神を憎む資格すら無い。


 浮気相手になった。私は、彼氏持ちの、字面にすると酷いな。私のしたことは、倫理的にはアウトで、善悪で区別するなら純粋な悪である。私は彼女に執着し依存していた。彼女は私がほしい言葉をいつも言ってくれる。おまけに、私の理想とする偶像に瓜二つなのだ。もう仕方がないだろう。これで理性を保てる人間がいるのだとしたら、私はぜひ会って嘘発見器をそいつにつけて対話をしたい。音が鳴るたび、気まずい表情を浮かべるであろうその状況は、暇ではないことは確かである。


 客観視はできているつもりだ。ただ、私のエゴで、理性の抑制が甘いせいで、このようなことになってしまった。誠意のある人が好き。彼女はたしかそういっていた。口ではそう言っても、誠意のかけらもないことを幾度となく行ってきた。驚くべきことに彼女は私に初めてを捧げたのである。信じられるだろうか。いくら彼氏に愛想を尽かし、しかも付き合っているという状態を続けておきながらも、私と行為に及んだのだ。彼女の示す誠意とは何だったのか。鏡を見てほしいものである。私も人のことは言えないが。


 そういえば、私は彼女のことを本当に愛しているのだろうか。たしかに理想像ではあるが、時々、話題についていけないことがある。彼女は少し変で、普通とは言えない感性を持っている。例えば、私と遊んでいる状況とか、星座や雑学に詳しかったり、変なガチャガチャを回すのが好きだったり。私はそこが受け入れられない。本当に愛していれば、それすらも可愛らしいものだろうか。口では、好意を言えるが、その内に秘めた真意はわからない。卒業か、近いうちには関係を切られるのだろうと考えると、心に少し寂しい風が吹き抜ける。だからこそ、この期間限定品に希少価値を見出しているのかもしれない。いずれ、いや結構早い段階で冷められるのだとすれば、思い残すことを果たしてしまえばいい。そんな考えの下、私はアダムと同じものを食べたのだ。

 ハグをするとその日のストレスの約3分の1が解消されるらしい。だから、私は思う存分活用した。思い出したくもないが、そんな日々が続けばいいなと愚かな希望的観測を抱いていたことに関しては否定できない。


 吐き気がする。吐き出したい、整理したい感情は私を追い抜き、それよりも前に現実を直視させる。その後に感情がこみ上げ、私を貶しては殴る蹴る。そこから先はありとあらゆる暴虐が許されているのだと知る。禁断の果実を食べてしまった人間に訪れる不幸は、このようなものなのだろうか。私は弱冠18歳という年齢で経験してしまった。あまりにも早く、脆く、未熟で情けない話だ。そう思うことにした。まだ酒に酔えず、タバコにも甘えられない。そんな年齢に、こんな現実を押し付けてくる世の中に、憎しみを抱かずにいられるだろうか。私の物理的な部分と、精神的な部分が乖離して、どうにかなってしまいそうだ。私の状態は、自暴自棄に近い。


 タクシーを降りてもまだ天気は雨模様を示していた。

「おじさんは買い物にいってくるから、何かあったら連絡してくれ」

「わかった、じゃあね」

「ああ、いい子だ」

 そう私に言い渡すと、ドアが閉まり、砂埃が舞い上がらない天気の中、気づいたらタクシーは小さくなっていってしまった。私は一つの目的のために歩き始めた。

 家の庭に生えている草木が私を見下すと思ったら、反って同情するかのように、傘に余らせた肩に向けて何粒かの雫を落とす。その様子は涙を流していた親戚と姿が重なった。


 私は遺書の内容の通り実行することに決めた。まず、一階の時計を探すことにした。だが一階の時計といっても、リビングにしか時計がない為、すぐにその時計だと分かった。椅子を運び、その上に乗って、丁重に時計を降ろす。机の上に置いて、とりあえず深呼吸をした。チックタックと秒針が動く音が聞こえる。慎重に時計を裏返すと、そこにはパネルがあった。初めてパネルの存在を知ったが、そのパネルを外すと、古びた鍵穴が待ち構えていた。本当にあったのかと、妙に感心し、封筒の中にあった鍵を握る。手の震えが、鍵の挿入を邪魔し、両手で抑えながら、何とか鍵を回した。カチッと、そのまま、鍵をドアノブのようにして引くと、箱の中身が見えた。目を凝らし、手でそれを取ると、どうやら手紙のようだ。しかもこの字、遺書の字と全く一緒。ということは父のもので間違いないだろう。


「今まで苦労をかけて済まなかった。これは何かあったときに使ってくれ、俺の信頼できる友人の住所だ、話を聞きたいと言えば、通じるはずだ」


 綴り終わった手紙の下には隣町の地名と数字の羅列が並んでいた。私は残された手紙を頼りに、次の日にでもすぐに行こうと思った。しかし、事前連絡もなしに突然来られても迷惑だろう。住所の横に添えられた電話番号、かける他ないな。受話器を手に取り、ポチポチと番号を押す。かかった。


 「...もしもし」

 「どうも、単刀直入で申し訳ないんですが、亡くなった父の、信頼できる友人と手紙に記されていて、電話を掛けた次第です」

 「...ああ、あいつの子どもか」

声がワントーン暗くなったような気がした。

「明日休みだが、うちに来るのか?」

「はい、とりあえずお話をお聞きしたくて」

「そうか、わかった。じゃあ明日の12時に来てくれ」

「わかりました、ありがとうございます」

「はいよ」


 電話が終わったあとも、受話器を離せずにいた。私にはまだやるべきことがある。

 これが終わったら私は。

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