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オークションにおける美術品の最高取引額は、レオナルド・ダ・ヴィンチによる『サルバトール・ムンディ(世界の救世主)』の4億5000万ドルである。羽角を持つ“梟”が木槌を鳴らす。
「秘密の部屋から持ち出されたミケランジェロの手稿、1億750万ユーロ、売却です」
フィレンツェのメディチ家礼拝堂下でミケランジェロの隠し部屋が見つかり、公開されたのは近年のことだ。壁に描かれたデッサンは知られているが、手稿まであるとは聞いていない。しかしテアトロンとスケーネ背後四方に設置された大スクリーンで主要ページを映し出し、解説までしてくれるので、売買しなくても出席するだけで充分価値のあるオークションであると思う。テアトロンからも感嘆の声と拍手が上がる。
一方で、理解も価格も追いつかない取引がある。高分子構造デザインに関する取り決め、レアメタル鉱床の調査書(これは興味があったが、中核になる情報は公開されない)、ニューロネットワークの新モデル、大企業の談合と価格コントロールスキャンダル、サイバー攻撃の技術書(もし自分に開発能力があったとして、ここで売ったら一攫千金どころではない)、大規模汚染の隠蔽……人身や生体の売買は無いが、これらを悪用すれば何千何万の人命と生活と環境が脅かされるだろう。
今回出席している10人のコロスたちは微動だにしない。『愚者の仮面』だけは美術品や装飾品の出品になると時々嬉しそうに肩を揺らしているが、モンスター男はだらりと腰掛けてつまらなそうである。リヴィオはまた、彫像のごとく沈黙している。舞台のほぼ中央に座して、銀の雲が影を差し、輪郭を滑る光彩が涙のように艶やかで、エウローペーを攫ったゼウスの気持ちなど分かりたくはないが、そんな気分になってしまいそうだ。
「次は新型ドラッグの生産と流通に関する不透明な資金の動きついて、某国事業家の関与を示唆する一連の資料。4500万ユーロから」
立会人のよく通る声に、俺は我に返って腰を浮かせた。やはりここにあった。今回の選挙を覆す切り札。近年社会問題になっている新型ドラッグが隣接する国々や第三国から密輸されており、取り締まり強化と関税障壁の再導入を訴えているのが対立陣営であるが、実はそのうちの主要人物が違法製造と流通に関わっているという証拠が。
「6000万ユーロ。あの男に宇宙開発事業で主導権を握られるわけにいかない」
「6500万ユーロ。規制緩和だと? 無秩序の間違いだろう」
テアトロンからも幾つか挙手が見られる。購入すべきか否かという選択を迫られることは想定外である。俺は存在の有無を調査にきたのだ。それが今目の前で競りにかけられると、この機会を逃せば永久に隠されてしまうのではないか、という焦燥感に駆られる。焦燥? それよりもタチが悪い。選挙で負けようが、こちら陣営が物理的な損害を被るわけではない。武力を以って争っているわけではないのだ。けれどあのために苦しんだ人々が確かにいて−低賃金と暴力に怯えて働かねばならなかった者と、中毒と借金と繰り返す犯罪行為を、救うことなどできはしないが、無視できるほど強くもない。俺もぎりぎりのところで生きてきたから、少しは分かる。ハンナとメリクは似た臭いがする。汚泥の中で、願っている者がいる。誰か、俺の名前を知ってくれ。触れてくれるだけでいい。
「あれが欲しいのか」
震える喉からは声が出ない。大体金の手当ができないではないか。こちら側陣営が7000万ユーロも払うものだろうか。闇オークションの価格は一般的な価格判断とは相容れない。臓腑はじりじりと焼かれるが、全身は刻まれるように寒い。俯いた俺の肩を叩いたのは、モンスター男だった。覗き込んでくる異形の頭が、人間臭くてグロテスクだ。笑っている。
「僕にとっては暴露されたところで痛痒でもない。資金が要るか? 協力できるぞ」
君の債権をちょっとだけ僕に売り渡せ。いいだろう、リヴィオ。話を振られたリヴィオはこちらを見る。黄昏の光のなか、オリーブ色の瞳が遠い雷鳴の轟くようで、俺は畏ろしさにひれ伏したくなる。
「取引は自由だ。勝手にしろ」
「君の分の1割を2億で引き取ってやる。現金払いだ」
傍らから溜息が聞こえた。『京劇面』が前方を向いたまま「足元を見ているな」と呟く。俺がゼノから譲られたニケの首の債権が、その1割で2億ユーロよりも高額に評価されるとしたら、ニケの首の値段は一体幾らだというのだろう。俺は喘いだ。打算する思考よりも、感情が処理しきれない。ゼノ、教えてくれ、俺はどうしたらいい。
「失礼します、お電話です」
若い“梟“が一人、俺の前に腰を折る。よく教育された動作は本物の鳥のようだ。個人の携帯電話が持ち込めないのはGPSのためであって、中継所に集められた携帯電話にかかってきた通信は、レシーバーに再送され会場で受け取ることができる。ぎくしゃくとする腕を叱咤し、礼を言って取り上げる。
(ベネット! どういうことだ、どこにいる)
マリクの珍しく激しい声音が耳を打つ。
「すみません、繋がりにくい場所にいますが、俺は無傷です」
(中止だ。党最上部と“O“からの指示だ。接触の後を残さず戻ってこい。できるか)
「ですが」
命令には従わなければならない。反論の余地は無いし、反論するだけの実績も実力も無い。俺は劇場を振り仰いだ。何百という偽の目が見ている。勝者になるために、敗者のいないユートピアをつくるために、集ったものたち。
「……すみませんが、俺は降ります」
なんとか声を絞り出すと、モンスター男の機嫌はあっという間にしぼんだらしく、肩を竦めて席に戻っていった。“梟“は受話器を引き取り、俺とリヴィオに一礼して立ち去る。間際にリヴィオの口角が僅かに歪んだのを、俺は見逃さなかった。
琥珀に映ったような空に、
「貴様のホテルまで送らせる。招待状は届けてやるが、次回以降は好きにしろ」
惚けて座ったままの俺に、リヴィオは僅かに情の溶け出した冷ややかな声をかけた。明日のフライトで帰国しなければならない。俺は俺の勝利の女神を仰ぎ見る。この海の底から、この島の土から、何千何万という無名の命が、あなたの名を詠う。
ニケの首 田辺すみ @stanabe
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