コヨミノウエデハ

葉月氷菓

二月の朝

 朝目覚めると、腕が一本増えていた。

 起き抜けに異様な窮屈感を覚えて身をよじると変な引っかかりがあることに気付き、布団の中でもぞもぞとスウェットを脱ぐと、あった。右脇の少し下。三本目の腕。「おお」と私は感嘆を漏らす。驚きもあったし気持ち悪さもあったけど、次第に便利じゃんって感想が頭をもたげてくる。わきわきと指を動かして感覚を確かめていると二つの目覚まし時計が次々にけたたましく鳴ってびくりと身体が跳ねた。右手と左手それぞれを使って目覚ましのボタンを押して騒音を止めると、次にスマホのアラームが不快に鳴り響く。そこで私はためしにみっつめの手を使ってスマホを持ち上げる。充電ケーブルを引き抜き、画面をタップしてアラームを解除する。物を触ってみた感触からして、利き手と同じような感覚で扱えそうだ。右側についてるからそうなのかな。そのままスマホを触っていたら、思わぬ躓きがあった。私のスマホは指紋認証式なので、ロックを解除できなかったのだ。そりゃあ指紋も違うよねと苦笑する。スマホを一腕に持ち替えて(右腕が二本あるので元の右腕を「一腕」、左腕を「二腕」、今朝生えたばかりの腕を「三腕」と呼ぶことにした。我ながら順応が早い)、今日の天気やニュースを確認する。天気は曇り。気温は物凄く低い。ネットニュースではどこかの腕時計店に入った強盗が捕まったと報道がされている。

 もしもいま私が凶悪事件の犯人になったら、手錠はどうするのだろうと一瞬考える。三本腕用の手錠が用意されるはずなんてない。二本の手錠を用意して、それぞれ一腕と二腕、二腕と三腕を繋げばいいだけなのだから。しょうもない思考に三分を費やしてから、そろそろベッドから起きなければという焦りが生じる。仕事に行かなければ。けれど全身が重たくて、脳がそれを拒否しているみたいだった。今日に限らず毎朝起きるのがしんどいけれど、今朝は特段に辛い。たぶん腕が増えて物理的に重いのと、身体の組織が増えた分、血液の巡りが悪くなっているからだろう。今日は火曜日。こんなに辛いのにあと四日も続けて出社しなければいけない。四日も続けて失望の視線を向けられなければならない。四日も続けて上司のため息を聞かなければならない。

 もしかして腕が三本ある今なら、少しは器用に仕事をこなせるのだろうか。一腕と二腕(「両手」って呼び方はもうできないのが不便だ)でキーボードを打って提案書を作りながら、三腕で電卓を打ったりマウスを操作したり。妄想の中ではテキパキと仕事をこなすバリキャリごっこが捗るけど残念ながら脳みそは一個しかないのできっとそう上手くはいかず、もたもたと腕を持て余している私の姿が脳内で徐々に鮮明になってくる。

 実は腕が三本あったって大して役に立たないのではないだろうか。せいぜい今やってるみたいに一腕でスマホをいじり、二腕で眠い目をこすり、三腕の手櫛で髪を梳かすくらいのものだ。

 そもそも世の中のみんなは二本の腕だけで器用に、要領よく仕事をして生きているのが不思議でならない。みんなはいつどこで朝の辛さに、毎日のタスクの多さに、通勤電車に、上司の理不尽に適応して進化したんだろう。生きている年数は変わらないのに、いつの間に私は置き去りにされたんだろう。不出来な私という人間の腕が、たかが一本増えたくらいでは他のみんなに到底追いつけない。地球の自転についていけない。みんなの「当たり前」に追いつくには腕一本じゃ足りなくて、もっと進化しないといけない。

 スマホのアラームがまた鳴って心臓が痛いくらい跳ね上がる。スヌーズモードを解除し損ねていたらしい。どくどくと高鳴った心臓が血液を無理矢理全身に巡らせてくれたおかげで、ベッドから起き上がれそうだった。寝転がったままベッドの外に足を投げ出し、床を探す。そこでまた気付く。脚が四本ある。窮屈なスウェットの中で痺れたせいで感覚がなくて、いままで気付かなかったんだろう。三腕と二腕を使ってスウェットパンツを脱ぎ、一腕で体重を支えながら立ち上がってみると、二本足よりもバランスを取りやすくて楽に感じる。通勤電車で座れなくても、あまり疲れずに会社に辿り着けるかもしれない。

 ひょっとしたら他にも変化している部分があるかもしれない。よたよたと四足歩行でドレッサーに近づき、鏡に映った自分を見る。三本の腕と四本の脚。それ以外に変化はなさそうだった。これじゃあ通勤電車がちょっと楽になって、キーボードを操作しながら電卓を打つだけの人だ。私に足りていないのはそういうのじゃない気がする。まだ到底普通の人に届かない。

 寒くても早起き出来て、字を書き損じなくて、失敗に思考がぐちゃぐちゃにならなくて、心無い言葉を都合よく聞き流せて、嫌なことがあってもトイレで吐かなくていい、そういう身体が足りていないんだ。

 と思ったら、私の頭の後ろに何かが生えているのが目に入った。恐る恐る首を傾けてみると、そこにはもうひとつの顔があった。私と同じ顔だ。頭部だ。何故今まで気付かなかったのだろう。きっと、もう一つの頭も朝が弱くてたった今目が覚めたんだろう。

 頭がもう一つある。つまり脳がもう一つあって、目と耳がもう一対あって、口と鼻がもう一つずつ。脳が増えれば思考が二倍速くなって、目と耳が増えれば注意深くなってミスは減り、口が二つあればもう少し弁が立つようになるかもしれない。でも鼻は別に余分には要らなかったんだけどな。花粉が余計に辛くなるし、呼吸も一つの鼻と二つの口があれば十分……っと、見間違いだった。もう一つの顔の方には鼻は付いていなかったみたいだ。

 これだけあれば世界に適応できるだろうか。けど億劫だ。顔が二つあると化粧の手間も二倍に増えてしまう。まあ腕の方も三本になった訳だから、正確には一・三三三……倍だけど。歯磨きの手間も増える。いや、もう一つの口で食事をしなければ歯を磨く必要はないか?

 ここまできたら、いっそ翼でも生えていないだろうかと期待して、背中を鏡に向けてみる。肩甲骨のあたりがむくりと盛り上がっていて、これは羽が生えてくる予兆ではなかろうかと思う。翼があれば、通勤も楽しくなるかもしれない。けど実際に翼で飛ぶのってすごく疲れるだろうし、何キロも飛んだ後に一日中仕事をするというのは現実的じゃないかもしれない。それに冬の寒空の中で飛ぶことを想像するだけで身震いする。遊ぶにはいいかもしれないけど、意外と要らないな。よく見たら肩甲骨の辺りは別に普段と変わりなく、翼が生えてくることはなさそうだ。


 改めて鏡で全身を眺めてみる。二つの頭と、三本の腕と、四本の脚。たった一晩でものすごい姿になってしまった。「普通」と私とのズレを埋めて、社会に適応するにはこんな風にならないとおっつかないんだ。

 ああ、服はどうしよう。今ある服はもう今後着られない訳だから、いっそ三腕を通すための穴を開けてしまおうか。首回りがゆったりした服なら、二本の首も窮屈はしないだろうか。四本脚はロングスカートを穿けばなんとかなる気がする。この姿を見て会社の人たちはびっくりしないだろうか。最初は驚かれるかもだけど、ただの社会不適合者よりも異形のバリキャリの方がたぶん歓迎されるんじゃないだろうか。そう思うと少しだけ力が湧いてきた。四つの脚で立ち上がり、一腕でスマホを持って、二腕で自室の鍵を開け、三腕でドアノブに手を掛ける。前首の口が溜め息を吐いて、後ろ首の口が咳をする。部屋を出たら、普段の一・三三三……倍手間のかかる洗顔と化粧をして、念のため両方の歯を磨こう。あ、靴はどうしよう。靴下もだ。前足と後足で違うものを履いていたらやっぱり笑われるだろうか。今日だけは急なことだから、見逃してもらえるだろうか。


 自室のドアを開くと冬の冷たい空気が吹き込んできて、無意識に私は両手で自分の身体を抱いた。両手?

 よく見たら私の腕は三本じゃなく昨日までと同じ二本しかなかったし、同様に脚も四本じゃなくて二本だった。後頭部を触ってみると二本目の首なんてなくて、そこには朝起きられなくて、通勤電車が辛くて、要領が悪くて、頭の回転が遅くて、注意散漫で、書き損じばかりで、うまく喋れなくて、失敗して頭がぐちゃぐちゃになって、いつもトイレで吐いている私が居るだけだった。

 休みたい、と頭の中で唱えながらリビングに行くと母親が下着姿の私を怪訝な面持ちで一瞥して「遅刻するよ」とだけ言った。

 声が出なくて、口は半開きのままで、 重い首を動かして部屋を見回す。

 テレビからアナウンサーの溌溂とした可愛い声が聞こえてくる。まるで陰気な人間は罪人だと言われているみたいで、言葉が脳を上滑りしていく。私を通り過ぎていく言葉の中で、ある一文だけがいやに鼓膜に張り付いた。こんなに寒いのに、暦の上では季節はもう春なのだという。廻る季節に私だけが取り残されて凍えている。

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