君が代変奏曲

野栗

君が代変奏曲

 「国歌、斉唱」


 ひと呼吸。


 前奏。


 レー ドー レー ミー 

 ソー ミー レー


 長めの休符。


 レー ドー レー ミー

 ソー ミー レー


 歌い出しのメロディを追って、周囲をうかがうように歌声がさざ波を起こす。


 さして難しい楽譜ではない。

 難しいといえば、毎年卒業生が合唱することになっている定番の式歌の方が、よほど骨だ。


「内藤先生、ご苦労様」


 六年の学年主任が、卒業式の予行を終えてピアノの上の楽譜を片付けている内藤律に声をかけた。


 小学校の音楽専科とか図工専科とかいうのは、だいたいどの学校も一人だけ、というのが相場だ。


 卒業式のピアノ伴奏も当然、音楽専科の役回りになる。


   ***


 予行前日。

 内藤律の在職する○○区立若松小学校の音楽専科のもとに、田舎の病院で療養中の父親の、危篤の報が舞い込んできた。


 律はピアノの心得があるとはいえ、しょせんは総合大学の教育学部音楽科出身だ。音大でみっちり楽典やピアノを叩き込んできた専科とは、いわば月とスッポンというやつだ。

 しかし、校長副校長を含む他の先生たちから見れば、それはもう十把一絡げの「音楽の先生」だ。

 若松小学校の「みどり学級」に配属されたばかりの頃。律が朝の会の歌を教室のオルガンで練習していると、音楽専科が入り口からひょいとのぞき込んできた。


「あら、元気いっぱいでいいわね」


 と一言いうと、返事も待たずにさっさともと来た方向へ戻っていった。


   ***


「内藤さん」


 音楽専科は卒業式の楽譜の入った引き継ぎのファイルを律に寄越してきた。律は、校長から受け取った、卒業式でピアノ演奏を命ずる新しい職務命令書を見せた。

 音楽専科は命令書の名前が律のものになっているのを確認すると、声をひそめてささやいた。


「あのさ、墨谷東高でさ……」


   ***


 墨谷東高の卒業式の翌日、疲れたおももちの校長が朝の打ち合わせで真っ先にこう報告していた。


「墨谷東高校の卒業式で、服務事故が発生しました。非常に残念なことです。先生方は職務命令に従い、厳粛で思い出深い式となるよう、引き続き努めて下さい」


 打ち合わせが終わるや、校長は音楽専科のところに近づいて、校長室に来るよう固い表情で告げた。周囲の先生たちは


「何だろうね」


 と釈然としないおももちでささやき合った。


 翌日、小さな独立組合の組合員で、この春定年退職を迎える家庭科のオバハン先生が、臨時の組合ニュースを配布した。

 いつもは組合ニュースなんか、見出しだけチラッと見て紙くず入れに放り込むのだが、記事が音楽教員のことだったので、律は隅から隅までひととおり目を通した。裏返すと、ご丁寧に問題の楽譜まで載っている。

 律は、紙くず箱に入れようとしたニュースを、何となく自分の楽譜ファイルに挟み込んだ。


   ***


「墨谷東高のこと、木下先生のあれで見ました」


 律はちらっと職員室の向こう側で慣れないパソコンに向かうオバハン先生の方を見やった。


「びっくりしちゃうわよねえ。卒業式でさ、君が代をジャズアレンジで弾くなんて」


「私もびっくりしました」


 墨谷東といえば、この辺ではそこそこ「いい学校」で通っているはずだ。


「私、校長に呼ばれてこの話を聞いたんだけど、何だか痛くもない腹さぐられて。私、そんな思想みたいなものないし、不正常な演奏なんてするわけないじゃない。あーあ、やだやだ」


 音楽専科はいまいましげに首を横に振った。


「内藤さん、東高の音楽専科って、木下のオバハンと同じ組合なのかしら? ……まあどうでもいいけど」


 音楽専科はファイルをとん! と整えると、律の前に突き出した。


「まさか、変なこと考えてないわよね」


 音楽専科はにやにや笑いながら右手の人差し指で自分の頭を指した。


「私、そんな思想強くないです」


「うんうん、あなた全然そういうタイプじゃないもんね。……じゃ、安心だ」


 音楽専科は


「これで全部だから、あと、よろしく」


 と言うやあたふたと職員室を出ていった。



   ***


 卒業式の予行が終わり、給食を食べた子どもたちが下校したあと、職員室で反省会が行われた。


「内藤先生、急なお願いで……」


 卒業式担当の先生が律をねぎらった。昨日の今日のことで、一番の難関の式歌は音符をたどるので精一杯だった。六年生たちには、音楽専科とのあまりの違いに戸惑わせるようなことにならないよう、律は頭の中で演奏のシミュレーションを繰り返した。


 式の進行を振り返りながら一通り反省が終わったあと、校長が立ち上がった。


「ご存じの通り、先日行われた墨谷東高校の卒業式で、服務事故が発生しました。先生方は職務命令の遵守と、厳正かつ清新な式の進行に引き続き努めて下さい」


   ***


 仕事を終え玄関に降りると、組合のオバハン先生と鉢合わせした。


「内藤先生」


 目を反らしたが、無視はできなかった。


「ピアノ、しんどかったら無理せんでええんでよ」


 東京暮らしの方がはるかに長くなっても、一向に直らない関西なまり。


「いや、弾くのが仕事ですから。職務命令出てますから」


 律は木で鼻をくくったように答えた。


「ほうで。ほなけんど、音楽って、人に強制するもんとちゃうんちゃうで?」


 何言ってんの、このオバハン?


「別に強制とかありませんし、それで私が変わるわけじゃありませんし」


 律は下駄箱のふたをぱん! と開けてスニーカーを取り出した。


「先生がそない思うとるならええんやけど。職務命令って、歌いうんは誰かに命令して歌わせたり、誰かに命令されて歌うもんやろか?」


 しつこい。


「私、難しいことよくわかりませんから」


 律はさっと靴を履き替え、走るように校門を出た。


 校門のわきの桜が二、三輪、まだ冷たい早春の風をものともせず、梢の先で柔らかい花びらを広げて揺れていた。


   ***


 卒業式当日。


 黒いスーツの襟元にコサージュをつけた律は、ピアノの前でしんしんと冷えこむ両足をそっとこすり合わせた。体育館をちょっと甘く見ていた。厚手のストッキング、なんならタイツにすればよかった――そんなことをとめどなく考えているうちに、聞き慣れた入場曲が、音源から静かに流れはじめた。


 カノンの調べの中、六年一組から順に卒業生が入場してきた。


 拍手。


 最後に緊張した顔つきで入ってきたのは、「みどり学級」六年生の五人の子どもたちだった。ピアノの前の律を見つけると、にっこり笑ってひらひらと手を振った。

 律はしばし足の冷たさを忘れて、そっと手を振り返した。


 副校長がマイクの前に進み出た。


「これより、○○区立若松小学校 第×回卒業証書授与式を挙行いたします。皆様ご起立下さい」


 椅子を動かす音。


「国歌、斉唱」


 静寂。


 前奏。


 レー……


 律が一オクターブ離れた白鍵を左右の指で押したとたん、突拍子もない歌声が上がった。


 来賓席だ。


「きぃー、みー、がーあーよー、はぁ……」


 還暦過ぎの町内会長が、耳元を赤く染めて力一杯歌い始めた。


 ……え?


 伴奏通りの音程でも、オクターブ下でもない、独特なリズムと音程。


 みどり学級の子どもたちが……いや、体育館のそこここで、フライングした町内会長につられた数人の子どもたちの歌声がさまよった。


 町内会長につられた子どもたちの声と、約束通りの出だしで歌い始めた子どもたちの声が、輪唱のように追いかけっこを始めた。


ちー、よー、にーいい、

ちー、よー、にーいい、

やーちーよーにー……


 音程がダッチロールを始める。


さー、ざー、れー



 律のピアノが、音を外した。


 ままよ! とピアノから両手を外すと、律はさまよう歌声が収まるのを待って、最初から弾き直した。


 レードーレーミー

 ソーミーレー


 重々しいテンポが、知らず知らずのうちに♩=80近くまで早まる。


 しまった! 

 もう止められない。


 アップテンポ気味の君が代を、律は何とか弾き終えた。


 校長は自席で険しい顔をしていた。


   ***


「内藤先生」


 式が終わり、体育館の片付けをしている律のところに、校長がつかつかと寄ってきた。


「校長室に来なさい」


 律は足早に体育館を出る校長の後を追った。


「あなたは、何故ここによばれたか分かりますか?」


 だしぬけに尋ねられて、律は目を泳がせるばかりだった。


「来賓の方から、ピアノがひどいとお叱りを受けました」


「……」


「やはり、あなたには卒業式のピアノを任せられるだけの力量が欠けています」


 無茶振りをしておいて。


「そのへんは多分にあなたの資質から来るものですから、私は如何ともし難い部分だと思っています。ですから今後、式のピアノは全て林田先生に担当してもらいます」


 言いたいことは、これだけか。


「林田先生は明日から復帰です。お父様を亡くされて、気の毒なことです」


「……」


「来賓の方には、私と副校長で謝罪しました。ただ、今回のことは服務事故の可能性もありますので、そうなった場合、私たちはもう、あなたを庇うことはできなくなります」


 律の身体に冷たいものが走った。


「……それからあなたは、入場の時に手を振っていましたね」


 みどり学級の子どもたちのことだ。


「あなたはやはり、式典というものに対しての理解が欠けているとしか言いようがありません」


 子どもたちの微笑みに、手を振って応えることすら怪しからんというのか。


「あなたは今日の行いを振り返って、二度と同様のことを起こさないようにして下さいね」


 校長室から出ると、律は火照ったほほをそっと両の手のひらで包んだ。


「内藤先生」


 ふいに階段の上から、律を呼び止める声がした。


 オバハン先生だ。


「内藤先生、どないしたん?」


 律はこわばった顔をふいと反らすと、まっすぐにみどり学級の教室に入った。


 オルガンの蓋を開け、うろ覚えの曲をめちゃくちゃに弾いた。


 ♩=80の、ジャズアレンジ。


 頭の片隅にある楽譜。

 何の曲だか思い出せないまま、指の追いつく限界いっぱいまで速度を上げた。


 桜がまた一輪、綻びはじめた。

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