家蜘蛛イチロー

文鳥亮

第1話 完結

「あ、くそ!」

 フミオは新聞紙を丸めて叩いた。

 バシッ、「そっちか!」

 バシッ

 瀕死のゴキブリがヨタヨタと最後のあがきをする。

 バシッ

 もう動かない。新聞紙を拡げて死骸をすくい取り、ゴミ箱に捨てた。

 元中学教師の彼は、若い頃に剣道をやっており、腕におぼえがある〔つもりだ〕。それは害虫駆除には関係なさそうだが、確かに七十にしては動きが敏捷だった。


 しばらくして彼は「む、またか」とチラシを丸めて叩こうとした。

 しかし、寸前で手を止める。

「おっと、蜘蛛くもじゃないか。危ない、危ない」

 壁にいたのは七ミリぐらいの小さな家蜘蛛だった。彼は子供の頃から生き物が好きで、蜘蛛も好きである。

「ここにいると間違って潰すから隣の部屋に行きなさい」

 彼は左手でお椀を作って壁にあてがい、右手で追いたてるようにした。すると蜘蛛はぴょんと跳ねて、左の掌に乗った。

「よーし、いい子だ。よしよし」

 右手で蓋をし、隣の部屋にそっと運んで箪笥たんすの上に放してやった。

 このとき、蜘蛛の目玉がグリグリっとかすかな音をたててフミオを見た。その針先ほどの脳内にフミオの顔が像を結んだ。


 箪笥の上には小さな仏壇があり、位牌が二柱。手前には、妻の写真とともに一人息子の遺影が飾ってあった。その子はイチローといい、三十年前に悪質なひき逃げに会って早逝した。ちょうどそのころに、同じ名前の選手が活躍し始めた。フミオたちは息子が急に大きくなって帰ってきたように思った。二人はよく球場に出かけて応援したが、残念なことにその選手はしばらくして海を渡ってしまった。


 その後、例の蜘蛛はちょいちょい遺影の辺りや仏壇に出没した。実は、箪笥は安物で虫が湧いており、蜘蛛はそれを狩りまくっていた。飽食すると出て来て遺影のあたりで一休みする。それが日課だった。

 フミオはそんなことは知らず、単純に好感を持った。

「そうか、お前はイチローを好いてくれるのか。ありがとな。お前のことイチローって呼ばせてくれよ」

 なんだか息子が蜘蛛に生まれ変わったように思えた。彼は蜘蛛に会うたびに話しかけた。

「イチロー、元気かい。食べ物は足りてるか? エサをやりたいんだが、生餌いきえしか喰わんよな?」

 そのたびに蜘蛛の目玉がグリグリっと動いた。

 蜘蛛は十五ミリぐらいになっていた。箪笥の虫は喰いつくし、狩場を台所に変更した。狙いはゴキブリの子供だった。


「そういえば、最近姿を見ないな。大丈夫かな。おーい、イチローどこだ~?」

 しばらくすると遺影のそばに蜘蛛がいた。そんなことが続いた。

「おう、いたか。よかった。でもなんだかお前さん、でかくなってないか?」

 一瞬ゴキブリと見間違えた。このときは三センチを超えていた。蜘蛛は小さなゴキブリを狩りまくっていたが、まだ成虫は狩れなかった。


「うわっ!」

 しばらく見なかった蜘蛛が、十センチぐらいあった。こんどはカエルかと思った。

「おいおい、イチロー。なんでそんなにでかいんだ。お前さんはタランチュラなのか?」

 また目玉がグリグリっと動いた。蜘蛛は自分がイチローであることを知っていた。

 フミオが手を出すとブンっと頭の上に飛び乗った。よける間もなかった。

「うわわ! とげが痛いぞイチロー。しかし、いったい何を喰ったらこんなになるんかね。こりゃあ、わが家の七不思議だな‥‥‥」

 言いながら頭を下げると、蜘蛛は素直に箪笥の上に降りた。

 このころの蜘蛛は夜な夜なゴキブリの成虫を狩っていた。もはや台所では無敵だった。

 それからしばらく蜘蛛の姿を見なかった。ゴキブリもぱったり出なくなったが、フミオは偶々たまたまだと思っていた。


「おーい、イチローどこ行った~、生きてるか~」

 しばらくすると蜘蛛が現れた。なんと二十センチぐらいある。

「うわあ! ホントにでかいな。どういうことなんだ? でもお前の成長を見てるとうれしいぞ」

 彼は蜘蛛の背中をなでた。

 また目玉がグリグリっと動いた。蜘蛛はフミオの顔が分かるのはもちろん、声も分かる。脳も異常に発達していた。

 こんな生き物を見たら普通の人間なら卒倒するだろう。しかしフミオに恐怖はなかった。

「じゃあな、イチロー。また会おうな」

 お尻をそっと押してやると、蜘蛛はするするっと柱を登って姿を消した。

「え?」

 見ると天井板がわずかにずれている。彼の家は平屋の一軒家である。築五十年超のおんぼろで、天井裏にはねずみが住み着いていた。

「お前さん、まさかねずみでも喰ってるのかい?」

 言ってみただけだった。だが、そのまさかは当たっていた。


 ゴキブリを喰いつくした蜘蛛は、狩場を天井裏に変えた。

 ねずみは強敵である。力は蜘蛛より強いし獰猛だ。しかし蜘蛛の方が賢かった。ねずみは外と中を出入りしており、明け方に帰ってくる。それが眠ったところに上からバサッと襲い掛かる。そして瞬時に毒液を注入する。少し暴れるが、そのうちに動きを止める。あとは頭から噛み砕き、中身をしゃぶりつくす。これが近ごろの蜘蛛のご馳走だった。

 ねずみの断末魔やポリポリくちゃくちゃいう音がそれなりに響いていたが、フミオは耳が遠く、天井裏の惨劇など知らずに安眠していた。


 蜘蛛はとうとう五十センチを超えた。ねずみもとっくに喰いつくし、夜な夜な外に出かけるようになった。カエルはたくさんいるが不味まずいので大物を狩る。田園地帯なので野ねずみ、野犬、野良猫、タヌキ、アライグマなど、獲物は豊富にいた。蜘蛛は喰いカスを捨て、それをあさりに来る動物を待ち伏せした。毒も一段と強力になっていた。


 あるとき、フミオの家の軒下でひそひそ声がした。草木も眠るうし三つ時だ。

「ここは年寄り一人だとよ」

「金はあんのか?」

「さあな。でも痛めつけりゃ出すだろ」

 二人ともマスクで顔は分からない。星明かりを頼りに一人が勝手口の鍵穴に針金を差し込んだ。

 そのときガサっと音がした。相方が「待て」と背中に触れ、二人はじっと耳を澄ました。

 なぜか虫のんでいる‥‥‥


 バサッ!

「げぇ!」

「どうした!」

 針金の男が振り向くと、何か大きなものが顔にかぶさった。鋭い痛みを感じ、必死で払いのけた。

「ひいい、逃げろ!」

「待ってくれ。なんだか胸が苦しい」

 二人は夢中で逃げたが、意識がもうろうとなり、街道によろめき出たところをダンプカーにはねられた。そのダンプは平然と走り去ったが、一キロほど先で道路わきの廃屋ビルに激突した。運転手は即死だった。

 闇の中には、スキップしながら帰っていく蜘蛛がいた。

 警察は、悪質なひき逃げダンプが自損事故を起こしたと断定した。


 それから何日かたった夜明けごろ。

 蜘蛛は天井の節穴からじーっと覗いていた。フミオがすやすや寝ている。

 この二、三日狩りが不調で空腹だ。片目がグリっと音をたてた。蜘蛛は天井板を器用にずらし、フミオの上に飛び降りた。

 バサッ!

「うわああ!」


 フミオが跳ね起きると、ぱっと飛びのいた蜘蛛がまた乗っかって来る。

「なんだ、イチローじゃないか、おどかすなよ。ああ、びっくりした‥‥‥。それにしてもお前さん、でかくなったなあ。‥‥‥いったい何喰ってんだろうね、この子は‥‥‥」

 彼はいぶかりながら「よしよし、おいで」と両手で蜘蛛を抱き上げた。それは太ったネコぐらいの重さがある。しかも棘が鋭いので上手に持たないと怪我をする。

「俺はイチローがいてくれてうれしいぞ。お前は家族だからな」

 そう言いながら彼は何度も頬ずりした。


 蜘蛛も喜んでいた。グリグリグリっと目玉が動く。

 蜘蛛は前脚をフミオの肩に掛け、おもむろに大きな顎を拡げた。なんだか笑っているように見えた。



  — 了 —

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