ワニを捕まえた日

蛙鳴未明

ワニを捕まえた日

 興梠こおろぎショウジとの間には本当にいろんなことがあったけど、いつも思い出すのは五年前、ワニを捕まえた日のことだ。


 ※※※


「ワニ捕まえに行かない?」


 ザリガニ釣りへ誘うのと何も変わらない調子で、ショウジは言った。八歳だったらオーケーしたかもしれない。あいにく私は十八歳で、夏休み前最後の放課後にいた。夏期講習を目前にして、ぼーっとした幼馴染に関わっている暇はなかった。


「行かない」

「からかってんじゃないぜ。多摩川にいるんだ。ニュースにもなってる」

「いるからって行かないよ」


 やっと参考書を鞄に詰め終え、立ち上がろうとすると席に押し戻される。


「おいおい、落ち着け。ワニだぜ? わ、に。あのおっきくてごつごつしたやつ。捕まえない手はないだろ」


 きらきらした目が、今はひたすら鬱陶しい。ばっかじゃないの、と呟いて無理やり彼を押しのける。


「わっ……とと、待てよアケミ。アケミ、水下アケミさん? 俺にでっかい借りがあるのを忘れたか」

「何も借りた覚えはないけど」

「助けてやったろ。ほら、先週の生物……」


 戸を引きかけて立ち止まる……そういえばそうだった。塾の課題に四苦八苦していたら、いつの間にか授業が始まっていて、いつの間にか先生が目の前に迫って来ていた。あわやというところでショウジが質問して気を逸らしてくれたのだ。先生は内職に容赦がない。見つかればテキストは没収され、一週間は返ってこない。この借りは大きい。多摩川でワニ狩りに付き合わされても文句は言えない……かもしれない。そんな私の内心を見透かしているかのように、ショウジはにぃっと口角を上げた。


「決まりだな。明日、五時に河川敷で」

「え⁉ そんな急に――」

「ワニは朝のがとろいんだ。じゃ、そういうことで」


 理解が追い付かない一瞬の間に、彼はもう風のように去っている。廊下の先で手を振る背中に「はあ?」って言うので精一杯。むかむかと胃が熱くなる


 ──『ワニは朝のがとろい』? だからなんだ。意味不明だ。あいつはいつもそう。何考えてるかわからない。ぬらりひょんと一反木綿を足して二で割ったようにぬぼーっとしやがって……神出鬼没といえば聞こえはいいけど、その実ただの不審者じゃん


 ──その日の帰り道ほど、彼への悪口がはかどった時は無かった。久しぶりに帰ってあげようかと思ってたのに、と考えて、すぐその言葉にばってん付けて側溝へ捨てた。




 早朝の河川敷に、彼はいつも通りの制服姿で現れた。信じられないことに手ぶらだ。私を見るやいなや、うおっと叫んで目を丸くする。


「なんだそのかっこ。すげえな」

「こっちのセリフなんだけど」


 確かに鏡を見たとき、ちょっと気合を入れすぎたかも、とは思った。防水ブーツに長袖長ズボン。それに校庭みたいに広いつばの麦藁帽子を合わせ、おまけにサバイバルリュックには網が刺さってる。実際私は相当変だ。でも、夏休み初日に制服でほっつき歩くこいつには言われたくない。


「どうやったらそうなんだ?」

「仕方ないでしょ。だってワニと戦うんだよ? 怪我するかもしれない、変な虫に刺されるかもしれない、日焼けしたくない――全部考えたらこうなっちゃったの! あんたはなんで制服なの」

「めんどいじゃん」

「意味わかんない」

「なんだっていいさ。ほら、ワニ探しに行こう」


 彼は平気な顔で道端の段ボールを拾い上げ、青い土手をざあっと華麗に滑り下りていく。伸びた草にぴしぴし腕をたたかれて、くすぐったあい、なんて悲鳴を上げている。ったく、信じらんない。私は地道にざくざくと草を割っていくんだ。ぎざぎざの葉っぱも長袖が弾いてくれる。ほら、この格好の方がいいじゃん。




 一歩多摩川に足を踏み入れて、一刻も早く帰ろうと決意した。電気を流されたみたいな震えに


「お、武者震い? いい気合じゃん」


 とか言ってくるショウジに向かって思い切り親指を下げる。水に突っ込みかけて引っ込める。河原のそばは大浅瀬。それでも小さな子供なら、ふいとさらわれてしまうだろう。冷たい圧力に踏ん張って、長く伸ばした伸縮式の網を振り回す。


「いいか? くまなく、くまなくだぞ。まずは──」


 ショウジが言ってよこす通りに、端から端まで石をひっくり返し、何かが潜んでいそうな茂みをつついてみる。曲がりくねった多摩川の水は冷たくて、なんでも隠せそうなほど暗いけど、ワニはなかなか見つからない。藪から飛び出てくるのはよくて蛙。悪ければ虫の大群。きゃあっと思わず悲鳴を上げたら、ショウジがざぶざぶとすっ飛んできた。


「どした、なんか見つかった?」

「虫、虫があ」


 やだやだやだ! 乱舞する得体の知れない羽虫の渦を見上げ、「ほんとだ虫だ」と毒にも薬にもならないことを言うこいつはあほか。そういえば多摩川にワニを捕まえに行くあほだった。私はあほの片棒を担がされ、朝っぱらから虫に怯えているんだ。無性に悲しくなってきて、でも涙は出すまいと引き結んだ私の口、口に! なんで突撃してくるんだこの害虫! ああもうやだやだホント無理。悲鳴も上げられない。顔を無茶苦茶に振って地団太をざっぽざっぽ踏む。それでも虫は離れないし、あろうことか歩行を試みてるし、あほは「そんなにヘドバンしたら首抜けるよ」とか言ってくる。もうもうもう!


「ちょい止まって。無理? マジで一瞬でいいから――ほいきた」


 私はやっと思う存分悲鳴を上げ、河原まで駆け上がることができた。それを尻目に、ショウジはのんきに声を上げている。


「お、見たことないやつだ。ラッキー」


 アンラッキーはなはだしいよ、ばか。




 川をじりじり下っていく。太陽が高くなるにつれ、じわじわと気温が上がっていく。時計を見ると八時。水は冷たいままだけど、上半身はもう暑い。額の汗をぬぐっては岩をひっくり返し、ぬぐっては川底をひっかきまわし、私は何をしているんだろう。


 春に志望校のランクを上げた。あれから成績は上がっていない。それどころか、六月の模試は過去最悪の出来だった。自分では頑張っているつもりだったのに。父さんの声が、石の転がる音に交じって反響する。


『率直に言って、厳しいよ』


 かっちりした四角い眼鏡が水面に映った、そんな気がして網の柄を伸ばす。乱れた流れの下で、丸い石がくぐもった音を立てる……夏には追い込んで追い込んで、少しでも他の受験生に追いつかないといけないのに、なぜ私は多摩川で石をひっくり返しているんだろう。こんなことしてる場合じゃない。分かっているのに、太陽熱で身体を鋳型に溶かしこまれてしまったようで、私はワニを探すことしかできないでいる……ワニなんて、見つかりっこないのに。


 腰も頭も痛くなってきて、私はううんと伸びをした。空が痛いほど能天気に青い。まるであいつみたいだ、と深みを見やった。ショウジが膝下まで水に浸かり、制服の上下をずぶ濡れにして、私の半分もありそうな大きな石にとりつき、ワニはいないかと丹念に探っている。皿のように細められた目。真剣のような光を放っている。


 いつもぼーっとしてるくせに、なんで今日に限ってマジなのさ。それでワニは見つかるの。だいたい、ワニって石の下にはいないんじゃないの――そう言いたい気持ちを抑えて、私はがちがちがちと腰を歯車みたいに回して作業に戻る。虫のことを謝ってくれるまで口をきかないと決めたのだ。断固、決めたのだ。




「この辺にはいないかもしれないなあ」

「どこにもいないで――」


 私は慌てて「──しょ。何言ってんのあんた」を飲み込んだ、拍子にきゅうりの漬物が気管に突っ込み、げほごほえっほと何度も咳込んだからってそんなに背中叩くなばか。振り向いてにらみつけると、ショウジは栄養バーでいっぱいの口をもぐもぐしながら首を傾げた。彼の無言の問いを、私はぷいと視線を振って跳ね返す。自分で気付くまで口をきいてやるもんか。レジャーシートの皴を伸ばして座り直し、できる限りつんと澄ましてご飯を食べる。


「すげえよなあアケミは。ちゃんと弁当作ってくるんだもん」


 咳がぶり返した。


「なに急に。ほめたってなんも出な――あ」

「どした?」


 口を押さえたまま何も言わないでいると、ショウジは胡坐をかきなおす。栄養バーの袋は、いつのまにか器用に結ばれている。


「……出るも出ないも、すげえからすげえって言っただけだけど」


 すごくなんかないよ。卵焼きも、魚の塩焼きも、やってみると意外と簡単なんだ。今はパックのやつもあるし――とかなんとか頭の中で言いつのっても、空気の震度はゼロのまま。ショウジは空を眺めてぼんやりと、「すげえ」を風にとかしてる。彼はそのままぼーっと雲を目で追い出して、私がお弁当を食べるだけの時間が切れ目なく続いていく。とうとう私は耐えられなくなった。卵焼きを半分に割り、ショウジの前にぐいと突き出す。


「ごめん」

「……? なにが?」

「虫に襲われたとき、あんたぼーっとしてたじゃん。むかついて、口きかないようにしてた。でも失敗しちゃった」


 ショウジの目がきょろきょろと巡って、卵焼きに戻る。やっと合点がいったみたい。


「そういやあったわそんなこと。ああそれで……悪ぃな。ごめん、嫌な気持ちにさせちゃっ――うわなにすんもがっ」


 そこまで素直に謝られるとなんか恥ずかしいんだ。目を丸くして卵焼きを噛むショウジから目を逸らし、もう半分を頬張った。甘い甘い卵焼き。ほんのり塩気が効いている。喉を鳴らし、ショウジがため息を吐く。


「うんっま」


 急に顔が熱くなって、私は慌てて俯いた。「どしたん、アケミ」も聞こえないふりをして、空っぽのお弁当箱の隅にご飯粒を探す。ときたまの言葉で、いつもこいつは──「ありがと」とやっと言えた時、ショウジは「さすがアケミ」と笑った。




 もう口をきかないのはやめたのに、私は午後も無言のままだった。川をゆっくり下りながら、石をひっくり返し、藪をつッつく地道な作業を繰り返す。藪蛇にもならないのに、藪ワニなんてあるはずがない。もう蛙一匹見当たらない。気温はまだ上がり続けている。


 そういえば、今日は真夏日だとニュースで言っていた。帽子のつくるわずかな影の向こうの水面は、暴力的な太陽に照らされて真っ白に灼け、流れながらもひからびているようで、きっと遠からず私もそうなる。クーラーの効いた自習室に籠ってサインコサインをやっつける予定が、どうしてこうなったんだろう……あいつのせいだ。また、ショウジへのうらみが首をもたげてきた。


 ほんと、何考えてんだろあいつ。幼稚園からの付き合いだけど、アイツを分かったと思えたことは一度もない。いつもいつもぼーっとしてるか、ヘラヘラしてるかで、先生に注意されてばかりで……頼むから一番前の席でうとうとするのはやめて欲しい。幼なじみとして恥ずかしいから……そう何度言っても、彼は聞いているのかいないのか。頷くばかりで、三日後にはもう寝てる……でも当てられると答えるし、一昨日の現文は寝てなかった……なんか授業終わりに大量の千羽鶴を披露されたけど。どうすんのって聞いたら『決めてない。どうしたらいいと思う?』って、こっちが聞きたいわ。なんなんだあいつ。あんなぼーっとしたテキトー人間、先生も扱いに困る……ってこれじゃいつもの愚痴じゃん。


 水筒を傾けると、小さなしずくが舌を滑って、瞬く間に消えていく。


 横目で見ると、ショウジは真夏のグラウンドみたいな川の真ん中で、枯山水にあるような大きい岩を転がしたり、葦をかきわけたり、きびきびと働いている。相変わらず、マジだ。いつも変なところでマジなのだ。あいつより早くギブするのは癪だった。


 もう少し粘ることにして、石をもうひとつひっくり返す。毎回ワニの影でも張り付いていることを願うのだけど、白い石、黒い石、砂岩、礫岩、コンクリブロック、面白みがない。熱さも手伝って、だんだん意識が朦朧もうろうとしてくる。石の断面に、父さんの顔や、模試の点数や、アル中の未来がチラついて、再び網の柄を振るう。腕に張り付いた長袖。背中に張り付いた長袖。身体のあちこちがぺたぺたして気持ち悪い。目瞬まばたきしても目瞬きしても目が乾く。ショウジはまだ川から上がらない。


 漠然と、死ぬかもしれないと考えた。そうなったら香典百万貰うぞショウジ。うらみをいよいよつのらせていると、川面に彼の顔が流れてくる。不思議だ。ひょっとしてショウジの方が先に死んで亡霊になっちゃったんだろうか。突然首筋に冷たい何かが触れて、私はぎゃっと叫んで飛び退いた。彼はケタケタ笑いながら濡れた手を振り、水滴をビーズみたいに散らしている。


「アケミ、調子どう?」

「サイアク」


 小学生みたいなことして、バカみたい。メデューサみたいな勢いで睨んでも、奴にはさっぱり効果がない。石になるどころか、へらへら笑ったままでいる。


「おーけい、休憩しようぜ」


 誘いに乗るのはむかついた。でも限界なのも事実だった。私は彼の差し出してきた手を払い、河原へ上がる。




 葉桜の陰に腰を下ろすと、勝手に大きな息が出た。みずみずしい夏草は、人をダメにする禁断のソファのように気持ち良い。木の幹に体を預けると、木漏れ日を縫って清風が吹き抜ける。真っ青な空へ昇っていく。遠くに飛行機が飛んでいた。ぽっかり浮かぶいくつかの丸い雲が、もちもちと飛行機雲に貫かれ、大きな月見団子が空にあった。


 十五夜はまだ遠い。月はどこにも見当たらない。地球の裏側を照らしているのだろうか。日本の裏は大体ブラジル。天空の月見団子は彼らのためにあるんだ、と思いつく。ブラジルは大きい国だから、大きい団子が必要なんだ。ブラジルの人口はどれくらいだっけ。過去問で見た。だいたい二億人。意外に日本の二倍もいないんだ。じゃあ、あんなに大きい団子はいらないか。日本にある団子を全部合わせたらどれくらいになるだろう。もしかしたら、あれはブラジルと日本のためにある、友好の月見団子かもしれない。これから半日かけて地球をぐるっと回って、ブラジルの人を楽しませるのかな……。


 とりとめもないことを考える内に飛行機雲は薄まって、団子は散り散りになってしまった。空の中を転がって、ゆっくりと形を変えていく。ちぎれて蝶。穴が開いたドーナツ。まとまって天空の城。潰れてフランスパン……とうとう何の変哲もない帯状の雲になってしまった。それでも雲は変わり続ける。意味を塗りつけるのもめんどくさくなって、私はただぼーっと空を眺めていた。


「ん」


 影が差し、頬に冷えた硝子がらすが当てられた。見上げると、ショウジがラムネを持っている。


「どしたの、これ」

「卵焼きの借り」

「いいよそんなの」

「あわよくばレシピ教えてもらおうかと思って」

「……あっそ」


 鈍い音を立ててビー玉が落ち、緑の泡が無数に湧き上がる。一口飲むと爽やかに、身体が青く澄み渡っていく。からころとガラスを鳴らして、私達は瓶を下ろした。


「どうよ」

「なにが」

「今」

「う~ん……」


 考えるふりをして、私はただ頭を空っぽにしていた。青い夏草、青い空。鈍くきらめき流れる多摩川。陽炎の向こうに揺れるコンクリートの大ジャングル。さざ波のような蝉の声に今更気が付いた。遠くから、少年野球の掛け声が聞こえてくる。木漏れ日が揺れて、蚊がふらふら飛んできた。分厚い長袖を貫こうとわたついてるそいつを、そっと手で払ってやった。諦めきれずに旋回した後、虫よけのにおいに今更気が付いたのか、そいつは直角に曲がって逃げていく。どんくさいなあ。気付けば微笑んでいた。


「ぼーっとすんのも、悪くないかも」

「だろ?」


 彼は大きなげっぷをした。咎めると笑って謝り、ビー玉を鳴らして最後の一滴を滑らせた。案外突き出た喉ぼとけに、滑り落ちたビー玉がはまる光景を、私は夢想した。




「一個言っていい?」

「なに?」

「石の下にはワニいないと思う」

「……マジで?」


 靴を脱ぎかけた体勢で振り向いたせいで、ショウジは盛大に水しぶきを上げて転がった。ずぶ濡れのまま、相変わらず丸い目で「マジか」と呟く。


「知らなかったそんなの……」

「なんであんたが知らないの……あんた、動物園で石の下にいるワニ見たことある?」

「そういえばない」

「でしょ? 私もないもん。多分あいつらは、浅瀬とか沼地にいるの……あ、ほら生物でやったでしょ? 沼地の生態系。てっぺんにワニがいるの」

「そうと知ってれば早く言ってくれればよかったのに」

「ごめん。あんたが言うならそうなのかなって……あと、正直意地悪な気持ちもあった」


 がっくり肩を落とした彼を見て、私は後ろめたくなった。偉そうに言う資格なんてないと、気付いて恥ずかしくなる。私は変な意地を張って、首肯も思考も試行もせずにただ漫然と石をひっくり返していただけなんだ。ごめんと幾度か言っても、彼は何も返さない。不安になって、唾を飲む。顔を上げた彼の目は、爛々らんらんと輝いていた。


「よしアケミ、沼っぽいとこを探そう。石を見なくていいならもう朝飯前だ。さくっとワニ捕まえちまおう! えいえいおう!」

「え、えい……?」

「アケミも声出して」

「恥ずかしいよ」

「今更だろ。ほら、えいえい──」

「おー!」


 声を合わせると、清風が私の中を駆け抜けていった。情熱って、こんな簡単でいいんだ。不思議なほど頬が熱くなる。それが太陽のせいでも、他の何のせいでも、どうでもよかった。




 澱みという澱みをさらいながら、私たちは川を下っていく。一度ワニガメをみかけたが、あまりにおっかなくて、そっとその場を去った。あんなに怖い顔したやつがいる所に、ワニも好んで近付かないだろう。


 堰が近付くにつれ澱みも広くなり、種々雑多な草々がこれでもかとばかりに生い茂る。放漫な蔓に絡みつかれてまるでアマゾン。向こうのビルも緑にけぶる。そっちの方が暗がってもっとジャングル透かした灰色──銀行、マンション、モール、大学──しつこい葉っぱを払い落としながら、私はすっかり泥だらけの制服に呼びかける。聞き忘れたことがあったのだ。


「ねえ」

「なに」


 随分遠くにいるようで、私は声を張り上げる。


「なんでワニ探そうなんて思いついたの」

「ヒミツ」

「なんで私を誘ったの」

「義理がたいじゃん」

「そうかな」

「今までついて来てくれてるじゃん。仮に借りがあっても、俺なら今頃帰ってる」

「は? ばか」

「冗談、冗談」


 間をおいて、ショウジの声がした。彼の裸足が葦の壁の端をよぎった。


「アケミはなんでついて来てんの」


 借りがあるから、と言おうとしたけど、どうもそれだけじゃないような気がした、する、それだけ。


「分かんない」

「適当でいいよ」

「……なんとなく」

「いいじゃん」


 なにが『いい』のか分からなかったけど、ありがとうと返した。『なんとなく』なんてダメだと、どこでも、いつでも聞いてきた。なのに。


「あんたはさ、高校出たらどうすんの」

「大学」


 意外だった。大学名はもっと意外だった。考えてみれば、彼の両親は医者だった。ショウジもまるっきり自由って訳じゃないんだ──あそこ可愛い子多いらしいんだ、と聞いて、私の思いは打ち砕かれた。


「ばか。そんなんで決めちゃダメだよ」

「めんどくさいだろ、そういうの」

「人生を左右するんだよ?」

「存分に左右されるさ」


 でも、もしかしたらアケミと同じ大学に行くかもな。


 どきんと鳴り響く心臓の暴力的熱さ。恐る恐る理由を聞いて後悔した。


「なんとなくだよ」


 やっぱり『なんとなく』なんてダメだ。と、彼の押し殺した叫び声がそばで聞こえた。


「見つけたッ!」


 振り向くと、いた。乾いた岩に身体を半分乗せてじっとしていた。予想よりずっと小さくて、ビニールのおもちゃみたいだったけど、私たちはとうとうワニを見つけたのだった。




 ワニは案外すばしっこく、書ききれないほどの大捕り物を演じてようやく捕まえることができた。檻なんてないので、ひんひん言いながら腐りかけの木箱に押し込める。ショウジがどこかへ電話をかけている間、私は板の隙間からじっとワニを眺めていた。


 口先を網で縛られているくせに、ワニはずいぶん落ち着いている。黒光りする眼は何を考えているのか分からない。時折瞬膜が被さり、白くなる。こいつも、自分の将来を考えていたりするんだろうか。多摩川の底の冷たい水に浸されて、ワニはだいぶ眠そうに見えた。宇宙の始まりから終わりまで、ここでうつらうつらし続けているんじゃないか──そんなふうに思えた。電話を終えたショウジが、私の横にしゃがみ込む。


「変な顔」

「あんたがそれ言う?」

「何考えてんのかなこいつ」

「何も考えてないでしょ」

「何もってことはないだろ」

「あんたにそう見えるなら、多分考えてるふりをして何も考えてないんだ」

「あるいは考えてないふりして考えてるか」


 なぜかショウジはそのセリフを繰り返し、空を見上げてため息をついた。


「今あんた、考えてるふりしてるでしょ」


 ショウジは何も言わずに低く笑うと、立ち上がってラジオ体操第一を始めた。とっくのとうに体操を終えた子供たちがきゃいきゃいと、土手を走り去っていく。そういえば、そんな季節だ。ショウジは上体を大きく回す運動をしながら尋ねてくる。


「今日どうだった?」


 声がぶわんと歪んで聞こえる。


「変な感じ」

「連れて来た甲斐があったな」

「何言ってんの? まあ……」


 ──悪くなかったけど、はあまりに小声で、エンジン音にかき消されてしまった。それにほっとしている自分がいた。土手を見上げると、白いライトバンがタイヤを撓めて急停止。白い扉が開け放たれて、だらしない金髪のおじさんが姿を現す。そいつがこっちへ下りてくる。誰? なに? 二、三歩後ずさる私を追い越して、ショウジの方は手を振りながら駆けていく。二言三言交わし合い、こっちへ猫背でやってくる。


「紹介するよ、ヤスオおじさん」


 ヤスオさんはじろりと私をねめつけると、挨拶もせずに木箱の中を覗き込む。


「随分小さいな」

「ワニはワニさ」

「ワニというよりトカゲだな。トカゲに払うもんはない」

「マジで言ってんなら眼科の仲介料も貰うぜ」


 押し問答のあいだ、私もワニもぼーっとしていた。怖くて動けなかったのかもしれない。結局、ワニはワニと認められたようだ。不釣り合いなほど大きなバケツに入れられて、えっちらおっちら運ばれていった。ドナドナを思い出す。トランクに詰め込まれる青色。その向こうで、変わらずワニは眠そうにしているのだろうか。運転席の窓からヤスオさんの上半身が出てきた。あたりをきょろきょろ見回して、一瞬こちらをにらみ、ふいと体を引っ込める。最後にひらりと手のひらが揺れた。バンはワニを乗せて走り去る。なんだったんだ、あの人。橋を渡っていくのを追いかけていると、ショウジが土手を下りてくる。


「ねえ、あの人親戚?」

「うーん。生き物好きなんだよ」

「働いてんの?」

「うーん、確かそう」

「確かって、なに――なにそれ」


 彼は何も答えずに、ニヤニヤしながら札を数枚ひらひらさせているばかり。その段になってようやく、私はワニ捕りの真意に気がついた。


「……つまり私は、あんたの小遣い稼ぎの手伝いをさせられてたって訳?」

「悪かなかったろ?」


 あっけらかんと答えやがって、ばかばかばかあほ――


「悪い悪い! 全然悪い!」

「まあそんなカッカすんなよ。これで貸しはチャラだ。それどころかお釣りが出る。焼肉でもいこうぜ」


 そうじゃない、そうじゃないけど、口に出すほど素直になれない。私は、窮屈な世界から幼馴染を連れ出そうとか、新鮮な風で癒してあげようとか、そういうロマンティックな思いやりをショウジに期待するのは金輪際やめよう、と数カ月ぶりに固く決意した。通算何度目の決意だろう。もうすっかり嫌になって、彼に背を向け歩き出す。ずんずん大股で歩く。心配するそぶりもなく、早足でうきうき追っかけてくるショウジ。


「焼肉もいいけど、寿司もアリだよなあ! でも魚ってのはインパクト弱いか?」


 そうだよね、目的もなく歩き出すのは、あんたのおはこだもんね。今更心配なんかしないよね――なんて頭の熱に押し出されるように、目が潤む。彼の足音が追いかけてくるのを聞いて安堵する自分が嫌いだ。彼の気を引こうと無意識に考えてしまっている私が嫌いだ。私に対して素直になれない私が嫌いだ。こんな私の内心なんて、露ほども考えていないんだろう。ショウジはお札を何度も数えてほくほく顔だ。


「なあ、どこ行く? どこ行く? やっぱ焼肉?」


 当てつけ八割ふざけ二割で、このあたりで一番高い店の名前を出した。彼は口笛を鳴らして


「さすがアケミ。予算ぴったし」


 数枚揺れる過去の偉人をちらりと見る。


「貯金とかしないわけ?」

「宵越しの金は持たねえ」

「カッコつけちゃって」


 思いがけず緩んでしまった頬を見せるのが悔しくて、空を眺めるふりをする。たなびく雲が茜色に染まっていた。ああ終わる。私たちの昼間。そう思った時にはもう、立ち止まっていた。


「……私、なにしてんだろ」


 もっとやるべきことがあるはずなのに。背中のリュックが、石のように重いことに気づく。通り過ぎた風圧を目で追うと、長髪の自転車。大学生だろうか。無地の背中が、大橋へぐんと曲がっていく。川の向こうには、鋼と石と硝子の森。多分、私はあそこに行く。けれどそこで何をするのか、全く分からないのが怖かった。ヤスオさんは、あの自転車は、どこからどこを通って、どうしてあそこへ、あそこから。


「何考えてんの」


 気付けば、ショウジが笑みもなく私を覗き込んでいた。今度は、眼を逸らす気にはなれなかった。


「私達、これからどうなるんだろうね。どうなればいいのかな」


 唸りもせずに、彼は黙った。彼の見る方を見てみた。もさもさした緑がオレンジスケールにとかされて、多摩川が黄金色に滲んでいく。長いこと黙って、彼は答えた。


「適当でいいよ」

「……よくないよ」


 ヤスオさんの姿が思い浮かぶ。ショウジも、白いバンの行った方を見てる。


「いいんだよ。なるようにしかならないし」


 決められたようにしかならないし、と聞こえたのは風のいたずらだろうか。日がかげる。対岸を眺める彼の目は、一瞬多摩川よりも澱んで見えた。太陽が再び光を取り戻した時、彼は笑みを取り戻していた。


「大丈夫さ、俺もあっちに行くし――何より、俺らはワニを捕まえたんだから」

「……あんな大きさで、ワニっていえる?」

「ワニはワニだよ」


 彼は子供っぽく頬を膨らませ、口を尖らせる。その様子があんまりおかしくて、私は思わず吹き出した。笑い声が夏風にカラカラ響いて転がった。背中のサバイバルリュックが綿のようにくらくら揺れた。


「そっか、そうね。ワニはワニね」


 やっと笑い終えても、ショウジはまだ眉間に皺を寄せている。私はそっぽを向いて、久しぶりに口笛を吹いた。下手なメロディ。先は見えない。でも、ショウジと一緒にワニを捕まえたことを考えると、不思議となんだって大丈夫な気がしてくる。影を長く伸ばすのは、初夏の残光、真夏の曙光。スキップをはじめると、私の影もスキップをして、川面を暗く揺らした。多摩川沿いの長い道を辿って、私たちは街へと歩いて行った。


 ※※※


 行こうとしたところは会員制で、結局二時間三千円の焼肉になったけど、私たちは満足だった。ショウジは嘘つきでごめんな、と冗談めかして言ったけど、彼が冗談抜きで嘘つきだったと知ったのは、彼の葬儀を終えた後だった。遺書にもなっていないはしがきを胸に抱いて、しばらく私は泣いたけど、多摩川沿いを歩くうち、自然と涙は乾いていった。


 もう、一周忌だ。鏡を見れば私がいる。あいつが卒業しないうちに、すっかり喪服が似合うようになってしまった。まだ二十三歳なのに、ね。笑えないジョークだ。あいつの言葉、みたいな。


 ショウジが私の前からいなくなることを選んだ意味を、考えても考えても分からなくて、悩んでも悩んでも仕方がないから、私は意味を張り付けるのを諦めて、ワニを捕まえた日を思い出す。鋼と石と硝子の森を背に、昔と変わらぬ河川敷をぼーっと眺める。陽炎が揺れていた。その合間にワニを見たような気がして、私は微笑んだ。夏の終わりが近かった。あの日のように、太陽が輝いている。

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