第16話 徳川家基の最期 ~田沼意知、切腹覚悟の大奥登城~ 中篇

田沼たぬま…、大和やまと…、そのほう何故なにゆえにここに…」


 初崎はつざき御客会釈おきゃくあしらい悲鳴ひめいがったつぎへと振返ふりかえると、そこには白装束しろしょうぞく姿すがた意知おきともっており、おもわずそううめごえげた。


 初崎はつざき田沼大和たぬまやまとこと大和守やまとのかみ意知おきともかおっており、それは初崎はつざきそばにてひかえる西之丸にしのまるおく医師いし小川おがわ子雍たねやすにしても同様どうようであった。


 初崎はつざきいままさ家基いえもと附子ぶす(トリカブト)のどく河豚フグどくとをふくませようとしていたのだが、意知おきともまえにしては流石さすがはばかられた。いや、はっきり言って不可能ふかのうであった


 初崎はつざき咄嗟とっさ附子ぶす(トリカブト)のどく河豚フグどくかくした。


 さいわい、初崎はつざきそばひかえていた小川おがわ子雍たねやすが「遮蔽板しゃへいばん」の役割やくわりたしてくれた。


 すなわち、初崎はつざき仰臥ぎょうがする家基いえもとくち附子ぶす(トリカブト)のどく河豚フグどくとをながもうとしたさまも、そしてそれらのどくかくしたさまも、初崎はつざき真後まうしろにひかえていた小川おがわ子雍たねやすが「遮蔽物しゃへいぶつ」となり、意知おきともられずにんだ。


 初崎はつざき内心ないしん動揺どうようかくすべく、「何故なにゆえ田沼大和たぬまやまとめがここにおるのだっ!」とえて大声おおごえげて責立せめたてた。


 初崎はつざき思惑おもわくかく意知おきともたしかに責立せめたてられて当然とうぜんであった。


 なにしろ意知おきとも身分みぶん分際ぶんざいではここ大奥おおおくあしれることなどゆるされないからだ。


 それにしても一体いったい意知おきとも如何いかにして警備けいび厳重げんじゅうなるこの大奥おおおくへとあしれることが出来できたのかと、初崎はつざきくびかしげた。


 すると初崎はつざきのそんなむねうち疑問ぎもん見透みすかしたかのごとく、意知おきとも背後はいごからなん向坂さきさか姿すがたせたかとおもうと、


「この向坂さきさか案内あないつかまつった…」


 向坂さきさかわるびれもせずに初崎はつざきにそうこたえたのであった。


 ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※


 意知おきともは昼八つ(午後2時頃)、白昼夢はくちゅうむを―、家基いえもと幻影げんえいるや、


一刻いっこくはやくに大納言だいなごんさま御逢おあいせねば…」


 そのよう心境しんきょうおそわれ、気付きづいたときには白装束しろしょうぞく着替きがえていた。


 意知おきとも白装束しろしょうぞく着替きがえたのはほかでもない、2つの「覚悟かくご」からであった。


 ひとつは家基いえもとえなかった場合ばあい覚悟かくごである。


 家基いえもといま西之丸にしのまるのそれも大奥おおおくにてせっていた。


 西之丸にしのまる大奥おおおくへはいま意知おきとも身分みぶん分際ぶんざいではあしれることはゆるされない。


 それゆえ折角せっかく西之丸にしのまるへとあしはこんだはいが、大奥おおおく手前てまえ門前払もんぜんばらいされるのが「オチ」であろう。


 いや、そもそも西之丸にしのまるどころか御城えどじょうあしれることすらゆるされないやもれぬ。


 西之丸にしのまる本丸ほんまる共々ともども様々さまざまもんかこまれており、そのもんくぐらないことには本丸ほんまるにしろ西之丸にしのまるにしろ、あしれることは出来できないのだ。


 それゆえ意知おきともまさしく「門前払もんぜんばらい」される可能性かのうせいたかかった。


 その場合ばあい意知おきとも門前もんぜんにてはら覚悟かくごであり、その覚悟かくごとしての白装束しろしょうぞくであった。


 そしてもうひとつの覚悟かくごだが、それは見事みごと本懐ほんかいげた場合ばあい覚悟かくごであった。


 意知おきともれて西之丸にしのまる大奥おおおくにて家基いえもとえたとして、その場合ばあい理由りゆう如何いかんにかかわらず、意知おきとも大奥おおおくへと「無断むだん侵入しんにゅう」へとおよんだせめわねばなるまい。


 そしてそのせめだが、やはりはらるよりほかにはあるまい。それゆえ、その覚悟かくごとしての白装束しろしょうぞくであった。


 いずれにしろ、家基いえもとおうとうする意知おきとも待受まちうけているのは「」しかなかった。


 だが意知おきともはそれでもかまわなかった。


 ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※


 こうして意知おきとも白装束しろしょうぞく着替きがえたわけだが、ぐに屋敷やしきを、神田かんだばし門内もんないにある上屋敷かみやしきわけにはまいらなかった。


 それと言うのも、たりまえだが、家臣かしん意知おきとものその「蛮勇ばんゆう」をようとしたからだ。


 なにしろ意知おきともの「蛮勇ばんゆう」は意知おきとも一人ひとり責任せきにんとどまらない可能性かのうせいがあった。


 つまりは意知おきとも一人ひとりはらってよう問題もんだいではないということだ。


 最悪さいあく相良さがらはん田沼家たぬまけ御取潰おとりつぶし相成あいなるやもれなかったのだ。


 そうなれば家臣かしんは、それにその家族かぞくみな路頭ろとうまようことになる。


 意知おきともおのが「蛮勇ばんゆう」の所為せい家臣かしんやその家族かぞくまで路頭ろとうまよわすことになるのは不本意ふほんいではあった。


 だがそれでもいまおのれ意思いしつらぬくことにした。


 さいわい、ちち意次おきつぐはこのとき屋敷やしきにはいなかった。


 意次おきつぐ今日きょう老中ろうじゅうとしてのつとめをえたのちの八つ時、つまりは昼八つ(午後2時頃)、本丸ほんまるより下城げじょうせずに西之丸にしのまるへとあしはこんだのだ。


 家基いえもと見舞みまためだが、その意次おきつぐにしてもやはり、家基いえもとにはえず、大奥おおおく手前てまえ中奥なかおくにてそば用取次ようとりつぎ水上みずかみ美濃守みののかみ興正おきまさ佐野さの右兵衛尉うひょうえのじょう茂承もちつぐ、そして小笠原おがさわら若狭守わかさのかみ信喜のぶよし接遇せつぐうたった。


 意次おきつぐ現職げんしょく本丸ほんまる老中ろうじゅうということもあり、中奥なかおくまですすむことがゆるされたのだ。


 だがその意次おきつぐ大奥おおおくまではあしれられず、家基いえもとうことはかなわなかった。


 ともあれ昼八つ(午後2時頃)の時分じぶん意次おきつぐはまだ御城えどじょうにおり、これでいつもどお帰邸きていおよんでいたならば、その意次おきつぐせがれ意知おきともの「蛮勇ばんゆう」をゆるさず、家臣かしんめいじて意知おきとも取押とりおさえさせていたことであろう。


 しかし実際じっさいにはその意次おきつぐがいないので、意知おきともの「蛮勇ばんゆう」を掣肘せいちゅう出来できものだれもいなかった。


 それどころか家臣かしんなかには意知おきともの「蛮勇ばんゆう」に感動かんどうおぼえるものすらいた。


 江戸えど家老がろう各務かがみ久左衛門きゅうざえもん元加もとますがそうであり、各務かがみ久左衛門きゅうざえもん意知おきともの「蛮勇ばんゆう」にいたく感激かんげきするや、せがれ源吾げんごともめいじたのであった。


 田沼家たぬまけ江戸えど家老がろう各務かがみ久左衛門きゅうざえもんそく各務源吾かがみげんご意知おきとも公用人こうようにんつとめていたのだ。


 こうして意知おきとも各務源吾かがみげんごともめいじて御城えどじょうへと、それも大手御門おおてごもん目指めざした。


 ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※


 大手御門おおてごもん神田かんだばし門内もんないにある田沼家たぬまけ上屋敷かみやしきからははなさき、しかも御城えどじょう諸門しょもんなかでも一番格式いちばんかくしきたかく、それを裏付うらづけるかのごとく、譜代ふだい10万石以上まんごくいじょう大名だいみょう門番もんばんおおかる。


 安永8(1779)年2月のいま小濱おばまはん10万3558石あまり太守たいしゅ酒井さかい修理大夫しゅりだゆう忠貫ただつら大手御門おおてごもん門番もんばんおおけられていた。


 正確せいかくには大手御門おおてごもんばん酒井さかい忠貫ただつらの「独擅場どくせんじょう」と言えた。


 それと言うのも門番もんばんなかでも大名だいみょう、それも譜代ふだい大名だいみょうおおかる門番もんばんについては基本的きほんてきには雁間詰がんのまつめしゅうよりの出役しゅつやくであるからだ。


 この大手御門おおてごもん門番もんばんにしてもそうであり、雁間詰がんのまつめしゅうよりの出役しゅつやくで、しかもその雁間詰がんのまつめしゅうなかでも10万石以上まんごくいじょう所領しょりょうつのは酒井さかい忠貫ただつらほかには淀藩よどはん10万2千石の太守たいしゅ稲葉いなば丹後守たんごのかみ正諶まさのぶだけであった。


 その稲葉いなば正諶まさのぶだが、西之丸にしのまる大手御門おおてごもん門番もんばん拝命はいめいしていた。


 西之丸にしのまる大手御門おおてごもん門番もんばん譜代ふだい6万石まんごくから10万石まんごく譜代ふだい大名だいみょう、それも雁間詰がんのまづめ大名だいみょうの「持場もちば」であり、10万石を2千石せんごく上回うわまわ所領しょりょう稲葉いなば正諶まさのぶ受持うけもつにはいささか、


役不足やくぶそく…」


 そのかんぬぐえず、事実じじつ稲葉いなば正諶まさのぶ自身じしん西之丸にしのまる大手御門おおてごもんよりも格上かくうえ大手御門おおてごもん門番もんばんのぞんでいたものだが、しかし、稲葉いなば正諶以上まさのぶいじょう太守たいしゅである酒井さかい忠貫ただつらひかえている以上いじょう、どうにもならない。


 これで参勤交代さんきんこうたいとしちがっていたならば、つまりは安永8(1779)年2月のいまかり酒井さかい忠貫ただつら国許くにもとにおり、稲葉いなば正諶まさのぶ在府中ざいふちゅう、この江戸えどにいれば、大手御門おおてごもん門番もんばん間違まちがいなく稲葉いなば正諶まさのぶ手中しゅちゅうにあったであろう。


 だが実際じっさいには酒井さかい忠貫ただつら稲葉いなば正諶まさのぶ参勤交代さんきんこうたいとしおなじであり、しかも稲葉いなば正諶まさのぶ今年ことしの5月に帰国予定きこくよていであるのにたいして、酒井さかい忠貫ただつらはそれよりも一月遅ひとつきおそい6月の予定よていであり、これでは今年ことしかぎって言えば稲葉いなば正諶まさのぶまくはない。


 あとは精精せいぜい来年らいねん酒井さかい忠貫ただつらよりもはやくに参府さんぷして、忠貫ただつら参府さんぷするまでのあいだ大手御門おおてごもんばんおおかるしかあるまい。


 ちなみに酒井さかい忠貫ただつら稲葉いなば正諶まさのぶまでが帰国きこくおよんだ場合ばあい雁間詰がんのまつめしゅうなかで10万石以上まんごくいじょう所領しょりょうものは、つまりは大手御門おおてごもんばんの「有資格者ゆうしかくしゃ」がこの江戸えどにいなくなるわけで、その場合ばあいには帝鑑間ていかんのまづめ大名だいみょうより、それも10万石以上まんごくいじょう所領しょりょうものなかから大手御門おおてごもんばんえらばれることになる。


 帝鑑間ていかんのまは「古来こらい譜代ふだいせき」ともしょうせられ、「取立とりたて譜代ふだいせき」としょうされる雁間がんのまよりも格上かくうえ位置付いちづけられていた。


 つまりは雁間詰がんのまづめ譜代ふだい大名だいみょうよりも帝鑑間ていかんのまづめ譜代ふだい大名だいみょうほう格式かくしきたかく、それゆえ酒井さかい忠貫ただつら稲葉いなば正諶まさのぶわりとして大手御門おおてごもんばんおおけるにはもっと相応ふさわしい。


 ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※


 さて、神田かんだばし門内もんない田沼家たぬまけ上屋敷かみやしきから大手御門おおてごもんまでははなさきとはもうせ、ひと往来おうらいはある。


 意知おきとものその「スタイル」に道行みちゆ彼等かれら仰天ぎょうてんしたのは言うまでもない。


 それは大手御門おおてごもんあずかる酒井さかい忠貫ただつらにしても同様どうようであった。


 酒井さかい忠貫ただつら日中にっちゅう家臣かしんとも門番所もんばんしょにて警衛けいえいたる。


 意知おきとも大手御門おおてごもん門番所もんばんしょ姿すがたせたとき忠貫ただつらはそろそろ濱町はまちょうにある酒井家さかいけ上屋敷かみやしきへと帰邸きていおよぼうかという頃合ころあいであり、意知おきとも風体ふうてい家臣かしん一同いちどう仰天ぎょうてんさせられた。


 だが忠貫ただつら意知おきともよりその決死けっしとも言うべき「覚悟かくご」をらされるや、やはりその「覚悟かくご」に感動かんどうおぼえたのであった。


 年齢としちかいこともさいわいした。


 忠貫ただつらは延享4(1747)年まれの33歳であり、寛延2(1749)年まれの意知おきともよりも2歳年上さいとしうえであり、それゆえ決死けっし覚悟かくごせる意知おきとも可愛かわいおとうとようおもえた。


 そこで忠貫ただつら意知おきとも大手御門おおてごもん通行つうこう差許さしゆるしたのみならず、


西之丸にしのまる御殿ごてんまでこの忠貫ただつら案内あないつかまつろう」


 意知おきともにそう申出もうしでたのであった。


 かり大手御門おおてごもん突破とっぱ出来できたとしても、西之丸にしのまるまでの道筋みちすじにはまだ諸門しょもんが、さしずめ「関門かんもん」が待受まちうけており、そこで意知おきとも制止せいしらい、西之丸にしのまるまで辿たどけない可能性かのうせいがありた。


 だが御城えどじょう諸門しょもんなかでも一番いちばん格式かくしきほこ大手御門おおてごもん門番もんばんつかさど酒井さかい忠貫ただつらが「先導せんどう」にってくれればはなしべつである。


 西之丸にしのまるまでの諸門しょもんすべて、大手御門おおてごもんよりも格式かくしきおとり、そうであればそれら諸門しょもんつかさど門番もんばんとしては、大手御門おおてごもんばん酒井さかい忠貫ただつら通行つうこうについてはみとめざるをず、そこには忠貫ただつらひきいられる意知おきともふくまれていた。


 いや、じつを言えば意知おきとももそれを期待きたいしていたのだ。


大手御門おおてごもんばん酒井さかい忠貫ただつら味方みかた出来できれば西之丸にしのまるまで辿たどけるやもれぬ…」


 意知おきともはそんな「打算ださん」をはたらかせ、そこで大手御門おおてごもんへと「突撃アタック」したのであった。


 もっとも、それで意知おきとも期待きたいどおりにことはこばねば、つまりは酒井さかい忠貫ただつらが「味方みかた」になってくれなくば、そのおりには意知おきとも勿論もちろん本気ほんきはらるつもりであったので、たんなる「打算ださん」と片付かたづけるわけにもゆくまい。


 かくして意知おきとも忠貫ただつら案内あんないにより大手御門おおてごもんより内櫻田うちさくらだもん坂下さかしたもんて、西之丸にしのまるへといたった。


 内櫻田うちさくらだもん譜代ふだい6万石まんごくから7万石まんごく大名だいみょう、それもやはり雁間詰がんのまづめ大名だいみょう門番もんばんつかさどり、一方いっぽう坂下さかしたもん先手さきてぐみ門番もんばんつかさどる。


 いま内櫻田うちさくらだもん吉田よしだはん7万石まんごく太守たいしゅ松平まつだいら伊豆守いずのかみ信明のぶあきら門番もんばんおおかっていた。


 信明のぶあきらは宝暦10(1760)年まれの二十歳はたちぎず、酒井さかい忠貫ただつらとそれに白装束しろしょうぞく姿すがた田沼たぬま意知おきともまえにしておそおののき、家臣かしんめいじて二人ふたり通行つうこうゆるしてしまったのだ。


 内櫻田うちさくらだもんですらこの「ていたらく」なのだから、坂下さかしたもんもうすにおよばず、であった。


 こうして意知おきとも忠貫ただつら案内あんないにより西之丸にしのまる玄関げんかんにまでは辿たどくことが出来できた。


 問題もんだいはここから如何いかにして大奥おおおくにまで辿たどくかであった。


 大奥おおおくへは表向おもてむき、そして中奥なかおくという「関門かんもん」が待受まちうけていたからだ。


 そのかん、それも表向おもてむきにおいて殿中でんちゅう警備隊けいびたいである小姓組番こしょうぐみばん書院番しょいんばんあるいは新番しんばん小十人こじゅうにん組番ぐみばんといった番方ばんかたぞくするばんからやはり制止せいしらう可能性かのうせいがありた。


 西之丸にしのまる殿中でんちゅうにおいてはさしもの酒井さかい忠貫ただつら大手御門おおてごもん門番もんばんとしての「威光いこう」も効果こうか発揮はっきしない。


 するとそこでも意知おきともに「幸運こううん女神めがみ」が微笑ほほえんだ。


 本丸ほんまる書院番しょいんばん一人ひとり水原みはら善次郎ぜんじろう保興やすおき意知おきとも中奥なかおくまで案内あんないしてくれたのだ。


 水原みはら善次郎ぜんじろう本丸ほんまるのそれも2番組ばんぐみぞくする書院番しょいんばんであるものの、このとき西之丸にしのまる勤番きんばんとして西之丸にしのまるにて殿中でんちゅう警備けいびたっていたのだ。


 その水原みはら善次郎ぜんじろうだがく言えばいきでいなせな、わるく言えば放蕩無頼ほうとうぶらいであり、意知おきとも白装束しろしょうぞく姿すがたおおいにった様子ようすで、


「それならこのおれ中奥なかおくまで案内あないしてやらぁな」


 意知おきともたいして「べらんめぇ調ちょう」でそう申出もうしでてくれたのであった。


 これには意知おきとももとより、忠貫ただつらおおいにあきれさせたものである。とても大名だいみょう嫡子ちゃくしたいする物言ものいいではない。


 が、不思議ふしぎ不快感ふかいかんはなかった。それどころか、あるしゅ清清すがすがしすらあった。


 意知おきとも水原みはら善次郎ぜんじろうというおとこ好感こうかんおぼえ、その厚意こうい素直すなおあまえることにした。


 こうして意知おきとも西之丸にしのまる殿中でんちゅう玄関げんかんにおいて忠貫ただつらわかれると、そこからさき中奥なかおくまでは水原みはら善次郎ぜんじろう案内あんない先導せんどうによりすすむことにした。

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入鹿転生記 ~天明4年にタイムリープした俺は江戸幕府のフィクサーになる~ 意知遭難篇 @oshizu0609

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