第15話 徳川家基の最期 ~田沼意知、切腹覚悟の大奥登城~ 前篇

 2月22日、夕七つ(午後4時頃)に於千穂おちほかたますと、それまで家基いえもと枕頭ちんとうにて付添つきそっていた種姫たねひめ交代こうたい三刻さんとき(約6時間)の夜四つ(午後10時頃)まで家基いえもと枕頭ちんとう付添つきそうことにした。


 そこへ家基附いえもとづき老女ろうじょ初崎はつざき姿すがたせた。


 おい中野なかの虎之助とらのすけかいして一橋ひとつばし治済はるさだよりの「意向いこう」をつたえられていた初崎はつざきはそのとおりにうごいた。


 すなわち、家基附いえもとづき年寄としよりたるこの家基いえもと枕頭ちんとう付添つきそいたいと、おも於千穂おちほかたにそう歎願たんがんしたのであった。


 すると治済はるさだ寵臣ちょうしん丸山まるやま勝五郎かつごろう見立みたどおり、於千穂おちほかた種姫たねひめへの対抗心ライバルしんからこれをゆるしたのであった。


 だがそこで種姫附たねひめづき老女ろうじょ向坂さきさかったをかけた。


 種姫たねひめから於千穂おちほかたへと付添つきそいの交代こうたいいま家基いえもとせるここ新座敷しんざしきにおいてはそれまで仮眠かみんっていた於千穂おちほかた家基いえもと枕頭ちんとうにて付添つきそっていた種姫たねひめがおり、その新座敷しんざしきとなり部屋へやであるつぎには向坂さきさかひかえ、あるじ種姫たねひめ付添つきそいを見守みまもっていた。


 初崎はつざき於千穂おちほ方附かたづき老女ろうじょ玉澤たまさわ案内あんないによりそのつぎへとあしばし、つぎしから新座敷しんざしきにいる於千穂おちほかた陳情ちんじょうしたのであった。


 玉澤たまさわ向坂さきさかとはことなり、新座敷しんざしきにてあるじ於千穂おちほかたとも家基いえもと枕頭ちんとう付添つきそうことになっており、そろそろ種姫たねひめからあるじ於千穂おちほかたへと付添つきそいの当番とうばん交代こうたいと、そこで執務室しつむしつから新座敷しんざしきへとあしはこぶこととし、初崎はつざきもそのとらえた。


御部屋おへやさま是非ぜひともねがいのがござりますれば、何卒なにとぞ御部屋おへやさまへの目通めどおりを…」


 初崎はつざきからこのようひくうしてたのまれれば、玉澤たまさわとしてもいやとは言えまい。ましてやねがいの如何いかなるものなのか、それすらもけまい。


 かくして玉澤たまさわ初崎はつざきをとりあえず、あるじ於千穂おちほかたのいる新座敷しんざしきとなり部屋へやであるつぎへと案内あんないした次第しだいであり、初崎はつざきつぎしから於千穂おちほかたへと陳情ちんじょうしたのはかる経緯いきさつによる。


 だがそのつぎには向坂さきさかひかえていたために、向坂さきさか初崎はつざき陳情ちんじょうみみにするや、「それなれば…」とみずからも家基いえもと枕頭ちんとう付添つきそいたいと言出いいだしたのだ。


 これもまた丸山まるやま勝五郎かつごろうの「見立みたて」どおりの展開てんかいであり、しかもそれが於千穂おちほかたによって却下きゃっかされたのも同様どうよう、「見立みたて」どおりであった。


初崎はつざき家基附いえもとづき老女ろうじょなれば、うぬはあくまで、種姫附たねひめづき老女ろうじょぎまいて、立場たちばわきまえよっ!」


 於千穂おちほかた向坂さきさかをそう一喝いっかつしたのであった。


 こうなっては向坂さきさかとて引退ひきさがるよりほかにはあるまい。


 いやじつを言えば今一人いまひとり玉澤たまさわもまた家基いえもと枕頭ちんとう付添つきそいたい一人ひとりであったが、いま向坂さきさか一喝いっかつされるさまたりにしてくちつぐんだ。


 ここで下手へた出過ですぎた振舞ふるまいにおよんであるじ於千穂おちほかた不興ふきょうってはつまらないからだ。


 玉澤たまさわ於千穂おちほ方附かたづき老女ろうじょとして絶大ぜつだいなる権勢けんせいほこようになるまで随分ずいぶん苦労くろうかさねた。


 それを一瞬いっしゅん出過ですぎた振舞ふるまいにより水泡すいほうせしめてはたまらない。


 なにしろ於千穂おちほかたあっての玉澤たまさわ―、玉澤たまさわ絶大ぜつだいなる権勢けんせいるえるのもひとえに、


於千穂おちほ方附かたづき老女ろうじょ


 その肩書かたがきがあればこそであり、それが於千穂おちほかたから不興ふきょうい、とおざけられては玉澤たまさわもこれまでのよう絶大ぜつだい権勢けんせいるえまい。それどころかあっという転落てんらくする。


 玉澤たまさわ脳内のうないにおいて即座そくざにそのような「損得そんとく勘定かんじょう」の算盤そろばんはじき、結果けっかだまっていることにしたのだ。


 そしてそれは「正解せいかい」と言えた。


 於千穂おちほかた初崎はつざき家基いえもと枕頭ちんとう付添つきそうことをゆるしたのはあくまで、種姫たねひめへの牽制けんせいからであり、玉澤たまさわにまで家基いえもと枕頭ちんとう付添つきそうことをゆるすつもりはなかった。


 種姫たねひめへの牽制けんせいという意味いみでは初崎はつざき一人ひとり充分じゅうぶんだからだ。


 それでも於千穂おちほかたぐには初崎はつざき付添つきそいをゆるさなかった。


「さればこれよりはこの千穂ちほ家基いえもと枕頭ちんとう付添つきそうてやらねばならぬによって…」


 初崎はつざき付添つきそいはそのあと、夜四つ(午後10時頃)よりよく23日の暁七つ(午前4時頃)までの三刻さんとき(約6時間)のあいだにしてしいと、そう申出もうしでたのであった。


 それにたいして初崎はつざきとしても異論いろんはなかった。


 それと言うのも家基いえもとふくませるれい附子ぶす(トリカブト)のどく河豚フグどくとがまだ、初崎はつざき手許てもとにはとどいていないので、それゆえ初崎はつざきとしてもただちに家基いえもと枕頭ちんとう付添つきそうつもりはなかった。


 そこで初崎はつざき於千穂おちほかた申出もうしでに、「ははっ」とおうじようとしたその直前ちょくぜん、やはりと言うべきか、またしても向坂さきさかったをかけた。


 22日の午後10時から23日の午前4時までの付添つきそいは種姫たねひめ予定よてい、それを初崎はつざき変更へんこうするなどもってのほか、しかも種姫たねひめは、


おそおおくも上様うえさま縁女様えんじょさま…」


 将軍しょうぐん家治いえはる養女ようじょにして、そのじつ家基いえもと婚約者こんやくしゃであれば、


種姫様たねひめさま初崎はつざきとでは立場たちばちがぎまする…」


 種姫たねひめほう初崎はつざきよりもはるかに格上かくうえ立場たちばうえなのだから、その格下かくしたである初崎はつざき種姫たねひめ付添つきそいの予定よていうばわれるなど言語道断ごんごどうだんと、向坂さきさか於千穂おちほかたたいして先程さきほど一喝いっかつへの「意趣返おかえし」とばかりにそう反論はんろん、やりかえしたのだ。


 これには於千穂おちほかたおもわず言葉ことばまらせた。


 するとここで「たすぶね」をしたのは初崎はつざきであった。


「さればこの初崎はつざき大納言だいなごんさまへの付添つきそいは明日あす以降いこうかまいませぬ…」


 初崎はつざき於千穂おちほかた向坂さきさかとのあいだにそうってはいったことから、向坂さきさかにやりめられた於千穂おちほかたすくわれたおもいであった。


 於千穂おちほかたはそのうえで、明日あす23日の午前10時から午後4時までを指定していしたのであった。


 もっともこの時間帯じかんたいにしてもやはり、種姫たねひめ家基いえもと枕頭ちんとう付添つきそ予定よていのそれであり、向坂さきさかがまたしてもとなえたものの、しかし今度こんど於千穂おちほかたがそれをゆるさなかった。


るでないっ!一度いちどはこの千穂ちほ種姫たねひめかおててつかわしたのだぞっ!本来ほんらいなれば初崎はつざき付添つきそいをまかしてやってもかったものを、種姫たねひめさらにはそち…、向坂さきさかかおてて、今宵こよいの夜四つ(午後10時頃)よりの付添つきそいについては種姫たねひめのままになしおいたのだ…、さればつぎはこの千穂ちほかおてるべきであろうぞっ!それともこのまま種姫たねひめより付添つきそいのけん取上とりあげてもいのだぞっ!ここ新座敷しんざしきはこの千穂ちほ部屋へやなれば…」


 於千穂おちほかた家基いえもと母堂ぼどうとしての権威けんい最大限さいだいげんりかざし、種姫たねひめ向坂さきさかだまらせたのだ。


 いや種姫たねひめ自身じしん別段べつだん初崎はつざき付添つきそいの予定よていうばわれることについてはなんともおもってはいなかった。


 それどころか初崎はつざき短期間たんきかんとはもうせ、家基いえもと乳人めのとつとめ、そのうえいま家基附いえもとづき老女ろうじょなのだから、


初崎はつざき大納言だいなごんさま枕頭ちんとう付添つきそうのも当然とうぜん…」


 種姫たねひめはむしろそうおもっているほどであった。


 それゆえ種姫たねひめまえにて繰広くりひろげられる於千穂おちほかた向坂さきさかとの「ねこ喧嘩けんか」に閉口へいこうさせられるおもいであった。


 そこで、「ねこ喧嘩けんか」をかねた種姫たねひめが、


明日みょうにちよりは初崎はつざきにも付添つきそうてもろうてもかまいませぬ…」


 そうゆずったのであった。


 つまりは種姫たねひめ家基いえもと枕頭ちんとう付添つきそ予定よていであった明日あす23日の午前10時より午後4時までの時間帯じかんたい種姫たねひめわって初崎はつざき付添つきそってもらってかまわないと、種姫たねひめがそう仲裁ちゅうさいしたのであった。


 それで於千穂おちほかた向坂さきさか退いた。


 いや種姫たねひめのその仲裁ちゅうさい於千穂おちほかた主張しゅちょうをそのままみとめるものであり、於千穂おちほかた満足気まんぞくげ様子ようすかべたのにたいして向坂さきさかはと言うと、たりまえだがじつ不服ふふくそうであったが、それを種姫たねひめせいした。


 かくして明日あす23日の午前10時より午後4時までの6時間、初崎はつざき家基いえもと枕頭ちんとうにて付添つきそうことで落着らくちゃくした。


 そしてそのころまでには初崎はつざき手許てもと附子ぶす(トリカブト)のどく河豚フグどくとどはずであった。


 ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※


 田沼たぬま意知おきともあまり、ゆめない気質タイプである。


 ましてや白昼夢はくちゅうむなどいままで一度いちどとして記憶きおくがない。


 だが今日きょうべつだった。


 神田かんだばし門内もんないにあるここ田沼家たぬまけ上屋敷かみやしき一角いっかく意知おきとも自室じしつにて、意知おきとも一人ひとり家基いえもと快復かいふくいのっていた。


 いまは昼八つ(午後2時頃)をまわったころであった。


 今日きょう、23日は西之丸にしのまる幕府ばくふ政治顧問せいじこもんである溜間たまりのまづめ奏者番そうじゃばん、それに雁間がんのま詰衆つめしゅう普段ふだん登城とじょうすることのない高家こうけしゅうまでが登城とじょうし、家基いえもと見舞みまった。


 いや実際じっさいには彼等かれら家基いえもと見舞みまうことはなかった。


 なにしろ家基いえもと西之丸にしのまる大奥おおおくにてせっていたので、そこで彼等かれら見舞客みまいきゃく」は西之丸にしのまるにおいては表向おもてむきにて西之丸にしのまる当番とうばん奏者番そうじゃばん秋元あきもと攝津守せっつのかみ永朝つねともおなじく西之丸にしのまる当番とうばん大目付おおめつけ松平まつだいら對馬守つしまのかみ忠郷たださとえただけであった。


 秋元永朝あきもとつねとも松平まつだいら忠郷たださとの2人が家基いえもとの「名代みょうだい」として「見舞客みまいきゃく」の接遇せつぐうたったのだ。


 その「見舞客みまいきゃく」のなかには意知おきともふくまれていた。意知おきとも老中ろうじゅう田沼たぬま意次おきつぐそくとして雁間がんのま詰衆つめしゅう一人ひとりかぞえられていたからだ。


 意知おきともはしかし、今日きょうの「見舞みまい」においては「はりむしろ」であった。


 溜間たまりのまづめ諸侯しょこう奏者番そうじゃばん筆頭ひっとうである寺社じしゃ奉行ぶぎょう、それに官位かんいおそろしいほどたか高家こうけの「見舞みまい」については秋元永朝あきもとつねとも松平まつだいら忠郷たださと鄭重ていちょう接遇せつぐうつとめた。


 すなわち、その一人一人ひとりひとり応対おうたいたった。さしずめ、「独礼どくれい」の形式けいしき接遇せつぐうつとめたのだ。。


 だがヒラの奏者番そうじゃばん雁間がんのま詰衆つめしゅうの「見舞みまい」にたいしては永朝つねとも忠郷たださともそこまで鄭重ていちょう接遇せつぐうにはつとめず、まえ彼等かれら居並いならばせ、挨拶あいさつしたにぎない。そのおり


くもかおせられたものよのう…」


 秋元永朝あきもとつねともからそう厭味いやみを言われれば、


内心ないしんでは大納言だいなごんさま薨去こうきょねがいながら、さも大納言だいなごんさまあんじているかのごとくに振舞ふるまい、登営とえいおよぶとは…、その面従腹背めんじゅうふくはいぶりにはこの對馬つしま、ほとほと感服かんぷくつかまつる…」


 松平まつだいら忠郷たださとからはそんな厭味いやみのレベルをはるかにえた暴言ぼうげんかれる始末しまつであった。


 これには流石さすがに「見舞客みまいきゃく」の一人ひとり奏者番そうじゃばん安藤あんどう對馬守つしまのかみ信明のぶあきらとそれに義弟ぎてい松平まつだいら主計頭かずえのかみ武寛たけひろ見咎みとがめた。


 松平まつだいら武寛たけひろ意知おきともおなじく、ちち松平まつだいら右近将監うこんのしょうげん武元たけちか老中ろうじゅう、それも筆頭ひっとう首座しゅざにあるため雁間がんのま詰衆つめしゅうかぞえられ、しかも武寛たけひろうえ実姉じっし―、武元たけちか四女よんじょ安藤あんどう信明のぶあきらもとしていたのだ。


 ともあれこの義兄弟ぎきょうだいからの「クレーム」について、秋元永朝あきもとつねともにしろ松平まつだいら忠郷たださとにしろ、


「どこかぜ…」


 そのよう態度たいど決込きめこんだ。


 信明のぶあきらとは相役あいやく秋元永朝あきもとつねともかく大目付おおめつけ松平まつだいら忠郷たださとまで奏者番そうじゃばんたる安藤あんどう信明のぶあきら松平まつだいら武寛たけひろ義兄弟ぎきょうだいたいして、こと安藤あんどう信明のぶあきらたいしてそのよう不遜ふそんきわまる態度たいどるとは尋常じんじょうではない。


 百歩譲ひゃっぽゆずって意知おきともおなじくいま部屋へやずみである武寛たけひろれきとした旗本はたもと、それも大目付おおめつけ松平まつだいら忠郷たださととでは忠郷たださとほう格上かくうえやもれぬ。


 だが、それにして安藤あんどう信明のぶあきらはと言えばかりにも大名だいみょうなのである。


 官位かんいにおいては成程なるほど安藤あんどう信明のぶあきら従五位下じゅごいのげ諸太夫しょだいぶと、松平まつだいら忠郷たださととは同格どうかくであるものの、忠郷たださとはあくまで旗本はたもとである。


 そうであれば忠郷たださと信明のぶあきらたいしてかしず必要ひつようこそないものの、それでも最低限さいていげん礼儀れいぎわきまえねばなるまい。


 だが実際じっさいには忠郷たださと信明のぶあきらかろんずる態度たいどかくそうともしなかった。


 これは余程よほどのことであり、


忠郷たださと背後バックには安藤あんどう信明のぶあきら以上いじょう大物おおものひかえているから…」


 そう予期よきさせ、信明のぶあきらとそれに義弟ぎてい武寛たけひろもそうとさっすると、この2人もそれ以上いじょうつよくは言えなかった。


 すると忠郷たださとはそれをいことに、秋元永朝あきもとつねとも一緒いっしょになってさら意知おきとも甚振いたぶったのであった。


 そのかん意知おきともはずっとえていた。いや生死せいしさかい彷徨さまよ家基いえもとのことをおもえばなんともなかった。


 こうして意知おきとも家基いえもとえず、秋元永朝あきもとつねとも松平まつだいら忠郷たださと厭味いやみ


にもつかぬ僻事ひがごと…」


 まさにそれを受流うけながしてむなしく下城げじょうおよび、いまいたる。


 そして、昼八つ(午後2時頃)のいま意知おきとも白昼夢はくちゅうむを、それも家基いえもと姿すがたたのだ。


 家基いえもと意知おきとも微笑ほほえむと、ぐにその姿すがたしたのだ。


大納言だいなごんさまっ…」


 意知おきとも家基いえもとくちにし、その姿すがたとらようと、ばした瞬間しゅんかん家基いえもと姿すがたえた。


大納言だいなごんさまわねば…」


 ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※


 ひるの八つ半(午後3時頃)を四半しはんとき(約30分)もぎ、あと四半しはんとき(約30分)で夕七つ(午後4時頃)になろうかというときであった。


 初崎はつざき西之丸にしのまるおく医師いし小川おがわ玄達子雍げんたつたねやすから附子ぶす(トリカブト)のどく河豚フグどく受取うけとった。


 この時間帯じかんたい、それも種姫たねひめへと付添つきそいを交代こうたいする直前ちょくぜん家基いえもと附子ぶす(トリカブト)のどく河豚フグどくとをふくませれば、種姫たねひめ付添つきそいの時間帯じかんたいどく現出げんしゅつ河豚フグどく無害化むがいかされ、附子ぶす(トリカブト)のどく効目ききめあらわれて家基いえもと今度こんどこそいたるであろう。


 小川おがわ子雍たねやすはそのため附子ぶす(トリカブト)のどく河豚フグどくとをふところしのばせて西之丸にしのまる登城とじょうしたのだ。


 無論むろん一橋ひとつばし治済はるさだたくされたからであり、つまりは小川おがわ子雍たねやすもまた「一橋派ひとつばしは」、「治済はるさだシンパ」であった。


 それは3年前ねんまえの安永5(1776)年の6月にまでさかのぼる、


 安永5(1776)年の5月の中頃なかごろ家基いえもと麻疹はしかにかかり、くる6月の3日に全快ぜんかいした。


 家基いえもとのこの麻疹はしか全快ぜんかいへとみちびいたのは表向おもてむき、西之丸にしのまるおく医師いし小川おがわ子雍たねやすということになっているが、実際じっさいには当時とうじから西之丸にしのまるおく医師いしであった吉田よしだ桃源院とうげんいん善正よしまさとそれに、当時とうじ本丸ほんまるおく医師いしであったもり養春院ようしゅんいん當定まささだ、そして当時とうじいま本丸ほんまるおく医師いし池原雲伯良誠いけはらうんぱくよしのぶの「チーム」医療いりょう賜物たまものであった。


 家基いえもと麻疹はしかかかるや、まずげたのが小川おがわ子雍たねやすであった。


 小川おがわ子雍たねやす西之丸にしのまるおく医師いしとして家基いえもと近侍きんじ、その健康けんこうあずかるものとして、


是非ぜひとも大納言だいなごんさま療治りょうじたてまつたく…」


 将軍しょうぐん家治いえはるにそう願出ねがいでたのであった。


 子雍たねやすちち小川おがわ玄孝げんこう永錫えいしゃく人物識見じんぶつしきけんともすぐれていたものの、そのせがれ子雍たねやすともなると、く言えば「未知数みちすう」、わるく言えばいささ問題もんだいがあった。


 たとえば萬壽ますひめ生誕せいたんしたおり当初とうしょ初崎はつざき乳人めのとつとめたのだが、萬壽ますひめ初崎はつざきちちきらい、そこで大久保おおくぼ志摩守しまのかみ忠翰ただなり妻女さいじょ室津むろつへと交代こうたいしたのだが、そのさい小川おがわ子雍たねやす初崎はつざきから室津むろつへと乳人めのと交代こうたいさせることに強行きょうこう反対はんたいしたのであった。


 それも医師いしとしての料簡りょうけんからではなく、かねころんだにぎない。


 つまりは小川おがわ子雍たねやす初崎はつざき買収ばいしゅうされ、


「このまま初崎はつざき乳人めのとまかせるべき…」


 そう主張しゅちょうしたにぎないのだ。


 無論むろん家治いえはるもまさかに小川おがわ子雍たねやす初崎はつざき買収ばいしゅうされていたなどとはいまらないままだが、子雍たねやす強行きょうこう反対はんたいしたために、初崎はつざきから室津むろつへの乳人めのと交代こうたいおくれ、家治いえはる不興ふきょうい、しばら御城えどじょうへの出仕しゅっしめられたことがあった。


 かる経緯いきさつがあり、家治いえはるとしては小川おがわ子雍たねやす愛息あいそく家基いえもと麻疹はしか治療ちりょうまかせることに不安ふあんおぼえたものの、それでも子雍たねやす熱意ねついけた。


子雍たねやすおそらくは汚名おめいそそごうとしているのであろうぞ…」


 家治いえはる好意的こういてきにそう解釈かいしゃくして、いささかの不安ふあんおぼえつつも、小川おがわ子雍たねやす家基いえもと治療ちりょうまかせることとしたのだ。


 だが結果けっか惨澹さんたんたるものであった。


 家治いえはる不安ふあん見事みごと的中てきちゅう小川おがわ子雍たねやす家基いえもと快復かいふくみちびくどころか、その病状びょうじょう悪化あっかさせただけであった。


 このままでは家基いえもと生命いのちあやういと、家治いえはるは「選手交代せんしゅこうたい」をめいじた。


 すなわち、吉田よしだ桃源院とうげんいん善正よしまさもり養春院ようしゅんいん當定まささだ、そして池原雲伯良誠いけはらうんぱくよしのぶという「ドリームチーム」で家基いえもと治療ちりょうたらせることとした。


 だがこの「ドリームチーム」をもってしても、家基いえもと治療ちりょうには苦労くろうした。


 それもこれも小川おがわ子雍たねやす益体やくたいもない治療ちりょう所為せいである。いや、それは最早もはや治療ちりょうともべず、これならなにもしないほうがマシであった。


 ともあれ「ドリームチーム」の治療ちりょう甲斐かいあって、家基いえもとなんとか麻疹はしか危機ききからだっしたのであった。


 家治いえはるは「ドリームチーム」をねぎらうと同時どうじに、小川おがわ子雍たねやすばっしようとしたが、しかしそれは吉田よしだ善正よしまさら「ドリームチーム」の総意そういとして反対はんたいされた。


「ここで小川おがわ玄達げんたつめをばっしますれば、上様うえさま判断はんだんあやまりがあったことをおみと目あそばされることになり、また、西之丸にしのまるおく医師いし権威けんいにもきずきますれば…」


 吉田よしだ善正よしまさより「ドリームチーム」の総意そういとしてそう反対はんたいされたのであった。


 家治いえはるとしてもおんある吉田よしだ善正よしまさからそう意見いけんされれば、これを無視むしすることは出来できず、小川おがわ子雍たねやすばっすることはせず、それどころか断腸だんちょうおもいで子雍たねやすたいして、


家基いえもと麻疹平癒はしかへいゆこうあり…」


 そうしたのであった。これは「ドリームチーム」の一人ひとり池原良誠いけはらよしのぶ助言じょげんによるものであった。


 小川おがわ子雍たねやす家基いえもと麻疹はしか治療ちりょうたったのは周知しゅうち事実じじつであるので、その子雍たねやすなん褒美ほうびあたえなければ、子雍たねやすの「医療いりょう過誤ミス」をみとめることになると、池原良誠いけはらよしのぶ家治いえはるにそう進言アドバイスをしたのであった。


 そこで家治いえはるきわめて不本意ふほんいではあったが、小川おがわ子雍たねやすめてやることにしたのだ。


 ただしそれだけであり、「ドリームチーム」にたいするよう黄金おうごん時服じふくあたえたりはしなかった。


 爾来じらい小川おがわ子雍たねやす家基いえもとからとおざけられた。これは家治いえはるめいによるものだが、家基いえもと自身じしんおのれいのち危険きけんさらした小川おがわ子雍たねやすたいしてはっきりと不信感ふしんかんおぼえ、近付ちかづけなかったのだ。


 小川おがわ子雍たねやすはこのことで家治いえはる家基いえもと父子ふし逆怨さかうらみし、一橋ひとつばし治済はるさだがそこに付入つけいったのだ。


 かくして小川おがわ子雍たねやすは「一橋派ひとつばしは」、「治済はるさだシンパ」となり、治済はるさだの「謀叛むほん」にすことにしたのだ。


 初崎はつざきおのれ家基いえもと枕頭ちんとう付添つきそおりには陪席ばいせきさせる医師いし小川おがわ子雍たねやすにしてしいと、やはり於千穂おちほかたたのみ、於千穂おちほかた小川おがわ子雍たねやすうでには不安ふあんおぼえていたものの、それでも初崎はつざき申出もうしでなればと、これを差許さしゆるしたのであった。


 こうして小川おがわ子雍たねやす初崎はつざきとも家基いえもと枕頭ちんとう付添つきそうことが出来でき、のみならず、今正いままさに、家基いえもとおのれ持込もちこんだ附子ぶす(トリカブト)のどく河豚フグどくとを初崎はつざきによりふくませようとしていた。


 するとそのときであった。家基いえもとせる新座敷しんざしきのすぐとなり部屋へやであるつぎから悲鳴ひめいがった。


 つぎにもまた、家基附いえもとづき御客会釈おきゃくあしらいにして「一橋派ひとつばしは」、「治済はるさだシンパ」の砂野いさの笹岡ささおか山野やまの花川はなかわひかえていた。勿論もちろんまえ部屋へやである新座敷しんざしきにて初崎はつざき見事みごと家基いえもと仕留しとめさせるためであった。


 さいわいにも家基いえもとまくらならべる於千穂おちほかた熟睡じゅくすいしていた。


 これで家基いえもと毒殺どくさつにはなん支障ししょうはないはずである―、つぎひかえる砂野いさのたちがそう確信かくしんした瞬間しゅんかんすなわち、いまにも初崎はつざき家基いえもとくち附子ぶす(トリカブト)のどく河豚フグどくとを混入こんにゅうしようとしたその瞬間しゅんかんであった。


 つぎなん意知おきともが「乱入らんにゅう」したのであった。


 その意知おきともだが、白装束しろしょうぞくまとうていた。

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