03.
妙な沈黙があった。
言いたいことを言おうとして――だけど言えない、沈黙があった。
切り出さなきゃいけないのは、多分、俺の方だ。今日はありがとうございました。また連絡しますね。帰り、気をつけてください。奥さんによろしく……
それが、ひとつも、言葉にならない。
悔しいとか、恥ずかしいとかじゃない。諦められるものは、全部諦めたから。
ただ、悲しいのだ。これ以上諦められるものが、ないってことが。
「
しばらく沈黙が流れた後、不意に賢治さんが口を開く。
「握手しよう」
「は、握手?」
「そう、握手」
妙な提案に変な声が出たが、この人は本気らしかった。誠実なサラリーマンみたいに――実際もそうらしいけれど――俺に向かって手を差し出して、握手を求めてくる。
長い指に中肉の、大人の手。昔これよく握ってたなぁ、と思った。大人っぽく骨張っているけれど、肌も爪もまだピカピカで、なんだかやけに、たくましくて。
そんな風に数秒、手を見つめて、やっと握った。俺の手が彼の手の中に滑り込み、指紋と指紋がこすれあって、乾いた手と手が重なり合う。その重なり合う面積が最も大きくなった瞬間、彼は俺の手を握りしめた。
彼の手は、子供みたいに温かかった。
「でかくなったなー」
「手、温かいですね。眠いんですか?」
「はは、かも」
昨日まで出張だったんだっけ。
「それじゃあ、行くよ。お茶、ごちそうさま――」
賢治さんの手の力が緩くなった。
反射的に、俺は握る手に力を入れた。
賢治さんと目が合う。
「あ……いえ」
「ん?」
「その……」
好きだったなぁ。
この人が好きだった。ちょっとばかで、お人好しで。この人を困らせて、本気で悩んでくれるのを見るのが好きだった。こっちがちょっと喜ぶと、この人はほっと微笑んでくれて。それを見るのが好きだから、何を話していても楽しくて。
でもそれも、今だけはおしまいにしておこう。
「結婚おめでとうございます、賢治さん。そっちこそ、お祝いさせてくださいね」
賢治さんがちょっと目を開いて、そして、笑った。
ああ、ありがとう、と彼は答える。本当に嬉しそうにしている様子を見ると、ああ、自分の選んだことは、間違いじゃなかったんだなと思える。満足だ。
やっぱりこの人が好きだ。この人が嬉しそうにしていると、俺も、嬉しい。
引っ越しの準備を続けよう。部屋、探してないけど。
これから新天地に行く。新しい人に出会って、新しい生活を始める。
やりたいことがあるんだ。もっといろんな場所に行って、いろんな世界に触れてみたい。いろんな人に出会って、自分の好きなものに、「好きだ」と伝えたい。自分の家族や友人の話もしたい。そして教えてほしい。世の中にいる、たくさんの人たちのことを。
それは、この町や、合格した大学の中だけの話じゃなくて……例えば、海外とか――
そんな話をしたら、母さんたちは驚くだろうか。
じゃない。まずは、まずは、引っ越し。準備だ、段ボール。ここに詰めていこう。勇気も思い出も、何もかも。だからこの話は、いったん終わり。
しばらくさよならだ。季節が巡ったら、また迎えに行くから。
段ボールに夏服と溜息を詰めると、その口をガムテープで閉じた。
(おしまい)
決して兄弟などではなく 吉珠江 @yoshitamae
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