俺たちはどう生きるか

東蒼司/ZUMA文庫

俺たちはどう生きるか

 君たちはどう生きるかという問いには未だ解が出ていない。

 私は宮崎駿の狂信者でも、吉野源三郎に感銘を受けた知識人でもない。

 さりとてホモサピエンスの端くれには違いない。思考を研ぎ澄まし人生の主軸を自覚しなければ就活で太刀打ちできぬ。


 私は大学2年生。

 とはいえ2月も終わりのこの時期では、ものの1ヶ月で3年生になる。3年からは専攻分野に命を賭す憐れで儚い学生生活が始まる。始まらない者は底抜けに明るい阿呆である。逆説的に私は底抜けに暗い賢者である。

 Z世代を憎悪する点がその意を「陰キャ」の一語に集約することにあるがそれはどうでもよい。


 冒頭の問いに戻ろう。

 君たちはどう生きるか。


 それはひとえに言い含められはしない。あまねく人間は多面体であり万感交々至る哲学の集合体であるからだ。

 そして私を分解したとき、現れるのは陰湿妨害道連れ等々様々な負の側面を孕む男。私から邪知暴虐の姑息さを取り除けば、後に残るのは第一三共胃腸薬を手放せぬ童貞である。


 今ここに記すのは私が大学生になってからの2年間をどのように過ごしてきたか。その感涙必死悪戦苦闘の風雲録である。

 学問に精を出さず恋愛に精を出さず運動に精を出さず、酒と煙草と麻雀を慎ましく嗜みながらもキャンパスにひしめく学生らに刺激をもたらした記録。

 私への毀誉褒貶の甚だしさはゼレンスキーさながらの様相であり、かといって東欧の大統領ほどの器はないのだが、ある局所的なエンターテインメントという意味ではカルト的な人気を誇ってもいる。

 刮目して読まれたし。



 学び舎の門戸をくぐった私は期待と不安に胸を膨らませる天衣無縫の若人であった。

 出生から第二次性徴期に至るまでを日陰に生きた私だが、学府での研鑽を経て陽光に照らされる愉快な新人類も同然であった。

 しかしそれは可能性の話に過ぎぬ。巷ではオタクが人権を得たなどという噂がまことしやかに囁かれているがそれは悪質なデマである。


 ゼミナールのコンパで酒を飲んでは嘔吐しサークルのコンパで酒を飲んでは嘔吐しスタートダッシュに出遅れた同胞たちとのコンパで酒を飲んで急性アルコール中毒で運ばれた。

 2日の入院生活を経て講義室へ戻ったが時既に遅し。


 最早私に居場所はなく教授とルーズリーフが話し相手となる日々。ここで学問に明け暮れていれば堅物なりの充足感があったのだろう。

 しかし私は怠惰であった。


 我らが学部の同期は総勢150名からなる少数精鋭である。そのうち十数名は早くも大学にストライキを起こした傑物だ。

 学部内には大規模かつ陽気なグループが2つあり、構成員だけで実に50には達するであろうその巨大組織が全てを支配していた。

 せめて東西冷戦が如く睨み合いをしていれば見物であったが、残念ながら彼らは資本主義に生きる文明人である。米露が手を取り合った世紀末にあっては日陰の小国に生き残る術などない。


 とりわけ各グループでも目立つ中心的人物同士は絆の契りを結び、大学の全てを手中に収めんと目論んでいるようだった。彼らは安倍晋三とドナルド・トランプもかくやの蜜月関係を築いたのだ。「望月」と「藤原」という男である。


 竈門炭治郎に負けず劣らずの人気と名声を誇る彼らは男子学生からの羨望と女子学生からの誘惑を得て大学生活を謳歌していた。

 私のような日陰者は妬み僻みの眼差しを向けてはいたが、彼らは反乱因子の匂いを嗅ぎつけるや否や人懐こい笑みと甘い声色で近付き、あろうことか自分たちの陣営に引き込んでいた。


 いつしか私のように孤軍奮闘を続ける無双の者は数えるほどとなり、望月藤原の組織を訝しみ敵対する者たちが一様に偏差値の低さを露呈していることから彼らグループの名は「ワクチン」と呼ばれるようになる。

 ここに青春群像劇の趨勢は決したかに思えた。


 事件が起きるのはその夏である。



 納涼会と称してコンパが企画されたのは7月の初旬であった。

 決起人が望月と藤原のどちらなのか定かではないが私には縁遠いという点で何ら変わりはない。

 期末テストやらレポートやらで忙しなくなるキャンパスはコンパの話題で持ち切りになり、一説によるとダイヤモンド・プリンセス号を借りてCOVID19に奪われた実存を取り戻さんという不埒な野望を叶えるらしいが、誘われていない私に真偽を確かめる術はない。


 その日も私は教授の話を熱心に聞きルーズリーフに書き起こすパフォーマンスに耽っていた。


「随分と勉強熱心だなあ」


 何者かが声を掛けてきたのは講義も終わり学生たちが蜘蛛の子を散らすように退散していた時である。

 私との対話を試みるとは何たる剛毅であろう。彼の甘美なる声色はAdoをも凌駕せんばかりに思われた。


「それは皮肉か?」


 しかし安易に隙を見せる私ではない。警戒すること国連のごとし。


「いや素直な感想だよ」


 懐疑心のままに顔を上げると、そこにはジャニーズ事務所改めスマイルアップ事務所さながらの爽やかな風貌を纏う美男子がいた。


「何か用か」

「きみいっつも一人でいるよね」


 彼にはパーソナルスペースなどという概念が存在しないらしい。

 例えるなら露出した歯茎の神経にチゲ鍋を丹念に練り込むようなものである。心の竹島を占領するなど不埒千万極まりない。

 が、それを指摘する気概もないのだから私も外務大臣もさして変わらないのである。


「放っておけ。一人が好きなんだ」

「嘘だ、そんな奴はいない」

「……何か用か」


 同様の質問を重ねるのは得策ではない。

 しかしここでの私は冷静ではない。


「悪戯の仲間を探してる」

「悪戯だと? 小学生じゃあるまいに」

「来週に学部生全員が集まるコンパがあるんだけど、どうせ誘われてないだろう?」

「誘われていないんじゃない。断っただけだ」

「嘘だ」

「嘘じゃないぞ」


 そうだ嘘じゃない。


「あれは誘って人を集めるんじゃないからな。望月と藤原っていう奴らが打ち立てた企画に、学内中の馬鹿どもが大手を振って乗っかってるんだ。はなから誰も誘われちゃあいない」


 まんまと嵌められた屈辱と共に2人のカリスマへの畏怖が込み上がってきた。

 そして両者を一瞬にして与えるこいつは一体何者なのだ?


「お前はなんなんだ?」

「僕は三条って言うんだ。貴族っぽい漢字を思い浮かべてよ」

「貴族ってよりかは公家のイメージだが……」

「その三条」


 自らを貴族と名乗る自意識には感服する他あるまい。

 私は恥も外聞もなく「……坂東だ」と苗字を晒す羽目になった。


 三条の言う悪戯とは、平たく言うと望月と藤原の企画するコンパに乗り込んで何もかもを台無しにすることであった。

 ダイヤモンド・プリンセス号とされていた会場は正しくは新宿にあるダイニングバルに過ぎなかった。100名以上の学生を押し込めるほどのキャパシティがあるのか甚だ疑問である。

 それに対して三条は「テナント丸ごと貸し切りらしいからね。一階から屋上まで全部使えるよ」とつらつら述べた。

 あまりに内情を知り過ぎているため一時は内通者ではあるまいかと疑ったが、コンパのLINEグループに所属しているというのが真実であった。


「坂東も入りなよ」

「断る。まるでコンパへ行きたくてたまらなかったみたいじゃないか」


 残された猶予はわずか1週間。

 限られた時間内で最良の結果を得るべく、私たちは日夜三条の部屋で作戦を練った。

 爆竹を投げ込もうという半グレの出来損ないのごとき所業では望月藤原から成る桂園時代さながらの牙城は崩せまい。

 かといって彼らにはスキャンダルがないので失脚させること能わず。飲料に眠剤を仕込んでやろうとも思ったが化学の知識に乏しい。


「何の策もなく悪戯なんて企んでたわけか?」


 ある晩にストロングゼロを片手にカルパスをつまみながら、私は三条に問うた。


「考えるより先に動く方が成功するものだよ」


 彼は部屋の主のくせして指先に付いた油をベッドシーツで拭った。家主の端正さに違わず三条の部屋は整然とされていて仄かな清涼感さえ含んでいる。

 私のような不躾の衆がおいそれと足を踏み入れるのも躊躇われ、負い目のままに胸中の微かな懸念を訊ねることにした。


「そもそもなんで俺を選んだんだ。いつも一人の人間なんて他に誰でもいるだろうに」

「声掛けてるよ。乗っかってきたのが坂東だけって話」


 そうと言われたら仕方がないがモヤモヤと失望のような感覚に苛まれる心もまた私である。


「お前は望月と藤原に恨みでもあるのか?」

「あるよー。なんか王様気取りでムカつくし」

「動機はそれだけ?」

「後はあいつらの彼女両方寝取ってるからさ、俺も俺で恨み買ってるんだよね」


 ようやく私はとんでもないろくでなしの助太刀をしていることに気付いたが時すでに遅しである。

 三条を裏切って望月藤原の側へ離反する覚悟など私にはない。



 初夏の風が肌を撫でる土曜日の夕刻。

 私と三条は新宿駅東口で落ち合った。互いに両手いっぱいの紙袋を提げ、背中にはトラベル用のバックパックを背負っている。


「覚悟は?」

「そんなものいらん」

「決まってるね」



 今宵、我々は望月藤原のコンパに侵入する。その目的はひとえに混沌を持ち込むことであるが、では具体的に何をするのか。


 大胆にして緻密な作戦はないが、代わりに小手先の道具をこれでもかと持ち込んでいる。クラッカー、大音量スピーカー、扮装用マスク、ルームフレグランス、タバスコ、味の素、ドライアイスなどなど。

 三条と共にアイデアを練ってリストを作成した時には中学生Youtuberかのようなラインナップに愕然としたが、引っ込みの付かぬ事態を招くことだけは避けねばならぬが故の苦肉の策である。


  歌舞伎町へ入って路地を何回か曲がった先に目当ての店はある。

 ダイニングバルというくらいだから洒脱した明るい店を浮かべていたが、実際にあるそこは蛍光ピンクのネオンに照らされた品格のないビルだ。


「ここなんだな?」

「いよいよだね」


 伸びやかに言う三条はまるで他人事のようである。


 店には既に多くの学生が到着しているらしい。

 中からは騒々しい歓声がしきりに聞こえ、出入口では多くの学生が行き交っている。彼らは大荷物を抱える我々を見て、眉をひそめたり鼻で笑ったり様々である。要するに嘲笑の的となっているようだ。

 今に見ていろ、と思った。


「よし……!」

「待てよ」


 意を決して乗り込もうとしたそのとき、不意に三条が私を制した。


「な、今さらビビったとでもいうのか!」

「そんな大荷物抱えて行ったら怪しいだろう。その辺に袋とか置いて、道具は小出しにしていくんだよ」

「最初からそのつもりだ」


 嘘だ。


 我々は紙袋を出入り口に放り、ボディバッグに簡単な物を詰めた。軽装になった私たちはようやく店内へ足を踏み入れる。

 階段を登って3階へ。本来は2階の受付で身元を照会されるらしいが、これから重ねる悪行を思うと敢えて匿名でいることが望ましい。

 我々は静かに望月と藤原の姿を探した。


 最大にして原初の目的はなんと言っても二大巨頭への嫌がらせである。

 カリスマを機能不全に陥れさえすれば待ち受けるのは終わりなき悪夢である。我々は地獄の使者。まずは頭を攻撃しなければならない。


「僕はここから下に行く。坂東は上を探してよ」

「見つけたらどうする?」

「何のためにタバスコ持ってきたんだい?」


 我々は二手に分かれて望月藤原の捜索に当たった。

 雑居ビルの無機質な階段は、一段一段踏むごとに金属が鈍く軋んだ。こうして建築物の骨子に身を置いてみると、ビル全体が一つの飲食店である歪さが浮かび上がってきた。

 東京都心の一等地で、4階まである建物を丸ごと買い取るとは豪胆な商売魂の持ち主である。店主の顔を見てみたい。大学生のコンパの為に一夜の粉骨砕身を決意するのだから、さぞや愚直な人間なのだろう。


 4階へ辿り着くと、煙たい空気と共に静かな洋楽が流れて来た。

 店内はクリーム色の内壁と観葉植物に彩られていて、天井では大きなファンが回っている。学生の多くは彫りの薄い顔立ちをしていて、私ですら近しいシンパシーを感じる連中ばかりであった。

 皆が煙草を吸っていた。彼らの本質はマジョリティになびく軟弱者である。誰とも目を合わせずに闊歩した。


 狭い店内には低いソファと低いテーブルが敷き詰められている。卓上に並ぶのは薄いクラッカーに薄い野菜スライスに薄いハム。

 なんと質素な空間であろう。飛び交う会話も控えめで、おおよそコンパには似つかわしくない慎ましさだ。


「あ、あの」


 不意に見知らぬ女子学生が私に話し掛けてきた。心臓が飛び跳ねた。

 不自然に明るい茶髪の、目鼻立ちの低い一重の女である。純白のフードシャツにカーキ色のワークパンツという出で立ちからは、顔つきとは裏腹に溌溂とした印象を受ける。


「何か?」

「受付ってしてますか?」


 想像よりもずっと高くて幼い声色である。


「う、受付……あ、ああえっと」

「二階に行ったら受付ありますよ。ガムテープに名前書くやつ」


 彼女は目を細めて笑った。親切心からくる提言のつもりらしい。

 余計なお世話、とも思ったが何にせよここに望月藤原の姿はない。大人しく屋上へ行こうとして、ふと天啓が降りた。


「受付にはどんな人が?」

「あ、受付は望月くんが」


 これで手間が省けた。


 私はそそくさと2階へ駆け下りた。

 辿り着いたそこは凄まじい熱量のクラブミュージックと野心的に輝くネオンライトから成るギラギラの空間であった。階層が違えば雰囲気も見違える。

 変わるのは空間だけではなく、そこにいる人間もまた金髪だったりピアスが大きかったり露出の多い服を着ていたり、別世界の様相であった。


 受付とやらは入ってすぐの入り口にある。名前負けもいいところの、数台のパイプ椅子にペンと養生テープとコピー用紙が置かれただけの代物だ。

 そこに一人の男が片膝を突いて、ボールペンをしきりに走らせていた。


 彼こそが学部を席巻する二大派閥が一角の頭、望月である。


「ああ、お疲れー」


 望月は俺の気配を察知すると柔和な声を上げた。

 左右にウェーブの掛かったセンター分けの黒い髪に垢抜けた涼しい顔立ちはSNSで酷評される映画で主演を張る俳優と比べても遜色ない。


「あ、どうも。その、ば坂東です」


 かぼそい声を絞り出す私のなんと憐れなことか。

 こんな挙動不審の男相手でも、「坂東くん……おっけ」と快く迎えてくれる坂東は善人に違いない。

 しかし今日この日において善意は無関係である。私は尊い大義を持ってキャンパスに君臨するこの男を打倒せねばならない。世界は性善説で出来てはいないのだ。


「そしたらこのテープに名前書いて分かるとこに貼ってよ」


 指示されるがままテープにデカデカと坂東と書いてシャツの胸元に貼り付ける。

 流れに身を任せて店内へ送り込まれた私は、路頭に迷う鼠のようにフラフラと徘徊した。

 とにかく標的の一人を見つけたのだから、後は仕掛ける他あるまい。


 が、先んじて行なうべきは諜報活動の進捗共有である。三条は何処であろう。彼の姿を探していると、店内の奥で発見した。

 驚くべきことに、彼はソファに腰掛けて金髪の美女とピンクのメッシュが入った美女を両隣に侍らせているではないか。これは一体どういうことか。


「おい三条!」


 たまらず私は声を掛ける。ネオンに照らされる彼の頬はほんのりと赤く染まっている。

 両翼の女も似たようなほろ酔い顔だ。


「坂東じゃん。こいつ俺の友達」

「えーそうなんだ」

「ねえ一緒に飲もうよー」

「お前はどうして普通に楽しんでるんだ!」

「いいじゃん。せっかくのコンパなんだし。お前も飲んでるか?」

「さてはこれが目的だったな?」


 金髪の女が琥珀色の液体が並々入ったグラスを差し出した。口に含んだ途端、アルコールの強烈な臭いと刺激が迫ってくる。

 しかし見知らぬ女子2人を前にして吐き出すわけにもいかないので、内なる闘志のままに飲み干した。


「いい飲みっぷりだ」


 手を叩く三条を本気で殴りつけたくなる衝動を押し殺して金髪の隣に腰掛ける。

 途端に彼女がウイスキーをなみなみ注ぎ、自身のグラスを「かんぱーい」と打ち付けた。彼女がグイッと飲んだので俺も飲むしかあるまい。

 後は先ほどと同様の流れである。


「望月は見つけたぞ」

「知ってる」

「知り合いなのー?」


 まあうん、と金髪の問い掛けには曖昧な返事をする。

 危うく動悸に急かされて私の反骨心を宣言してしまうところだった。


「坂東はもう受付行ったんだろう? どうだった」

「どうだったって……まあイケメンだとは思うが」

「そ、彼はイケメン。僕の顔を見ても表情ひとつ変えない」


 私は三条の背負っている業を思い出した。こんな信用ならぬ男の両手に華を添えられている事実が恐ろしくて堪らない。

 この金髪とピンクメッシュのどちらか、あるいは両方が今晩魔の手に掛けられるのだと思うとボディバックの中のタバスコが疼いた。


「お前はこれからどうするつもりなんだ」

「普通にコンパを楽しむよ。君もそうしたらいいさ」

「楽しみ方も分からん」

「学べばいいよ。酒は程々にな」


 三条は出し抜けに金髪の女にキスをした。思わずピンクメッシュの顔を見ると、彼女は赤い顔のまま拍手している。

 なんと、ここはそういう世界だったのか。唖然とする私を置いて三条と金髪はどこかへ立ち去った。

 彼の端正なルックスを以てしてはあのくらい朝飯前ということか。


 のっぴきならない心持ちの置き場を失ったまま、残された三条のグラスにタバスコを入れた。

 そんなことで満たされはしないし、残されたのはグラスだけではない。


「名前なんて言うの?」


 ピンクメッシュが私に声を掛けてきた。


「ば、坂東だ」

「私は小池っていうの」


 小池、という名字は彼女の派手な見た目にそぐわない気がした。

 思わぬ拍子抜けぶりに吹き出しそうになったのを必死で堪えたのだから、まだアルコールに侵されてはいまい。


「坂東くんが望月と友達って嘘でしょ?」

「な、そんなことは……」


 ある。


「嘘だあ。だって君いつも一人でいるでしょ。望月たちといるの見たことないもん」


 いよいよ羞恥に苛まれてこの場から逃げ出したくなった。

 しかし背背中の傷は剣士の恥。相手が洞察に優れる才媛であっても逃げ傷を付けるわけにはいかない。


「まあそうだな。ほら、良い成績取りたくて」

「ええー坂東くんて頭良いんだ」

「まあね」


 嘘だ。


「ねえお酒取りに行かない? 私も空っぽになっちゃったし」

「そ、そうだな」


 小池に先導されて腰を上げる。

 入り口にある受付の向かい側、奥まった位置にバーカウンターが設えられている。キッチンはそこにあった。ルーク・スカイウォーカーがハン・ソロを勧誘した酒場のようなカウンターへ、小池は「ファジーネーブルちょうだーい」と言った。


「あいよ」


 声がしたと同時、ぬっとカウンターから1人の男が顔を出す。

 間違いない、彼こそがあの藤原である。

 アスリートのように彫が深い強面の筋肉質な男。黒地のタンクトップから伸びる両腕はBreakingDownもかくやの逞しさである。


「坂東くんは?」

「じゃあ私も、同じやつを」

「えー違うのにしなよー」

「ん、では……シャンディガフ」


 私はビールが好きではない。


 藤原は「シャンディガフね」と復唱し、私たちのグラスを受け取った。

 彼が酒を作るまでの間に静かな時間が訪れる。クラブミュージックの喧騒と煙草の臭いが満ちていた。音楽を支配するためにスピーカーを用意し、匂いを乗っ取るためにフレグランスを買っているが、全ては外の紙袋である。

 今の私は丸腰も同然――いや、ここにはタバスコがあるではないか。


「あ、ねえ。そういえばタバスコ持ってたじゃん。なんで?」


 不意に小池に訊ねられた私の緊張感たるや筆舌に尽くし難い。眼前で自分の酒を作っている男に仇なす為であると馬鹿正直に言えようか。

 弁解の言葉を必死に思案するがどれもこれもSDGsと並び立つ胡散臭さである。


「え、なにそれ。ジョークグッズとか?」


 思わぬ助け舟は藤原からであった。

 彼は既に2杯の酒を作り終えて、バーカウンターに両手を突いている。その無垢な笑顔は平生の強面からはまるで想像だにできず、この凄まじいギャップが王者の器なのであろうと思い知らされた。


「そんな感じだ」

「ああーじゃあ三条くんに入れるための?」

「三条が来てるのか?」


 再び藤原が割って入る。

 今度は穏やかな声色ではない。


「ま、まあ……ちょっとした知り合いで」

「あいつには関わらない方がいいぜ」


 言われずとも理解しているし、鬼気迫る藤原の迫力を以てすれば私は容易に屈してしまうのである。

 が、一方で三条を切り捨てられぬ背水の陣を敷いてしまったこともたしか。

 故に私はニヘラヘラと笑いながらその場を去るしかないのである。


 ひとしきり小池と飲んだ後で、私はトイレに立った。

 小便器の前で呆然としていると、出し抜けに個室の扉が開いた。驚くべきことに姿を現したのはズボンを脱いだ三条である。


「やあ坂東。楽しんでる?」

「何のつもりだ貴様!」

「俺はもう一発もらったぜ」

「あの金髪はどうしたんだ」

「いま女子トイレで吐いてるんじゃないかな」

「一体お前は何をしたんだ。いや、そもそも何をしに来たんだ」

「いやー望月藤原は思ったより大人しいし。もういいんじゃないかな」


 もういいんじゃないかな、だと?

 浅井長政に裏切られた織田信長はこんな気分だったのだろう。風雲急を告げる私のような革命児は見る見るうちに離反され、烏合の衆にすらなれないか弱きレジスタンス。場違いな世界に迷い込んだ私を奮い立たせていたのは強靭な反骨心のみであった。

 それすらもへし折られた私に、一体何が残っているというのだ。

 いま目の前に立っているパンツ姿の軽薄男か。


 Don't worry,I'm Wearing.


「バカを言うな!」


 私はパンツを履いて駆け出した。

 脇目も振らずに階段を駆け下り、外に置いたパックパックと紙袋を漁る。被り物で頭部を覆いスピーカーを爆音で起動しフレグランスを全て開封する。ドライアイスとクラッカーをポケットに仕込み、皆に黙ってこっそり用意していた爆竹をボディバッグに詰めた。


 階段を駆け上る。2階の辺りで、ズボンを履き直した三条が口笛を吹いていた。小池が「どこ行くのー?」と言っているのが聞こえる。

 

 しかし私は走った。メロスが如く走った。黒人が人魚になる時代に黄色人種が村の若人になることの何を恐れよう。

 三条の誘いなど捨て置け。

 望月の懇意など忘れろ。

 藤原の破顔など見ていない。

 小池のことなど問題ではない。

 出会いがないならマッチングアプリを始めればいい。

 私がいま最も恐れることは己が信念を揉み消すことである。


 屋上へ駆け込むと、立食パーティーさながらに過ごしていた者たちが一様に私を見た。多くがカップルである。都会の夜景を望みながらロマンティックなひと時を過ごしていただろうに、ドナルド・トランプを模したマスクを被る男の乱入によってムードは台無しになったのである。


 そんなこと知るか!


「ワクチン接種反対いいいいい!」


 私を孤独の亡者に仕立て上げた組織への恨みを愚直に叫びながら、私はドライアイスを撒き散らした。

 たちまち悲鳴が上がる。恐怖は恐怖に違いないが、珍妙怪奇な男が突然喚いて物体を投げ散らしたら誰だって怖いに違いない。

 だがそれでいい。恥も外聞も捨てたのだ。

 続けざまにクラッカーを鳴らした。バチンバチンと空気が弾けて仄かに火薬の匂いがする。同時に地上から立ち上るフレグランスのキメラが香り、嗅覚が未知の反応を示した。遠くの方では私のスピーカーが00年代のアニソンを流し続けている。

 これぞ混沌、これぞ反逆。威嚇行為の手数という点では北朝鮮をも彷彿とさせるであろう。


「見てるかコペルくん!」


 私はあらん限りの腹式呼吸で君たちはどう生きるかの主人公を呼んだ。時代に囚われぬ勇姿を近代の少年に見せてやりたい。

 爆竹に火を点けて天高く放り投げると、色彩を帯びぬ花火が頭上に咲いた。大輪の花はここに満開であった。


 その後は望月藤原が仲間を連れて押し寄せて、不審者扱いの私はたちまち組み伏せられるが、脳内でレ・ミゼラブル「民衆の歌」を流していた私に鮮明な記憶などありはしない。

 いや、1つだけあった。

 群衆の一隅に立って満足気な笑みを浮かべる三条の姿――。



 変化が必ずしも良い結果をもたらさないことはイーロン・マスクが既に証明している。

 学部内に私の悪名が轟いたことは言うまでもないし、厚かましくも出席し続けた私は奇人変人狂人の名をほしいままにした。思春期には異端の存在に憧れたものだが成人した後では胃痛のタネにしかならない。


 こうして私の戦記は終わるわけであり、ついでに第一三共胃腸薬を手放せない生活が続いている理由にも説明がつくのだがそんなことはどうでもよい。


 最後にもう一度だけ冒頭の問いに戻ろう。

 君たちはどう生きるか。

 

 宮崎駿が出した解は「友達を作る」であった。


『明日小池たちとシーシャ吸いに行くけどどうする?』


 三条からLINEが来たので、私はカレンダーを見ることにする。

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