アイデンティティはジョハリの窓に

槻白かなめ

epilogue

 君の夢を見た。……いや、これは過去の記憶か。

 僕はこの光景をよく知っている。これはそう、酷く茹だる日の事。

 ブルーソーダに沈めたソフトクリームのように分厚い入道雲が我が物顔でふんぞり返っていた、あの清夏。

 僕は、教室の窓を開けて窓枠に肘を置き、柔らかなそよ風に目を細めていた。

 僅かな風は真綿の揺りかごのように僕に心地良さを与えてくれた。

 額に滲んだ汗がこめかみから顎を伝って滴り落ちたのを気にも留めず、ひたすら揺りかごに身を預けていた。


 ──ああ、そうだ。

 僕は思い付きで「雲の陰影は月面のクレーターに似てるよな」なんて、空を見上げながら言ってみたっけか。

 それに対し君がどういう反応をしていたか、どう返してきたか、手繰り寄せるにはあまりに遠くて亡失してしまっているけれど、君のことだ、きっといつもの仏頂面で、いかに素っ気なくても律儀に答えてくれたに違いない。君は、そういう人だったから。


 遠くで藤棚の花序が揺れている。

 大樹の元に慎ましく佇み、嫋やかに微笑む淑女のように咲いている、藤の花。木々の合間から劈く蝉時雨を掻き分けて君の吐息だけを選別するのは、一般的に言ってこの上なく難しい所業だということを知っていた。

 他の人だったらきっと気が付かないか、もしくは君の口から洩れる吐息をとらえて喋ったことまでは分かったとしても、取り零した言葉を彼に今一度尋ねるだろう。

 しかし僕は昔から耳だけはよかったから、君が紡いだ吐露を聞き取ってみせた。


 教室に備えられてあったピアノの椅子に座る君は、なぞるように指をすべらせて、鍵盤を押し窪ませる。

 こん、こん。と控えめな木を打つ音のひとつひとつが、まるで我が子をいつくしみ、いとおしみ、あやす母親の手のようだと、我ながらにおかしな表現だと思うし適切ではないだろうが、確かにそういう印象を抱いていた気がする。


 僕は、ここでようやっとおもむろに君へと振り向いた。ばらばらに動く君の指先を目で追う。

 やや痩せ細ばった無骨な指がゆっくりと違う早さで盤上を左右に行き来する。

 さて、この曲の題名はなんだったか。まあいい。とにかく僕は、そんな知っている人なんてそうそういないようなマイナーな曲を選ぶ君のセンスは嫌いではなかったのだから、とやかく口を挟む気なんてさらさらなかった。

 僕は、君から目を逸らして、また遠くの藤棚を見詰める。そうしながら、ただ君が弾いている音を聞いていたかった。それだけだった。

 ──……なのに。


 突如、君が鍵盤を叩いた。花瓶を大きく振りかぶり、そして乱暴に叩き割った音に、とてもよく似ていた。

 がなる不協和音に僕はたいそう驚き、反射的に振り向く。

 遠くに咲いていた藤の花は、瞬きひとつの間に至極おぞましい色へと変貌していた。

 君の炯眼が僕の心臓を鋭く、深く射抜いた。

 君が足元に散らばった破片をゆっくりとした動作で拾い上げると、手に取ったそれは瞬く間にナイフへと様相を変えた。

 ──君の唇が、生々しく動いた。

 

「君のせいだ。」

 

 ■■■


 目が覚めると、見知った天井だった。

 薄暗い自分の部屋。


 ──夢だったのか、と。

 夢から浮上したばかりの頭の中でぼんやりと理解して、それから目線を真っ直ぐ向けたまま深呼吸をした。

 ──聞こえるのは、己の呼吸音、心臓の音、時計の針が進む音。鳥のさえずり。カラスの鳴き声。エンジン音。近所の子供がはしゃいでいる声……。それだけだ。

 あの耳を打つ蝉時雨も、彼が紡いだ声も、音も、跡形もなく消えていた。……それもそのはずだった。


 夏はとうに過ぎたというのに、やけに身体は熱っぽく、汗がまとわりついている。頬に手の甲を押し付け、ふと己の手を──刺傷を見つめた。

 

「……桔梗。」

 

 声は、驚くほど酷く嗄れていた。

 

 

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