星喰

adotra22

第1話

 深夜三時。

 傲慢に昼を照らす太陽は、今は雲の奥にまどろみ、空の支配権を月と星が譲り受けていた。

 静寂の空に、星々は綾なす刺繍のように瞬き、まるで眠りを誘う子守唄のように淡く、静かに降り注ぐ。

 時おり遠くで車のエンジンがくぐもった音を立てるほかは、何もない。とくん、とくん、と、胸の奥の音だけが一定に、世界を測るように鳴っていた。僕が吸い、吐く。空気が肺を出入りするその律動までもが、部屋の中の音だった。


 気だるげに身を包む毛布の隙間から手を伸ばし、ドロップ缶を探る。

指先が触れたそれは、夜の底にひとつ音を落とすように、カラリ、と乾いた音を立てた。甘い星のかけらが口の中に転がり込む。舌先でそっと弄ぶうちに、喉の奥にふっと小さな流れ星が飛び出した。

 ──命が、口から抜けていくようだ。

 子供だましのような幻想に、僕はなぜだか胸をひかれる。


 あといくつ、命の星を吐き出したら、僕はこの目を閉じたまま開かなくなるのだろう。

 この平らな胸を叩く心臓は鼓動を止め、酸素とともに夢を吐き出すこともなくなるのだろうか。


 時間はゆっくりと、まるで遠くからガラスの靴を運んでくる王子のように歩いてくる。

 世界はひそやかに何かを変えようとしていて、流行も噂も、羽のように軽やかに空を舞い、そして誰にも気づかれぬまま地面に降りていく。

 そこはまるで、時代に取り残された羽たちの墓場だ。


 再びドロップをひとつ。今度は、先ほどよりも丁寧に舌の上で転がす。

 飴の甘さが、まるで言葉を忘れた記憶のように、静かに溶けていく。

カーテンのない窓辺から、月の光がそっと侵入してきた。

 まるで初めて殿方の部屋に足を踏み入れた淑女のように、恥じらいながら、そろりと部屋の隙間を覗き込んで。


 月の光は、怯えた子猫のように部屋を見渡し、ベッドに身を潜める僕を見つけると、それはそれは可愛らしく跳ね上がり、次の瞬間、ぴたりと硬直した。

 僕はドロップを舌の上に残したまま、ベッドから体を起こし、光に向かって手招きをする。

 月の光は、我に返ったようにすこしずつ僕に近づき、ベッドの端に留まった。


 そこで僕はひとつ、口を開く。

 流れ星がまた、小さな弧を描いて飛び出した──その瞬間。


 月の光は天井を突き抜けそうなほど高く跳ね、もし声があったなら、それは叫びに近いものだっただろう。

 けれど次の瞬間、光は静かに、何の音もなく砕け散った。


 僕はベッドから降り、砕けたそれを両手ですくい上げる。

 ガラス細工のような光の破片は、部屋の暗がりの中で微かな火花を散らし、手のひらの上で小さく燃えているようだった。

 けれどその温度は、驚くほど冷たかった。命のようでいて、命ではない。


 ふいに、口の中で何かが暴れ出した。

 吐き出すと、小さな流れ星のかけらがころりと床を跳ね、

 やがて手のひらの上の月の光の残骸にぴたりと重なった。


 僕は窓辺へ向かう。

 鍵を外し、音を立てぬよう窓を開けると、遠く、地平の向こうから朱色を纏った女王がゆっくりとその顔を現し始めていた。

 夜の帳がほどけ、紺と紅が溶け合う空に向かって、僕は星と月の残骸をひとつ、またひとつと放る。


 残骸たちは暗い空を、白と黒の光を帯びながら弧を描き、灯台のように空の奥へと駆け上がる。

 その光はやわらかく、脆く、けれどどこまでも美しかった。火花をちらしながら舞い上がり、まるで星々と呼応するように、他の星たちもあとに続く。


 その光景を見た朝の女王は、顔を真っ赤に染め、ビロードの夜を蹴散らすように、まばゆい光を放ってアスファルトを照らし始めるのだ。


―――――


 それからというもの、僕は毎夜、ドロップをひとつ口に含む。

 あの月の光が、また迷い込んでくれるように。

 今度は驚かせないよう、静かに流れ星を吐き出せるように練習しながら、あの命のような光に、もう一度、そっと触れられる日を待ち続けている。

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