1999年 6月 ①

 大学生活にはやくも慣れたらしいちぐさは、まどかといっしょに居酒屋でアルバイトをはじめた。当然、帰宅時間がめっぽうおそくなる。

「ちぐさー、舟の話がききたい」

 たまに大学の授業が終わって直接帰ってくる日しかあづみと顔を合わせることがない。1999年7月を目前に、舟や水没する世界の話は語られることなく弟の胸のうちに堆積していた。

「ちょっと待ってろ、あづみ。俺、風呂入ってくるから」

 リビングでちぐさを待っているあいだにあづみの意識は浮遊をはじめ、そのままソファで眠ってしまう。

 母親にゆり起こされて「あーちゃん、寝るならお部屋で寝なさい」と言われるころには眠気が最優先事項になっていて、目をこすりこすり自室へむかう。そんな日々だった。


 6月さいごの土曜日。珍しく、一日家にいると言ったちぐさは、朝のニュースを見ながらあづみに言う。

「おまえ、海行かねえ?」

「……うみ」

「バイト仲間で海水浴に行くんだけど、ついてこないかって聞いてんの」

 宿題を眺めながらソファに腹ばいになっていたあづみはがばっと飛び起きた。

「いいの?」

 兄がいる、おとなの世界を垣間見ることができる。怖いもの見たさで、おっかない扉に指先が触れたような気がした。

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やわらかな雫がこの世に降れば なぎさ @sui_miya_1208

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