第9話:たとえ、それが実現不可能な絵空事だとしても。
ホームルームが終わり、特に問題もなく一限が始まった。豊富な人生経験による雑談が生徒に人気の、おじいちゃんこと
「
そう言って岩倉先生は座席表を確認し、質問への回答者として叶多を指名した。叶多はきっちり立ち上がって発言する。さすが委員長、真面目だ。
「その原理を実現するために、少数の犠牲は仕方がないとする点です」
「うん、いいね。そんじゃ次は──」
岩倉先生の解説を聞きながら、俺はふと考える。
最大多数の最大幸福。その恩恵を受けられないとするならば、それはいったいどのような人達なのか。答えは至って単純であり、それは一般的に弱者として扱われる層になる。
平等を謳うこの世界でも、未だに差別意識は人々の心の奥深くに根付いていると言っていいだろう。肌の色が違う、思想が違う、信仰する神が違う。最近話題になっている性的マイノリティに関しても、差別までとは言わないがやはり根強い偏見は存在する。
十人十色。素晴らしい言葉に思えるが、それは言い換えてしまえば人の数だけ対立する意見が存在するということだ。
世界全体規模でも多数の被差別層が存在しているのだから、個人の目線に立つならばそれはもっとシンプルになる。
──いじめ。
たった三文字の羅列。言葉にしてしまえばそれだけだが、そこに込められる感情は様々。どんな理由があるにしても決して許される行いではない。しかし、直接的な行動に移さないとはいえ、無意識のうちに他者を見下してしまうことがあるのもまた事実。
ああ、そういえばさっきも俺は柊志に対して……。
そんな自己嫌悪に陥っていると、瀬戸先生の言葉が頭をよぎった。
『他者のことを想い、他者の心に寄り添えるお前らみたいなティーンエイジャー』
『見られていることは大きな強みになる』
ああ、瀬戸先生の言っていることは的外れだ。
他者の心に寄り添える?
そんなことができていたら、今頃こんな自己嫌悪には陥っていない。誰かが『見てくれていた』とて、それは人に『理解された』とイコールではないのだと、そう思った。
今日の帰りに断りの連絡を入れよう。
そう決めた時、凛の顔が浮かんだ。心は痛むが、俺はただの一高校生でしかない。叶多にも言った通り、やはり個人の問題に首を突っ込むべきではない。物語の主人公ではない俺は、決して彼女のヒーローにはなれないのだから。
それでも、ただ一つ気になることがあるとすれば。
なあ、凛。お前の幸福って何だ?
一限が終わった。
無駄に頭を回したせいで全身に疲れが溜まり、眉間を揉みながら体を弛緩させる。すると、隣の席から声がかけられる。見なくてもわかる、優の声だ。
「ハル、ずっと難しい顔してた」
「……確かに考え事はしてたけど、そんなにか?」
「うん。ハルじゃないみたいだった」
「どういうことだコラ」
いつもは真剣じゃないと言外に滲んでおり、俺は思わず優をジト目で睨んでしまう。すると優は微笑みながら言った。
「ハルの真剣な顔、たまにはいいね」
不覚にもドキッとしてしまったが、その後に続いた言葉に俺の心はまた真面目モードに戻ってしまう。
「……たぶん、凛のことだよね」
「ああ、まあな」
「瀬戸先生に何か言われたりしたの?」
「いや、瀬戸先生には古文のことで相談してただけ」
一応内緒にしておけとのことだったので、サラッと嘘をつく。優は納得していないようだ。
「…………ふーん」
「んだよ」
「別に?」
そんなことを話していると、俺の机の近くに叶多と柊志がやってきた。そして予想通りの質問を投げかけてくる。
「凛に何かあった?」
「あいつが休むなんて珍しいが……」
「だから何で俺が知ってる前提なんだよ」
呆れの視線を向けると、二人は顔を見合せて答えた。
「だって晴彦、瀬戸先生と教室入ってきたから」
「優にも言ったけど、古文の内容で質問があっただけだ」
優はこれで納得してくれたのだが、残念ながら二人はそうはいかなかった。俺に対して明らかな疑いの目を向けて、さらに言葉を重ねた。
「昨日の古文で爆睡してたのに質問?」
「お前が一日でそんな殊勝な人間になるとは思えん」
「どっちも失礼だなおい!」
先ほどの時間、柊志に罪悪感を抱いていたのがアホらしくなってきた。せっかく謝ろうと思っていたけれど、もう二度と謝ってやらん。
「とにかく、本当に何もねえよ」
「ここまで強情な晴彦も珍しいな。よっぽど隠しておきたいことらしい」
「あーそうですよ。だから聞かないでくれ」
ヤケになってそう言って、ようやく二人も引き下がってくれた。まったく、しつこい奴らだ。
そんな俺たちのやり取りを少し離れて見ていた千夏が一言。
「岡崎くん、やっぱりやらかした。それで呼ばれた」
「やっぱりじゃねえよ……ギリ未遂っていうかそもそもやろうとしてねえよ!」
疲れたような俺のツッコミに、笑い声が上がる。
千夏のおかげで空気も和み、その場は穏やかに解散となった。みんなに隠し事をするという罪悪感だけが楔として心に刺さったままだったが、この楔も瀬戸先生に断りの連絡を入れればすぐに抜けるだろう。
この時の俺は、そんな風に気軽に考えていた。
放課後、俺は今朝ぶりに図書室を訪れていた。
ホームルーム終了と同時に教室を出ると怪しまれるだろうからと、ホームルーム開始と共に睡眠の体勢をとった俺。その意図を汲んだのか、瀬戸先生は何も言ってこなかった。さすが、話のわかる大人は違う。
そんなわけでぐっすり眠ってしまい、図書室にやってきたのはそれから一時間後のことだった。
千夏の予言通り、見事にやらかしたわけである。
「し、失礼しまーす……」
おそるおそる司書室の扉を開けると、瀬戸先生はパソコン作業をしていた。俺の声に気がついた先生は顔を上げ、呆れたような顔をする。珍しく眼鏡をかけており、何やら真面目な空気が漂っていた。
「何か言うことは?」
どこか聞いたことがある言葉に、俺は言い訳を諦めて開き直ることにした。
「おはようございます」
「まさか本当に寝ていたとはな」
「起こしに来てくれても良かったんですよ?」
「甘えんな阿呆」
おっと、お叱りを受けてしまった。そろそろこのノリをやめた方がよさそうだ。
「すみません。遅れました」
「それはいいが……ちゃんと毎晩眠れてんのか?」
そんな言葉をかけられて、俺は呆気に取られてしまった。何やら心配してくれているようだが、俺の睡眠状況はというと──。
「はい。毎晩ぐっすりです」
「なのにこれか。同情の余地がねえな」
そう言いながら立ち上がった先生は、今朝と同じようにソファを示した。座れということだろう。今朝と同じ場所に座ると、先生は冷蔵庫からペットボトルを二本持って向かいに座った。
「緑茶かほうじ茶、好きな方を選べ」
「一人で二本飲むってオチじゃないでよね?」
「さすがにそこまで鬼じゃないさ」
「んじゃほうじ茶貰います」
お礼を言ってほうじ茶を自分の方に引き寄せる。飲もうとしてキャップに手をかけた俺に、先生は言った。
「お前が寝ている間に美浜と連絡が取れた」
「良かったじゃないですか」
「学校外だったら岡崎に会ってもいいらしい」
「………………何て?」
聞き間違いかな?
そう思って聞き直すと、先生は全く同じ言葉を口にした。
「学校外だったら岡崎に会ってもいいらしい」
「正直に言うと断るつもりで来たんですよ、俺」
もう少し深刻な空気になるとも思っていたのだが、俺の告白はあっさりと行われてしまった。先生はそんな俺の言葉を予測していたようで、ニヤリと笑って言った。
「だろうな。だから外堀を埋めた」
「そのやり方汚くないですか」
「はっ、それが大人だ。今朝も似たようなことを言ったが、他人の都合なんざどうでもいいのさ」
何とも酷い話があったものである。不満を向ける俺に、先生は尋ねてきた。
「まあ一応聞いておこう。何故断ろうと思った?」
そして俺は今朝からずっと考えていたことを先生に告げる。
「先生は俺に『他人に寄り添える』人間だって言いましたけど、そんなことないんです。今朝だって俺は柊志のことを仲間外れにしようとした、最低な人間なんですよ」
先生は静かに先を促した。
「柊志は天然なところがあって口を滑らせる可能性があるからって、凛の件から遠ざけようとしたんです。あいつだって凛と同じ大事な友人なのに……」
胸が痛くなってくるのを我慢しながら絞り出すようにそう口にすると、俺の罪が一層色濃くなるようで苦しくなる。
そんな俺に、先生は言った。
「それの何が悪い」
「……え?」
「今のお前の話を聞いて、俺はお前に頼んだことは間違っていなかったと確信したんだがな」
全く予想していなかった言葉に唖然としていると、先生は俺に言い聞かせるように話し始めた。
「確かに田原をこの件から遠ざけようとしたのは事実だろう。だがそれは何故だ?」
「だから、口を滑らせるかもしれないから……」
「口を滑らせたらどうなると思った?」
先生は俺の言葉を一つひとつ整理するように問い返してくる。話しながら少し感情的になっていた頭が、先生の言葉で段々と冷静さを取り戻していた。
「そうしたら凛が──最悪の場合柊志まで傷つくかもしれないって」
「なるほどな。つまりお前は二人が傷つく可能性を事前に排除していたわけだ」
「……っ!」
そんな視点を持ったことがなくて、言葉に詰まる。
先生は言葉を紡ぎ続ける。
「きっと今までのやり取りか何かでお前は美浜の異変を感じていたんだろう?」
「はい」
「しかし田原は気づいていなかった。ただでさえ傷ついているであろう美浜をこれ以上傷つけたくない、田原が口を滑らせることで二人の仲を険悪なものにしたくない。だからお前は田原をこの件から遠ざけたんじゃないのか?」
「そう、なんですかね」
それでもなお迷う俺に、先生は柔らかい表情を作る。
「そんな行動を取れるお前が、どうして最低な人間なんだ。しっかり他人に寄り添っているじゃないか」
もう、何も言えなかった。
一方の先生は、表情を硬いものに戻した。
「そんなお前に、少し残酷なことを言う。聞いてくれるか?」
「……はい」
「お前は優しい人間だ。そのことに対しては自信を持っていい。だがな、その優しさを中途半端にすることだけは絶対にするな。その行いはいずれ誰かを傷つける」
「…………っ」
「お前が少し気にかけたまま問題を放置したら美浜はどうなる。仲間外れにされた田原はどうなる」
正論だった。
どこまでも、正論でしかなかった。
「他人に寄り添えるのは素晴らしいことだ。それに対して俺は一つだけ言わせてもらう」
先生はそこで言葉を止め、一呼吸置いた。そして俺の瞳を見つめて、はっきりと言った。
「悩んでもいい、最後まで寄り添い続けろ」
その言葉がとどめとなり、俺の心から迷いは消えた。
何かが変わったことを察したのか、先生は改めて問いかけてきた。
「さて、もう一度聞こう。美浜のことを頼んでもいいか?」
答えなんて、一つしかない。
「はい。俺なりに、凛に寄り添ってきます」
先生は大きく頷いてくれた。
見て、理解してくれる大人の安心感は、とてつもなく大きいものだった。
図書室を出る前、俺はふと先生に尋ねた。
「ひとつ聞いていいですか」
「おう」
「先生は『最大多数の最大幸福』ってどう思います?」
何の脈絡もない質問に先生は目を丸くしていたが、少し考えた末に答えてくれた。
「全員が幸せに、なんてのは絵空事だろう。だからこそそれは合理的な考えだと思うよ」
だがな、と先生は言葉を続けた。
「例えそれが実現不可能な絵空事だとしても、全員の幸せを求めて足掻き続ける奴を世間はヒーローと呼ぶんじゃねえのか?」
「……ヒーロー」
「全男子の憧れだろう。手始めに、お前の手の届く範囲の人間を幸福にしてこい」
そう言って先生は俺の肩をバチンっと叩いた。痛い。
けれど決して不快なんかではなく、むしろ背中を押してくれるような、暖かい痛みだった。
例えそれが絵空事だとしても、俺は──。
まずは、しっかりとあいつに寄り添ってこよう。
主人公失格男子はヒーローになれるのか ましゅ @msdydi
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