第8話:大人はいつだって、大河の如く悠然と構えている。
「凛が休むって、どういうことですか」
突然告げられた凛の欠席に対し、そんな言葉が咄嗟に口をついて出た。瀬戸先生は、首を掻きながら静かに答える。
「それをお前らに聞いたんだが……その様子だと田原と新城も同じか。さて、どうするかね」
困った困ったと天を仰いだ瀬戸先生は、ホームルームの準備をすると言って教室を出て行った。その直前、何かを思い出したかのように俺に向かって口を開いた。
「ああ、そうだ岡崎」
「はい」
「前に言ってた相談だが、今やろう。始業までまだ時間はあるだろう」
「……は?」
そんな相談した覚えがないのだが、このおっさ──教師は一体何を言っているのか。まったくわけがわからないままに、考えるのが面倒になって瀬戸先生のあとに続いた。
そしてやってきたのは図書室。そういえばこの人図書委員の顧問だったな。
「俺、相談なんか……」
「あー、わかってるから皆まで言うな。方便だよ」
「回りくどすぎる」
ここに来る途中で必死に頭を回し、そんなところだろうと高を括っていたのだが、どうやら的中したようである。
「岡崎、ほうじ茶と緑茶ならどっちがいい」
「ほうじ茶で」
「そうか。ついてこい」
そう言って瀬戸先生は司書室に入っていく。慌てて後を追うと、先生は司書室にあるローテーブルを指で示した。そこにあるソファに座れということだろう。
立ちっぱなしでいるわけにもいかずに指示された通り座ると、ちょうど先生が冷蔵庫の扉を開けたのが見えた。……っておい、何かウイスキーのボトルが見えたぞ。
「何で酒が入ってるんだよ……」
俺の呟きが耳に届いたらしく、先生はカラカラと笑って答えた。地獄耳かよ。
「見間違いだ、見間違い」
「意地でも認めない気だこの人」
呆れに満ちた視線を向けていると、先生はほうじ茶のペットボトルを持って俺の向かいにどっかりと座った。どう考えても四十路の貫禄じゃねえよこれ。
と、先生はペットボトルを開けて中身を自分の口に流し込んだ。は?
ぷはっと気持ちよい飲みっぷりを見せた先生は、驚きで固まる俺を見て不思議そうな顔をした。
「どうした」
「いや、ほうじ茶貰えるのかと……」
「何を勘違いしてんだ。俺が何飲むかを決めてもらっただけだが」
「……俺、先生のこと嫌いになりそう」
そう恨み言を口にしたが、瀬戸先生にはまったく効いていない。馬の耳になんとやら、だ。そして教師とは思えないセリフをぶちかますのだった。
「安心しろ、男……それも学生に好かれても嬉しかねえ。熟女になって出直してこい」
「あんたは教育大から出直してこいよ!」
何故朝イチから大声で叫ばなければならないのか、甚だ疑問でしかない。
「さて、本題に入ろう」
「思いっきり脱線させたの先生ですけどね」
「まあ、平たく言うと美浜の件だな」
「無視ですか。つーか凛の件?」
そう問うと先生はふう、と小さく息を吐いてから慎重に言葉を紡いだ。この先生が言葉を選ぶなんて、よっぽどの事態じゃないとないと思うんだが。
「その、何だ、別に強制するつもりはない」
「……はあ」
「美浜をもう一度登校できるようにしてくれんか。さっきは春日井たちがいた手前少し濁したが、現状美浜の不登校がいつまで続くかはわからん」
いつ来れるようになるかわかりませんなんて直接伝えられてしまえば、優や千夏は確実に戸惑いを見せるだろう。とはいえあの時の言葉で濁せていると思っているのなら、瀬戸先生の認識が甘いと言わざるを得ない。
「さすがに優たちを舐めすぎでは」
「かもな。高校生が聡いことなんざ、ずうっと昔から理解してるよ。だからこそ……いや、何でもない」
「……?」
珍しく神妙な面持ちで何か言いかけた先生だったが、残念ながらその続きを聞くことは叶わなかった。気になったが、それを聞く前に先生に先を越されてしまった。
「で、どうだ。頼まれてくれるか?」
その依頼に答える前に、確かめておきたいことがある。
「普通、こういうのって委員長みたいな奴の仕事なんじゃ?自分で言うのも何か違うけど、先生からしたら俺ってかなりの問題児ですよね」
瀬戸先生はすっごい嫌そうな顔をした。それはもう、すごくすごいしかめっ面である。
「自覚があるなら改めろ。教師に対する嫌がらせか?」
そんな文句を言いながら、先生は俺を選んだ理由を教えてくれた。
「確かに創作の中だったら委員長の仕事だろうな。だが、あくまでそれは物語の中でのご都合展開だ。その方が上手く話を進められるからな。それに比べて現実を見てみると、良くも悪くも責任感が強い人間は最終的に感情的になりやすい。お前もそう感じたことはないか?」
その言葉に、俺は昨晩の叶多との通話を思い出した。確かに、あの時の叶多はいつもよりも感情的になっていた。先生はそんな俺の反応を見て、やっぱりかというように口角を上げて言葉を続けた。
「その点、お前は他人と関わりつつも適度に距離をおける人間だ。一年二組の担任として半年ほど見てきただけだが、俺はそう思う」
「買い被りすぎっスよ」
「そう思うか。なら、お前の中学時代の話を知っている、と言ったら?」
「────っ!」
予想外の角度から飛んできた言葉に、俺は思わず目の前で不敵な笑みを浮かべる担任を睨みつけてしまった。何でそのことを知っているのか、どこからその情報を手に入れたのか、そんな疑問に答えることなく、瀬戸先生は勝手に話を進めていく。
「お前のことを見ている人間はお前が思っているよりも多い。人に見られていることは大きな強みになる。だから俺はお前に頼みたいんだ」
「随分勝手ですね」
「はっ、俺もそうだが大人なんて勝手なもんさ。そのうち自分のことしか考えられなくなる」
自嘲気味にそう言った瀬戸先生は、俺の目を見つめてこうも言った。
「だからこそ、他者のことを想い、他者の心に寄り添えるお前らみたいなティーンエイジャーが羨ましいよ。その繊細だけは失ってほしくない」
哀愁漂う表情で、誰かに言い聞かせるように口にした瀬戸先生。いったい何を──誰を想っているのかはわからないが、いつもと異なる雰囲気から目が離せなくなった。
そんな空気を破ったのは、ホームルーム開始を知らせるチャイムだった。いつの間にかかなりの時間が経過していたようで、先生はゆっくりと立ち上がる。そして軽く伸びをしただけなのに、ポキポキと骨が鳴る音が耳に届いた。腰を押さえながら、先生は困ったように口にした。
「さて、この歳になると座りっぱなしってのもキツいな。余計にティーンエイジャーが羨ましい」
そうしてニヤッと笑った先生は俺の反応を待たずスタスタと先を進む。俺も慌てて立ち上がり、先生について行く。さながら親鳥に従う鳥の雛である。先ほどの話を聞いてしまった以上、人生のヒヨっ子という意味でも余計にそう感じてしまうのは仕方ないだろう。
「まあ考える時間も必要だろう。今日いっぱい待つから気が向いたら教えてくれや」
「……はい。あの、このことって優たちには」
そう尋ねると、先生は少しだけ考える様子を見せた。
「そうだな。暫く黙っておいてくれ」
「了解です」
そうして俺たちは教室に戻り、朝のホームルームが始まった。当たり前と言えば当たり前なのだが、叶多と柊志も普段通りに着席していて、先生と一緒に教室に入ってきた俺に不思議そうな目を向けてきた。すまん、そのことについて聞かれても何も説明はできない。
いつもと違うのは教室に凛がいないことだけで、それ以外はどうしようもないほどにいつも通りの日常だった。
空には相変わらず一面の厚い雲がかかっている。それでも僅かな隙間から、陽の光がか細く地面を照らしていた。
教室に目を向けると、ホームルームを進める瀬戸先生は、クラスの一員が欠けているにも関わらずいつも通りの適当さでクラスを和ませている。俺、ともすれば優や叶多たちも気が穏やかではない中で堂々とした姿を見せる先生は、紛れもなく『教師』の姿だった。
ああ、そうか。
いつでも大河のように悠然と構えるメンタル。それを持った人のことを大人と称するのかもしれない。特に根拠もないけれど、俺はそう考えながら先生の話に耳を傾けた。
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