美しい観賞用人魚♂のお世話係になった下女の話

もこもこ毛玉カーニバル!

第1話

「今日からこれの世話をしろ。傷ひとつでもつけたらお前の首が飛ぶと思え!」


 少女の仕える主人である男は睨みつけるような目をしながらそう言い放った。

 このあたり一帯の土地を管理している領主である男の屋敷で少女が働き出したのは単純にお金のためだ。

 貧しい中で育った少女自身ですらもこの仕事に就けたのは奇跡だと思っているくらいで、家族への仕送りのため、そして自分が食べていくために、毎日雑用や掃除、ゴミの後始末など、皆が嫌がる仕事ばかりを押し付けられていたが、それでも文句を言うつもりは毛頭なかった。

 だって、そんな状況は、このあたりの地域では決して珍しい話ではない。

 少女のほか、一緒に働いている同僚たちも全員同じような理由で集まった者ばかりだ。

 そんな中、この屋敷に雇われている多くの下女の一人である新入りの少女は、いつも通り屋敷の台所の奥でゴミの処理をしていたところ、他の同僚に声をかけられた。

 黒々とした顎鬚を撫でる恰幅のいい屋敷の主人である男の噂はあまりよくない。

 骨董品や美術品が好きで、それには金を惜しまず、どんな手を使っても手に入れるだとか、そんな大事な収集品に誤って傷をつけたり壊してしまった下人たちが泣いて縋っても折檻をやめないだとか。

 まさか自分が気づかないうちに何かしてしまっただろうか、と少女は内心冷や汗をかきながら恐る恐る主人である男の後ろをついていくと、少女は今まで入ったこともない豪華な部屋に連れてこられたのだ。

 陽の当たる明るい部屋だ。

 広々として、美しい調度品が並べられている部屋の真ん中には、大きな丸い水槽が置いてある。

 そこの前で男はぴたりと足を止め、少女は見上げるほどに大きなその水槽へと目を向ける。

「え……」

 思わず、少女の口から小さな声が漏れる。

 

 ──水槽の中を悠然と泳いでいたのは、巨大な魚のような生き物であった。

 

 まず目を引くのは花びらのように広がり、胴体よりも大きな尾鰭。

 その尾鰭は目を引くようなターコイズブルーで、光の加減によってそれは黒にも緑にも見えた。

 鱗のある大きな胴体、そして胸鰭や背鰭には、ところどころ鮮やかな赤い模様が入っており、それは魚の腹や背中にも広がっている。

 まるでレースのカーテンのようにたっぷりとした尾鰭はゆらゆらと水の中を優雅に舞っていた。

 あまりにも美しく、まるで職人の作った鮮やかなドレスが動いているかのようなその生き物に、少女は目を見開く。

「こ、これは……人魚、ですか」

「あぁ、そうだ。どうだ、美しいだろう」

 恐る恐るといった少女の問いに、意外にも機嫌がよさそうに男は答えた。


 二人が見つめる水槽の中のその生き物。

 その上半身は魚とはとても呼べるものではない。大きな魚の下半身の上、そこには、ところどころ鱗を生やした人間の上半身があった。

 外見は十代後半ほどの少年から青年へのなりかけ、というくらいの男性だろうか。

 尾鰭や魚の下半身と同じく、光の加減によっては藍色にも黒にも見える、鮮やかな髪を水の中でなびかせている。

 水の中だというのに、全く苦しそうな表情も見せず、時折細かなあぶくを出しながら興味深そうにこちらを見つめ返してくるその瞳は、陽の光を受けてきらきらと輝いていた。


 透き通るほどに白い肌を持った、誰もが見惚れるほどに美しい青年だというのに、肘のあたりまで鮮やかな色の鱗に覆われた水かきのある腕と、身体から生えた大きな鰭などが、その生き物が人ならざる存在であることを伝えていた。


「そこの川で偶然漁師が捕まえたのを買い取った。あの野郎ども、ぼったくりやがって……」

 憎々しげに言う屋敷の主人である男はそう言いながら、まるで高価な宝石に触れるかのように水槽の表面をゆっくりと撫でる。

 この屋敷の目の前には大きな川が流れており、そこにはかつて、人魚が多く棲息していたという記録が残っている。

 古くから観賞用として乱獲され、また、気性の荒い性質から、縄張り争いや雌の奪い合いで美しい尾鰭を持つ雄同士で殺し合いをすることも多く、そのせいで個体数は激減したともいわれている。

 今では伝説とさえ思われている彼らがまだ実在していたのかと、少女は呆然とした。

「わ、私が、これの世話を……?」

 そんな生き物の世話を屋敷の雑務ばかりこなしていた自分がするのか、と少女は慌てて男に問いかける。

 確かに数ヶ月前、屋敷の主人がとんでもなく大きな買い物をしたのだと少し話題になっていたのは少女も知っていたが、それがこの人魚のことだとは思いもしなかったのだ。

 そんな高い金を払って手に入れたこの生き物の世話を自分がするのかと思うと、少女にとっては荷が重くてたまらなかった。

 元々下人たちに対して日常的に暴力を振るう男だ。先ほど言われた首が飛ぶ、というのも、ただの脅しではないのだろう。

 身なりの良い中年の男はそんな怯えた様子に少女の姿を見て目を吊り上げる。

「前の世話係はみんな逃げちまったんだから仕方ねえだろ! お前は逃げるんじゃねえぞ。そんなことしたらただじゃおかねえからな」

 そういえば、前にこの屋敷の主人に呼ばれた少女の先輩たちは、しばらくすると行方が知れなくなったということを少女は思い出す。

 皆が、しばらくすると人魚の部屋から跡形もなくいなくなってしまったのだと。

 そんな彼らのことを、他の人たちは「きっと給料がよくて、それを盗んで持ち逃げしたのだ」と噂していたほどだ。


 ──だから、今度はいなくなっても苦労しない新入りを選んだのね。


 屋敷の主人の可愛がってるペットの世話だなんて、荷が重くないわけがない。

 逃げ出した彼女の先輩たちは、その重圧にきっと耐えられなくなったのだと思うと、その気持ちもわかる気がした。

 だからこそ、例え逃げたところで業務上大した支障はないであろう雑務しかやっていないような下っぱの下っぱである少女に白羽の矢が立ったのだろう。

 少女はぎゅっと自分の纏うよれよれのスカートを握りしめる。

 器用なわけでも、見目がいいわけでも、頭がいいわけでもない。地味で、気立てもよくない彼女にできることは限られている。

 ここで仕事を失えば、今日の食事にありつくことも、屋敷の目の前に流れる川のずっと川下に住んでいる家族にお金を送ってやることもできなくなる。それだけは避けなければならない。

「は、はい……旦那様……」

 いくら嫌だと思ったところで、結局のところ少女は生活のために言うことを聞くしかできない。どうしたってここはそういう者ばかりなのだ。

 だから少女は震える声で小さく返事をして、頷いた。


   ✳︎✳︎✳︎


 それを決して傷つけてはならない、死なせてはならない。


 人魚の世話はとても大変だった。

 毎朝大量の新鮮な魚をやり、触れることは禁止されているから、少女は巨大な水槽に梯子を立てかけ、上からブラシを使って掃除をし、大きな桶を使いながら毎日手作業で水を取り替える。それは一日がかりで行うとてつもない重労働。

 人魚は生きている魚の方が好みらしい。

 死んでいる魚を水槽の中に入れてやっても見向きもせず、試しに少女が生きた魚をそのまま水槽に入れてやれば、器用に身体をくねらせて泳いでいる魚をあっという間に捕まえてみせた。

 人魚はほとんど表情を変えず、いつも柔和な笑みをうっすらとその唇に浮かべている。

 だが、餌の時間だけは別のようで、まるで別の生き物のような表情を見せる。

 人魚がぐわりと大きく開いた口には鋭い歯が生えそろっていて、美しい顔で魚に貪りつく様はまるで獣のよう。そんな姿を恐ろしいと思うと同時に、少女は人魚のその様子から目を離すことができなかった。

「……変な魚」

 まあでも確かに、と少女は思う。

 まるで一流の職人が織り上げた上等のドレスのような美しい鰭と、見惚れるほどに美しい容貌を持っているというのに、水槽の中で餌の魚の血を撒き散らしながら獰猛にそれを噛みちぎる野生味を両立させたこの生き物は、彼女の主人が大金を払ってでも手に入れたくなるものだろう。

「こんなところに閉じ込められて、魚のくせに人間と大して変わらないじゃない」

 水槽の上には、少女が人魚に餌をやったり、掃除をするための板が水槽の上を半分塞ぐように敷いてある。

 そこから水槽の中を覗き込めば、水槽の上を見上げてくる人魚は髪の毛を水中で揺らしながら少女の顔を先ほどとは一変して穏やかな表情で見つめ返す。

 この水槽に閉じ込められて一生を過ごすのと、外で惨めに貧しく生きるの、自分とこの魚はどちらがマシだろうか。

 どっちもどっちね、と少女は鼻で笑いながら立ち上がる。

 こんなところでサボっているのを見つかったら、折檻どころでは済まないだろうということは、彼女はよくわかっていたからだ。

 似たもの同士だと思うと、この魚の世話をすることに対しての苛立ちも、少しは薄れる気がした。


 少女の主人である男は頻繁に人魚に会いに来ては、人魚をペットとして自分に懐かせようと声をかけ、気を引こうとさまざまなものを持ってくる。

 けれども、人魚はそんなもの微塵も興味がないといわんばかりに、いつもちらりと一瞥しては男の視線から逃れようと水槽の奥へと泳いでいく。

 そんな美しい人魚の様子に、短気な男は早々に痺れをきらした。


「こんなに可愛がってやってるのになんで懐かないんだ!」

 

 男は苛立たしげに水槽を何度も強く叩き、人魚を出てこさせようとする。

 人魚の方もそんな男が嫌なのか、もう慣れたもので、男の足音を聞くとするりと水草の奥に身を隠してしまうのだ。

「この野郎、魚のくせに妙な知恵つけやがって!」

 男は水槽に立てかけてある梯子を手に取ると、それをガンガンッ! と大きな音を立てて水槽にぶつける。

 水草の奥から、いつもは何をされても穏やかな表情を浮かべている人魚がぎゅっと眉間に皺を寄せている様子が少女の位置からは見えた。

「だ、旦那様……そんなことをしたら水槽が割れてしまいます、ど、どうか、おやめください……」

 少女はそんな主人の様子に、委縮しながらも思わず声をかける。

 ただの下女が主人に意見するだなんてやってはいけないことだ。

 少女自身も、今までそんなことなどしたことも、しようとも思ってはいなかった。

 けれども、このままだと本当に男は水槽を割ってしまいかねない勢いであったし、それを掃除するのも彼女であった。

 そして、苦しそうな顔をした人魚を見て、咄嗟に思わず少女は声をかけてしまったのだ。

 案の定、振り返ってぎろりと少女を睨みつけた男は黙って少女の顔を殴りつけた。

 勢いよく振りかぶられた拳で、少女が床に倒れると、男は何回か少女の身体を蹴り付ける。

 頭をぎゅっと護りながら、少女が震えながらただそれに耐えていると、しばらくすれば気がすんだのか、男が荒い息を吐きながらドアを閉めて外に行く音が聞こえた。

 倒れ込んだ少女の顔に影が差すのがわかり、少女はゆっくりと目を開く。

 男が部屋を出て行ったのを見計らったのか、いつのまにか水草の奥から出てきた人魚は、水槽に水かきのついた両手をついて、見下ろすようにじっと少女を見つめている。

 それはまるで、少女の様子を確かめているように見えた。

「……平気よ、人間みたいな顔しないで」

 少女はできるだけいつも通りの声を出すと、鼻の下を乱暴に服の袖で拭う。

 そうすると、袖がべっとりと赤くなったのを見てため息をつきながら、少女はゆっくりと立ち上がる。

「どうせあなたが死んだら私も死ぬことになるんだから」

 少女は人魚に向けて吐き捨てる。

 どうしてあんなことをしてしまったのだろう、なんて今更の後悔だ。もしかしたら人魚よりも先に処分されるかもしれない。

 故郷にいる家族は元気かしら、ふと少女は考える。

 人魚の世話をするようになって、確かに少女の賃金は少しばかり上がった。今までないよりはマシという程度だったのに比べたら、まだまだ安いものではあるが、それでも確かに貰えているのだ。

「……餌を持ってくるわ」

 まだ逃げ出してはならない、そうため息をついて、少女は人魚を見つめ返す。

 鮮やかな鱗が、窓から差してくる日差しを受けてきらきらと輝いていた。

 この人魚にどれほどの知性があるのかはわからないが、この出来事から、少女を自分を護ってくれた存在だと認識したのか、人魚は少女が部屋にやってくると今までとは異なる様子を見せるようになった。

 今までは、少女がやってきてもその姿をじろじろと見ているだけだった人魚は、少女が部屋に入ってくると水草の影から飛び出し、水槽に手をついて、何度も引っ掻くような様子を見せる。

 それは、まるで少女の元に行きたいと言わんばかりの姿。

 それに対して少女も挨拶替わり、と言わんばかりに水槽に手をついて、ぺたぺたとその表面を撫でてやると、人魚はまるで人間のように顔を綻ばせて、うっすらと頬を紅潮させるのだ。

 それを見ると、少女はなんて人間臭い魚なのだろう、となんとも言えない気持ちになる。

 別に、愛着があるわけではない。

 けれども、これを失えば自分もどうにもならなくなるという命綱のような気持ちが、絆されてしまいそうになるとは思ったのだ。


   ✳︎✳︎✳︎


「これを繁殖させれば金になる。雌の人魚を連れてこい。すぐにだ!」

 どうやら、懐かない人魚を懐かせるよりも、金儲けの道具としての使い道を選んだらしき男は、水槽を軽く叩きながら少女にそう言いつける。

 水の中で人魚はいつも通り、身体よりも大きなヒレをくゆらせながら興味深そうにこちらを見つめていた。

「え、で、ですが、どうやって……」

「そんなもの自分で考えろ! 目の前の川のどこかにはいるはずだろう!」

 横暴な態度で部屋を出て行った男の背中を、少女は呆然と見つめる。

 そんな彼女を、人魚はいつものように水槽をぺたぺたと触りながらうっすら微笑んで見つめていた。それを見つめ返しながら、少女はその場に立ち尽くす。

 突然そんなことを言われても、少女に人魚を探すあてなどあるはずもない。

 そもそも、伝説だと言われていた生き物なのだ。どうやって探せばいいのかすらわからない。

 それでも、屋敷の主人の言葉は絶対だ。

 仕方なく人魚の世話の合間に、目の前の川へ出向き、漁師たちから他に人魚が獲れていないかという話を聞きにいっても、そのような話など聞いたことがないと言う。男が本当にどこかの漁師から買い取ったのかということさえ、本当かどうかも怪しいほどに、人魚の噂を聞くことはなかった。

 何日経っても首を横に振るばかりの少女に、男は堪忍袋の緒が切れたのか激昂して拳を振り上げた。

「このクズが!」

 思いっきり顔をぶたれて、少女は尻餅をつく。その場に座り込んだ少女に対して、男は怒りで目を血走らせながら、その身体を蹴り上げた。

「何にもできねえやつを雇った覚えはねえんだよ! この給料泥棒が! 誰がお前に食わせてやってると思ってんだ! 恩知らずが!」

 痛みに顔を押さえて蹲る少女の小さな身体を、男は水槽の前で容赦なく何度も何度も踏みつけ、蹴り続ける。

「ひ、うぅっ! もう、もうしわけございません! もうしわけございませんっ!」

「うるせえ! この役立たずがッ! クソがッ、こんなこともできねえお前に生きてる価値があるとでも思ってんのか!?」

 涙を流しながら何度も何度も謝罪する少女に対して、ぜえぜえと息を切らしながら、それでも怒りが治まらないらしい男は、痛みで動けない少女の髪を乱暴に掴んで、水槽の上へと引っ張りあげる。

「そんなに死にたいならこのまま文字通り魚の餌にしてやる! 腹を空かせりゃこいつだって人ぐらい食うだろ! 昔は人魚は人間を食ってたって言われてるらしいからなあ!」

 水槽の水の上に顔を突き出すように頭を強く男に押さえつけられ、水面に、殴られて腫れ上がった少女の顔が映る。

 その口から、ぽたりと赤い血が垂れて、水面を赤く汚した。

 抵抗することもできず、苦悶に顔を歪めた少女は、その赤色の下で、何かがぎらぎらと煌めくのを見た。


 ──ずるりと、何かが水面から伸びる。


「は?」


 ばしゃん、と大きな水飛沫をあげて、水の中に落ちていったのは少女ではなく、少女を押さえつけていた男の身体だった。

 水面から伸びたそれは、男の腕を掴むと、あっという間に男が大きな水槽の底に沈んでいく。

 それは人魚の腕だった。

 男の腕を掴んだ人魚は、水中でその美しく大きな尾鰭を男の身体に巻きつけると、少女に向けてにっこりと笑った。

 その一瞬、少女から見えたのは、人魚のまるで肉食獣のような鋭く、ずらりと生えそろった牙。

 ぐちゃ、くちゃくちゃ、ばき、ばきばき。

 途端、何かが、折れて、砕けるような音。それと同時に水の中から何かを叫ぶような、悲鳴のような音が響き渡る。

 しかし、それは水の中で声になることなく、あぶくとなって消えていく。

 なぜならば水槽の中が真っ赤に染まって、上から水槽の中を覗き込む少女には、水中で何が起こっているのか全く見えなかったからだ。


 けれども少女は本能的に、ずりずりと這い出るように身体を動かし、よろめきながらも、なんとか水槽の上から転がり落ちる。

 はあはあと、全力で走ったあとのように息が切れて、全身の震えが止まらない。

 這いずるように、唯一のドアに向かって少女はゆっくりと進んでいく。

 

 ──逃げろ、にげろ、ここから。はなれなくてはいけない、今すぐに!


 ドアノブに手をかけたとき、べちゃ、という音が耳に入って、少女は恐る恐る振り返った。

 水槽の前、そこには大きな大きな水たまりができていた。

 

 まるで、何かが落ちてきたような。

 

 それがなんなのかは明白だった。

 その水たまりの上には、あまりにも鮮やかで美しい魚が一匹、水槽から無理矢理這い出てきていたのだから。

「ァ、ぁ、ぁ……あ、え……」

 少女は震わせながら、足をなんとか動かそうとする。けれども溺れたようにもがく足がそれ以上進むことはなく、床を力なく蹴り上げるだけ。

 

「キュウ」


 ──それを言葉として表すのであれば、そんな声だっただろう。


 人魚は、床に這いつくばりながらゆっくりと顔をあげた。

 見たこともないほどに美しい容貌、その耳のあたりには身体についている者と同じような鰭がついているのを、少女は初めて知った。

 そして、その瞳がターコイズブルーと赤が混じり合った、奇妙な色をしているということも。

「キュ、キュゥ、キュ、」

 人魚はずり、ずりと、ゆっくり、けれども確かに、少女のことだけを見ながら、手をつき、打ち上げられて床にへばりついた水の滴る尾鰭を動かしながら全身する。

 床に擦れて身体が傷つくのさえ全く気にしていない様子で、まっすぐまっすぐ、水の道を作りながら少女の方へと向かっていく。


 そして、少女からは見えた。

 人魚の後ろ、真っ赤に濁った巨大な水槽に、千切れた服のようなものがゆっくりと水槽の底に沈んでいく様子が。


「ひ、ァ、ぁ、いや、ぃやぁ、こないで、こないで……ッ」

 少女は後ろに下がろうとするが、そこはドアがあるだけで、それ以上後ろに下がることはできない。

 ドアノブに片手をかけて、なんとかそれを回そうとするけれども、震えて濡れた手では、それをうまく回すことができなかった。

 ずり、ずり、とその巨体を揺らしながら、人魚は少女の前までやってくる。

「キュウ」

 人魚はどこか熱に浮かされたような目で、少女の顔を下から覗き込むと、おそるおそる少女の片手に触れた。

 その肌の温度はまるで氷のように冷たく、ぬめりけを帯びていた。

 人魚は夢中になってその手を、ぺたぺたと、重ね合わせるように何度も少女の手に触れさせる。

「ゥ、キュ、ウゥ、キュウッ」

 そして、甲高い鳴き声をまるで歌うように響かせながら、人魚はその長く大きな尾鰭を持ち上げ、少女の足を覆い隠すように乗せる。

 

 ──まるで、その尾の中に少女のことを引き込もうとしているかのように。

 

「ひ、いや、いやぁああッ!」

 水槽の中の光景が少女の頭の中にフラッシュバックし、少女は絶叫した。

 震える身体で渾身の力を振り絞って、人魚の手を、そして身体に巻きついた尾鰭を振り払うようにしてなんとか立ち上がると、ドアを勢い良く開けて、転がるように部屋の外に飛び出す。

 

 そして、そのまま一度も振り返ることはなかった。


   ✳︎✳︎✳︎


「ねえママ、この川には人魚が住んでるってほんと?」

 

 幼い娘の問いかけに、女は目を細めながら振り向く。

 屋敷から逃げだした少女は、遠く離れた家族の元へと向かった。

 それしか当てがなかったのだ。突然帰ってきた娘に、家族は驚いたものの、その身体にある傷跡を見て何かを察したのか、ただ優しく娘を抱きしめるだけであった。

 生活は苦しかったが、幸運なことに、近所に住む自営業を営む男性からの結婚の申し出があり、少女はそれを受け入れた。

 優しい人であったし、なによりそうすることで生活が楽になると思ったからだ。

 結婚してすぐに子どもを授かり、娘と、そして息子が二人産まれた。今では三児の母親として、貧しいながらも穏やかな日々を送っている。

「いるかもしれないわねえ」

 昔、遠くの屋敷で下女として働いていたこと。そこで人魚に出逢ったこと。そして、そこで起こった出来事のことを、彼女は両親はおろか、夫や娘にも話したことはなかった。

「ママは見たことある?」

「まさか、あるわけないじゃないの」

 あの屋敷はあれからどうなったのか、人魚はどうなったのか、彼女は知るよしもない。

 それは彼女が墓場まで持っていくつもりの記憶。家の前に流れる大きな川のずっとずっと上流に置いてきた、忌まわしくも恐ろしい、そんな出来事であった。

 それを、彼女は思い返すつもりはない。

「大昔はいたかもしれないけど、今はもういないわよ。せいぜいワニくらいでしょうね、あなたも危ないから川に行っちゃだめだからね」

 あれから、彼女は川に行くことを避けていた。それはなぜか、本能的に、彼女がその川を目の前には行ってはいけないという不安に襲われるからだ。

 娘の声にそう答えながら、彼女はやりかけだった干していた洗濯物を籠の中にいれていく。家族の分と両親たちの分、たくさんあるそれを一枚一枚とっていくと、終わるころにはいつのまにか夕陽が空から差し込んでいるのがわかった。

「あら?」

 先ほどまでは後ろにいたはずの娘がいないことに気づき、彼女は辺りを見回す。弟たちと遊んでいるのかと思えば、そんなことはなく、小さな家の中のどこを探しても、その姿は見当たらない。

「ちょっと、どこにいるの? でてらっしゃい!」

 彼女は声を張り上げながら、娘の姿を探す。まだ幼い娘は遠くまで行っていないはずだ。かくれんぼでもしているのか、親の気を引きたいのか、母親の呼び声にそれでも出てこない娘になぜか嫌な予感がして、彼女の足は川の方へと向かっていく。

「ねえ、いるんでしょ? ママと一緒に帰りましょう」

 川にはいたるところに長い桟橋がかかっている。

 それは漁師たちが使うものだが、漁の時間がとっくに終わった今の時間、そこには人っ子一人いやしない。

 橙色の夕陽が水面を黄金色に染め上げているのを見て、彼女は桟橋の先で立ち止まる。

 綺麗、そう思いながら遠くを見つめていると、ちゃぷ、という小さな音が聞こえて、はっと彼女は顔をあげた。

「っまさか水の中に落ちたんじゃ……」

 慌てた彼女が身を乗り出し、娘の姿がないか桟橋の上から水の中を覗き込むと、そこから青い光がきらきらと輝いた。


 ──「キュウ」


 水面から素早く伸びたのは、鱗に覆われた長い腕。

 それは身を乗り出した女の腕を掴むと、そのまま水中へと引きずり込む。


「え?」


 ばしゃん、という水音は思いのほか小さかった。この距離であれば、その音が家まで届くこともないであろう。

 大きなあぶくを立てて女は沈んでいく。

 氷のような冷たい何かが身体を這って、布で擦られているような感覚が足を襲う。


 それは鰭だった。大きな大きな、そして美しい、鮮やかなターコイズブルーのそれ。

 大きなそれが、まるでリボンを巻くかのように器用に女の身体に巻き付いて、女は身動き一つとれやしない。


 あぶくの視界の向こう側、きらきらと輝く瞳が、女の顔を見て笑っていた。


「キュウ、クルル、キュウ」


 とてもとても、嬉しそうに。

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