輝きの蜃気楼【美濃暁】

 歓声の中で振り向くと、群れる人混みの中に最愛の人の影を認めた。

 熱狂して波打つ人垣の中で、彼女は身じろぎもせずに、じっとこちらに見入っていた。

 目と目が合った、気がする。偶然とすら言えない、そんな些細なことで、俺の心臓はどれだけ走っても見せない高鳴り方をする。

 ポジションに駆け戻ると、長田が悪戯めいて背中を小突いてきた。

「愛しの女神様にでも、会えたか?」

「……試合に集中しろ。」

「やーっぱ、ガチなんだよなあ。」

 長田は、楽しくて仕方がないという風に、俺を揶揄ってくる。何でこんな奴と、友達付き合いなどしているのだろう、俺は。

 集中しろ、と発破をかけはしたが、そのすぐ後に、危なげなく我々は勝利を掴んだ。要らなかったかもしれない。

 当たり障りはないが、得られるものもさほどない総評を、神妙な顔で聞き流した後、俺はすぐに、享奈のところへ向かった。

 てっきり、もう帰っているものと思っていたが、享奈はまだそこに立っていた。フェンスに凭れ、虚空を眺めているその様は、まるで清涼飲料水の宣材写真のようだった。

「おーい。」

 声をかけると、彼女は嫋やかに振り返る。美人は三日で飽きる、と言うが、俺は信じていない。あるいは彼女は、長田らの言う通り、正真正銘の女神なのだろう。

「享奈さん、来てくれたんだ。」

「練習は?」

 享奈は、視線を行ったり来たりさせながら、俺に問いかける。

「一時休憩。……で、どうだった? 俺のプレー」

 そう聞くと、享奈は、少し困った顔をした。

「上手かったと思うよ。サッカーは全然知らないけど。」

「まじ? ありがとう!」

 それが、心の底からの賛辞であることが分かって、俺は思わず声を大きくしてしまった。

 享奈の美しいのは、容姿に限った話ではない。会話を交わすようになってから、日々、それを実感している。

 口調こそぶっきらぼうだが、彼女の言動の端々には、常に他者に対する思いやりがある。彼女を好きになってよかった、という想いは、日を追うごとに増していっている。

「……ファン、多いんだね。」

 キョロキョロと辺りを見回しながら、享奈は唐突に、そんな事を言い出した。

 会話の脈絡が見えない。確かに、俺が練習に出る度に、様々な人が見学に来る。どうやら、俺のファンらしい、というのは、流石に気がついていた。アイドル的な活動は、全くしていないつもりなのだが。

 享奈はあまり、俺に関する事に興味がないとばかり思っていた。だから、彼女が俺のことに言及するのは、率直に言って意外だ。

 まさか、嫉妬している?

 そんな訳ない、と思いながらも、俺は上がりつつある口角を止めることができなかった。

「ん? え? うん、まぁ……そう、だね、何故か。」

 自分のファン――改めて考えると、意味がわからないが――について、自ら語るのは、難しいし面映い。結果、何だか挙動不審な言葉になってしまった。

 それを聞くと、享奈は、何故か溜息をついた、ような気がした。

「どこか、別の場所に行って話さない? ここだと、その……目立っちゃってるし。」

 二人きりになりたい、ということか? 今までは、分かりやすすぎるぐらいに警戒されていたのに。急に、距離が縮まったような気がする。

 この分なら案外、さっきの考えも、思い上がりではなかったのでは?

 いや、都合のいい妄想はやめることだ、美濃暁。そんなに簡単に、俺が享奈に好かれる訳がない。距離感を踏み間違えて、享奈を傷つける訳にはいかないのだ。

 人の目のない場所、と言われて、一番初めに思い浮かんだのは、部室棟の裏だった。意外と、人がやって来ることが無いのだ。

 今だって、俺と享奈の他に、人の影は一切見えなかった。

「一人になりたい時とか、たまにここに来るんだよね。俺の秘密基地、みたいなところかな。しょぼいけど。」

 享奈の手を離し、俺はそう言うと、照れから思わず笑ってしまった。何が、秘密基地、だ。幼すぎる。

「暁くんでも、一人になりたい時、あるんだ。」

 享奈は、心底意外そうに訊いてきた。

「でも、って何だよ。」

 俺を何だと思っているんだ。

「暁くんは、クラスの人気者、って感じでしょ? いつも周りに人がいる、ってタイプの人間だと思ってたから。だから、意外かな、って。」

 沈黙で、俺が気分を損ねたと思ったのか、享奈は慌てて注釈を入れた。やっぱり、優しい人だ。

「享奈さんこそ、そっち側だよ。だって、学園のマドンナじゃない?」

 彼女の美貌は、生半可なタレントでは、逆に霞んでしまうような者だ。都合、彼女の側には、その光に灼かれた人々が引き寄せられる事になる。他人の目を気にするような人間に、鎌苅享奈は務まらない。

「そうなの? 告白してきたの、暁くんが初めてなんだけど。」

 だと言うのに、彼女はそれに無関心だったようだ。享奈はそう言うが、それは享奈が、一定の距離感を踏み越えてくるのを、頑なに拒んでいるからである。「これは脈ナシだわ」と涙を呑んだ、片手では数えられない知人たちに、俺は心の中で読経した。

「まあ、俺だって、他の奴らとつるむのに、疲れる事ぐらいはあるよ。」

 ボソリと呟くと、享奈はまた、意外そうな顔をした。

 本当に、俺を何だと思っているんだ。不愉快ではないが、ただ、熱烈に気になる。

 問いただそうとした瞬間、ガン、と耳慣れない音がする。

 何だろう、と、上を向くと、すぐに音の正体が分かって。

 気がつくと、享奈を突き飛ばしていた。


 飛んできたサッカーボールは、大きく跳ねながら、植え込みの方へ転がっていった。

 俺にも、享奈にも、ボールが当たらなかったのは幸運だった。安心して、俺は肺の空気を半分ぐらい吐き出した。

「私を、庇ったの……?」

「危なかった……。ったく、誰だよ、こんなボールの蹴り方したやつ。」

 息と一緒に、愚痴まで溢れ出してしまった。

 というか、今、享奈が何か言わなかったか?

「何で、何でそんなこと……」

 やっぱり、何か言っていたらしい。声が、かつてないほどに震えている。よほど怖かったのだろう。咄嗟に突き飛ばしてしまったが、大丈夫だろうか。

「何で、って言われてもなぁ……。ボールが享奈さんに当たりそうだ、って思って、咄嗟に体が動いちゃって。――あ、体は大丈夫? どこか打ったりしてない?」

「大丈夫……」

 それを聞いて、俺は心の底から、再び安堵する。享奈に怪我でもあれば、悔やんでも悔やみきれない。

 安堵してしまうと、自分の今の発言が振り返られて、俺は顔から火が出そうになった。何だ、このイケメンは。

「ああ、でも、享奈さんじゃなかったら、あんなに体が動かなかったかも。」

「え?」

 付け加え始めた俺に、困惑する享奈。無害であることを示すために、俺はニコリと微笑んだ。

「そりゃあ、今からでもやり直したいぐらいのはじまりだけど、それでも今は……、それがなくても、享奈さんは、俺にとって好きな人で、守りたい人だから。だから、体が動いたのかも。」

 言い終わった途端、かつかつと、どこからか足音が聞こえてきた。

 享奈の行動は素早かった。

「あ、誰か来る。じゃあね暁くん、サッカー、頑張って。」

 そう言うが早いか、踵を返して、風のように去っていってしまった。

 いや、付け加えた言葉も気持ち悪いな。何だこいつは。ロマンス詐欺か。

 ボールを取りに来た同級生を尻目に、俺は微動だにせず、頭を抱えていた。


 悶々としたまま、午後の練習を惰性でこなしていると、不意に蘆屋に呼び止められた。何でも、監督に、何か用があるらしい。

 ボールを近くのチームメイトに預け、首を傾げながら、とりあえずそちらに向かう。

 何かやらかしただろうか。いや、享奈関連では、散々やらかしているのだが。それについてでは、多分ない。

 そして、それ以外では、全く心当たりがなかった。だから、嫌な心臓の高鳴りが、俺の足を異様に早めていた。

 ベンチに戻ると、監督が、そのパンチの効いた厳しい顔を、いつもより僅かに優しくしていた。

「監督、何でしょうか。」

「いや、すまんね。――実はだね、美濃君。君を、エースストライカーに据えたいと思うんだよ。」

 嗄れて聞きづらい声が、嫌に耳に残る。お叱りだとばかり思っていた俺は、思わず耳を疑った。

「え? ……いやいや、俺、まだ一年ですよ?」

「お前には、それだけの実力があるだろ。それに、まだ、確定した訳ではない。次の試合の結果を見て、決めたいと思っている。」

 気張れよ、と、監督は俺の背中を叩いた。

「それだけだ。練習中に、呼び止めて悪かったな。」

「わ、分かりました。」

 嬉しいニュースだが、あまりにも脈絡がない。困惑のまま、俺はベンチを後にした。

 自分でも訳が分からなかったが、享奈には伝えておきたかった。休憩時間の合間を縫って、電話を取る。

「もしもし。」

 聞こえてきたのは、山風さんの声だった。

「あれ? 山風さん?」

 思わず、声に出してしまう。

「すみません、享奈は、その……ちょっと、席を外してて。ご要件は何ですか?」

「いや、うん、まあ……大したことじゃないよ。ただ、ちょっと、享奈の声を聞きたいな、と。」

「もう少しで、享奈戻ってきますけど。それまで待ってます?」

「いや、いいよ。本当に大した用事じゃないしさ。」

「はあ……ところで。」

「何?」

「やっぱり、享奈と、お付き合いされてます?」

 無駄な会話の奥から、急に繰り出された攻撃。これは、どう答えるのが正解なのだろうか。

「あ、不躾ですみません。ちょっと気になったもので。嫌なら別に答えなくても――」

「いや、答えます。」

 腹は決まった。山風さんは、享奈の親友なのだ。ここではぐらかすのは、むしろ不義理なのではないか。それに、彼女は口が固い、と思う。

「山風さんは、享奈さんの親友ですので。……一応、お付き合いさせていただいております。」

 思わず、敬語になってしまった。

「あー、やっぱり……。頑張ってくださいね。」

「ありがとう。」

 言いふらさないで、とだけ付け加えて、俺は通話を切った。

 何故か、掛け直す気は起きなかった。

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むべ山風をあらしといふらむ 相良平一 @Lieblingstag

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