惑乱と拍動【鎌苅享奈】

 紫紺のディフェンスラインを潜り抜けて、鮮緑のユニフォームに身を包んだ美濃が躍り出た。

 ボールを足元に吸い付かせ、まるで、風に乗った木の葉のように、ひらりひらりと相手を抜き去っていく。サッカーに関しては門外漢だが、その私の目からしても、彼が頭一つ抜けて上手である事ははっきりと分かった。

 日頃の小型犬オーラは、どこへ消えたのか。彼の全身からは、空間を捻じ曲げるような気迫が溢れ出ていた。日頃とのギャップに、少し息を呑む。

 左脚から放たれたシュートは、およそ物体がしてはならない曲がり方をしてゴールに吸い込まれた。隣から、黄色い歓声が上がる。美濃は、爽やかに笑みを浮かべて、ピッチに戻った。

 休日だというのに、関係ない部活の練習にまで顔を出すなんて、随分と暇な奴らだ。だが、それは私も同じか。自分は何をやっているんだ、と、静かにため息をつく。

「あれ? ゆきちー、どうしてここに?」

 ふらり、と、香水の香りが鼻腔を擽った。蘆屋が、無断で肩を組んできている。距離感の近いことには、もう今更文句は言わないが、呼び名だけは受け入れ難かった。

 私は一万円札ではない。

「蘆屋さん? その渾名はやめてって――」

「あ、まだ何も言わないで。……分かった、美濃くん狙いっしょ、ゆきちーも。」

 一緒にされるのは甚だ遺憾だが、半分ばかり当たっているのも事実。それが、余計に腹立たしい。

「違う、……何となく、だよ。」

「誤魔化さなくていいって。」

 蘆屋が、私の背中をバシバシと叩いた。少し痛い。正直に言えるわけがないだろう、と、私は蘆屋を睨んだ。

「アイツ、イケメンだしね〜! 知ってる? 二年とか三年でも、アイツ目当てで練習見にくる人がいる、って。」

 男を見る目を、鍛え直した方がいいと思う。まあ、良いところがない、とまでは言わないが。

「ま、ゆきちーめっちゃ美人だし、大丈夫大丈夫。男の取り合いで、勝てるヤツいないって。」

 そんな競技に参加した覚えはないから、完全に要らない情報だ。

「そういえば、蘆屋さんってマネージャーじゃなかったっけ。こんなところいて、大丈夫なの?」

 試合終了のホイッスルが鳴る。蘆屋は、引かれた弓のように、びくりと飛び上がった。

「ヤッベ、試合終わっちまった。サンキューゆきちー、じゃ!」

 蘆屋は走り去った。騒がしい人だ。


 フェンスに凭れて黄昏ていると、背後で「おーい」という間延びした声がした。

「享奈さん、来てくれたんだ。」

 美濃が駆け寄ってくると、周囲の野次馬から、一斉に殺意の目線が向けられた。

「練習は?」

「一時休憩。……で、どうだった? 俺のプレー」

 何故私に聞くのだろうか。

「上手かったと思うよ。サッカーは全然知らないけど。」

「まじ? ありがとう!」

 美濃は、見えない尻尾をぶんぶんと振った。

 ぢぃ、と、歯軋りの音が聞こえた気がした。後ろの女子たちからである。気のせいだから、実際に歯軋りの音を立てるような、劇画調の人間はここにはいない。

 殺気を浴びせられる謂れはなかった。譲れと言われたら、こんな男いつだって譲ってやる。だが、そういう事を言いだすと、それはそれで反感を買いそうだ。

「……ファン、多いんだね。」

 遠回しに、「ここから離れたい」と伝える。少し、いやかなり、居心地が悪かった。

「ん? え? うん、まぁ……そう、だね、何故か。」

 何故か唇を歪め、挙動不審になる美濃を見て、私は頭を押さえた。こんな男に、婉曲表現を理解する知能を求めた、この私が馬鹿だった。

「どこか、別の場所に行って話さない? ここだと、その……目立っちゃってるし。」

 今度は、もっと直接的に言う。だが、美濃はますます頬を染めた。本当に何故だ。

 美濃に手を引かれ、辿り着いたのは、体育会系の部室棟の裏だった。まばらに生えた広葉樹が千々に枝を伸ばし、地面には、あちこちにスパイクの跡が刻まれていた。

 お世辞にも綺麗とは言えないが、確かに誰もいなかった。

「一人になりたい時とか、たまにここに来るんだよね。俺の秘密基地、みたいなところかな。しょぼいけど。」

 私の手を離し、彼はそう言うと、はにかんで笑った。

 驚いた。美濃にも、そういったセンチメンタルな感傷があるのか。

「暁くんでも、一人になりたい時、あるんだ。」

「でも、って何だよ。」

 心外だ、とでも言いたげに、美濃は口を尖らせる。

「暁くんは、クラスの人気者、って感じでしょ? いつも周りに人がいる、ってタイプの人間だと思ってたから。だから、意外かな、って。」

「享奈さんこそ、そっち側だよ。だって、学園のマドンナじゃない?」

 私が? ――確かに、入学したばかりの頃は、何人か、やたらと馴れ馴れしい男子がいたような。

「そうなの? 告白してきたの、暁くんが初めてなんだけど。」

 私がそう言ってやると、流石に彼も、何か思うところがあったのか、美濃は複雑な顔をして沈黙した。

「まあ、俺だって、他の奴らとつるむのに、疲れる事ぐらいはあるよ。」

 今度は、私が面食らう番だった。私の中での彼は、孤独に浸ることを良しとするような、繊細な人格をしてはいなかったから。

 私は、彼を誤解していたのかもしれない。

 言葉を返そうとした瞬間、ガン、と耳慣れない音がする。

 何だろう、と、思った瞬間。

 不意に、私は突き飛ばされた。


 二、三歩、後ろによろめく。すんでのところで、転倒は回避した。

 少しいい人かもと思ったが、とんだ食わせ者だ。私は、下手人の方を、きっと睨みつける。

 白と黒のボールが、天高くバウンドしながら、植え込みの方へ転がっていった。

 美濃の方は、全身から緊張感を発散させていた。ボールの消えていく方を見ながら、どうやら安堵したらしい、どっと息を吐いた。

 まさか。

「私を、庇ったの……?」

「危なかった……。ったく、誰だよ、こんなボールの蹴り方したやつ。」

 どうやらそうらしい。いや、しかし、そんな。

「何で、何でそんなこと……」

「何で、って言われてもなぁ……。ボールが享奈さんに当たりそうだ、って思って、咄嗟に体が動いちゃって。――あ、体は大丈夫? どこか打ったりしてない?」

 心配そうに、私の周りを右往左往する美濃へ、私は「大丈夫……」と返すのが精一杯だった。

 こんなにも自然に、利他的に振る舞える人間だったか、美濃は。あの日の卑劣漢の面影は、今はどこにもなかった。

 いや、騙されるな鎌苅享奈。こいつは、私の弱味を握って、交際を迫ってきた男だ。こんな態度も、どうせまやかしだ。

「ああ、でも、享奈さんじゃなかったら、あんなに体が動かなかったかも。」

「え?」

「そりゃあ、今からでもやり直したいぐらいのはじまりだけど、それでも今は……、それがなくても、享奈さんは、俺にとって好きな人で、守りたい人だから。だから、体が動いたのかも。」

 そう言って、彼は屈託なく笑った。

 大袈裟なぐらいに、大きな足音で、私は我に返った。

「あ、誰か来る。じゃあね暁くん、サッカー、頑張って。」

 早口で言い残し、私は彼から逃げ帰った。誰だかは分からないが、足音の主に私は感謝した。

 何故か、これ以上彼と一緒にいるのは、まずいような気がしたのだ。

 私の中の、大切な何かが、否定されてしまうような、そんな感覚だった。

 言いようのない不満感が、私の胸に重くのしかかっていた。

 手頃な丸善でもないか、と、キョロキョロと辺りを見回していると、ピザ屋の看板が目に止まった。

 二枚買うと、うち一枚が半額になるらしい。ピザというのは、二人で食べるには高すぎる代物だが、故に半額というのは、かなり魅力的な情報だった。

 こうなったら自棄だ。胃袋を膨らませて、鬱屈とした気分を吹き飛ばすに限る。

 私は、過たず足を踏み出した。

 ちなみに、ピザ二枚は、自棄食いにしても多すぎた。嵐に呆れられてしまった。


 食べ終わると、嵐は食器洗いを買って出た。悪いような気もしたが、どうしても、と言うので、素直に甘える。

 私がソファに寝転がると、水の流れる音だけがする。私の希求していた、穏やかな時間だった。

 とはいえ、ずっと続いていれば、暇にもなるわけで。

「そう言えば嵐、最近、秋野さんと仲がいいよね。」

 ふと思いついて、私は皿を洗う嵐に声をかけた。自分でも、無味乾燥だと思う話だ。

「うん、そうだね。」

 返答も、また味気ないものだった。

「いい人だよ、秋野さん。ちょっと、話し方に癖があるけど、友達思いの人で。」

 彼女自身もそう思ったのか、嵐は、律儀にもそう付け加えた。

 秋野は、嵐に害のある人間ではなかったのか。私は安堵する。もう、嵐の傷つく姿は見たくない。

「そうなの。あんまり、話したことないけど……。嵐がそう言うなら、いい人なんだろうね。今度話しかけてみようかな。」

 嵐の様子を聞きにいくのも、悪くないだろう。そう、暢気に考えていると、不意に、ガシャンと大きな音がした。

 何かあったのか。飛び起きると、ソファのスプリングが、ギシリと音を立てた。

 台所では、嵐が茫然と立ち尽くしていた。足元に散乱した、皿の破片には目もくれず、どこかを色のない目で見つめている。

 私は、息を呑んだ。悪夢のような光景がフラッシュバックする。床の上に、力無く嵐が倒れていて、その周りに――。

「ちょっと嵐⁉︎  大丈夫?」

 急な大声に驚いたのか、嵐の目に色が戻った。「あ、やっちゃった……」と、箒や塵取りを取りに行こうとする嵐を、私は無理矢理、ベッドに押し込んだ。


「ごめんねー、遅くなっちゃって。――寝ちゃったか。」

 部屋に戻ると、嵐は既に瞼を閉じていた。俯せになっていて、寝顔は見えなかったが。

 幸せな顔はしていないだろうから、敢えてひっくり返すことはしなかった。

 嵐は否定したが、やはりあの、秋野とかいう女と、何かトラブルがあったのではないか。あの目は、現実に追い詰められた目だ。

 嵐は、もう傷つけさせない。そう誓ったはずなのに。不甲斐なさで、目頭が熱くなる。

 秋野とは一度、面と向かって話さねばなるまい。先程とは、百八十度違う動機で、私はそう決意する。

 スマホを取り上げると、何やら着信が来ていた。相手を見て、げんなりとする。美濃からだった。

 不在着信ではない、ということは、嵐が出たのだろう。まあ、そのうちかけ直してくるか。

 そういえば、今日の来訪の目的は、歌詞の確認だった。もう、歌詞どころではないが。

 穏やかに上下する、嵐の胸を眺めながら、私まで、いつしか眠りに落ちていた。

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