「プルコギって、なんか犬種にありそうじゃない?」「……微妙」
家に帰ると、味噌の香りが優しく鼻腔を包んだ。
「お帰り、嵐。」
キッチンの方から、享奈の声がする。私も、「お帰り」と返す。
ランドセルを置き、手を洗ってから部屋に戻ると、火を止めてから、享奈は、湯気の立つ味噌汁を二人分よそって、持ってきてくれた。
「朝ごはん、出来たよ。」
「ありがとう。うわあ、いい匂い。」
手を合わせて、塩鮭を箸でほぐし、口に入れる。塩っ気が強くて美味しい。
「美味しい。」
「……ありがと。」
私と彼女が、想いを共有できるようになってから、もう長いこと経つ。だが、享奈は未だに、この環境に照れているように思えた。
「ふふ、享奈、可愛い。」
軽く、触れるくらいのキスをする。ふに、と、綿飴のような感触だけが残った。
「ちょっと、いきなり何を……!」
「だって、享奈は優しいから、すぐにどっか行っちゃいそうなんだもん。そこが良いところなんだけど、享奈はただ、私だけのものなんだよ?」
真っ赤になった、初心な享奈を抱き寄せ、もう一度唇を合わせる。今度は、音が残るぐらいに、私が刻み込まれるぐらい、深く。
「……ねえ、享奈。私ね、ずっと我慢してるんだよ?」
間にテーブルが挟まっているのが邪魔だ。隣に座り直し、後ろから、彼女の白い頸に接吻を落とす。
「本当は、貴女の視界に、他の人が留まるだけでも嫌なの。行動も、感覚も、心も全て、私に縛り付けてしまいたい。でもね、そんな事をしたら、享奈は悲しむって、私知ってる。貴女を悲しませたくないから、だから抑えてるんだよ?」
享奈の背が、びくり、と跳ねた。彼女は首筋が弱い。私は、それを知っていた。
「……だからさ」
「な、何? いきなり……」
私が抱きつくと、享奈は、声を震わせながらも、静かに声を上げた。
私は、不安と涙で震える声を、何とか制御して、彼女に懇願する。
「……私を置いていかないで。一人にしないでよ。何だってするから……、私から、生きていく意味を奪わないで。」
最悪の目覚めだ。
体を起こし、私は頭を抱えた。
夢判断に頼るまでもなかった。まさか、こんな浅ましい夢を見てしまうほどに、心の蟠りが大きくなっていたとは。
あるいは、ただ単に欲求不満なのかもしれない。そうなら、私は今すぐ命を絶ちたい。
時計を見ると、既に時間は七時を回っていた。だが、今日は土曜日なので、むしろ早い方の時間だと言える。
昼には、享奈がやって来る約束になっていた。次の曲のため、私の詞を読みに来るのである。
明日も休みだから、もしかしたら、泊まっていくと言い出すかもしれない。ならば、彼女用の寝室も掃除せねばなるまい。
課題は多く、時間は少ない。二度寝などしてはいられないだろう。
私は、のっそりと体を起こし、顔を洗った。髪を梳かし、少し飾りを作ってみる。初めの頃は、享奈に爆笑される出来だったが、今では、「……いいじゃん。」と言われるぐらいには、さり気なく出来るまでになっていた。ちなみに、享奈の前でしかこんなことはしない。そして、それを享奈は気づいていない。
目玉焼きを作り、何となくトーストの上に置いてみた。通称ラピュタパン。私の中では、時折、無性に口にしたくなるもの、第二位である。一位は抹茶ラテだ。
大きく頬張った卵は、少し焼きすぎていた。
掃除や買い出し等、準備に明け暮れていると、いつの間にか、享奈がやって来る時間になっていた。
「お邪魔しまーす」
享奈が入ってきた。手に、やたら横に嵩張る袋を持っている。
「……それ、何?」
「何って、『三種の特製チーズ』と『プルコギ風焼肉』だけど。」
私たちが休日に会う時、待ち合わせは昼前で、昼ごはんは、訪問者側が二人分用意する習わしとなっていた。享奈が弁当を持ってきた回数は、十指では数え切れないが、ピザを持ってきた回数は、数えるのに指など要らなかった。ゼロだ。
「何でピザ? なんか、お祝い事でもあったっけ?」
「ピザ屋の前を通りかかった時に、二枚買うと一枚半額だ、って言ってたから。すごくお得じゃない?」
ああ、そうだ。大体、千円ぐらいは得をしている。だが、
「この量、二人で食べ切れる?」
Lサイズの二枚のピザの前で、私は目を覆った。
「……あっ」
どうやら、享奈はサイズのことを考えていなかったらしい。享奈らしいな、と思った。
箱を開けると、艶やかなチーズの黄色が、部屋の照明に映えた。まだ温かい。さっき、焼き上がったばかりなのか。
「ピザの食べ方ってさ」
「ふぁひ?」
ピザの端を咥えながら、享奈はこちらを向いた。「何?」か「はい?」だと思われるが、正確に何を言ったのかは分からない。
「結構人それぞれだよね。」
「はひはい」
私が、手元でピザを丸めているのを見ながら、享奈は無駄にチーズを伸ばした。閉じきられていない唇の端から、微かに覗く、白い、形の整った前歯に、官能的な美が宿っていた。直截に、端的に、オブラートなしで言うと、実にエロい。
無警戒の友人に対し、そんな目を向けている自分に耐えきれず、私は急いでピザを食べた。
「初めて見たな、そうやってピザを食べるの。なんか、理由ある?」
耳の最後の一欠片を呑み込んで、享奈は唇の端に指を当てながら聞いてきた。
「そんなにはないけど……強いて言うなら、本が汚れないように、かな。」
そう言うと、享奈は「嵐らしいね」と微笑んだ。
結局、ピザは一枚、何とか胃袋に収めたものの、もう一枚は夜に持ち越されることとなった。持って帰るという選択肢はないのか。
この心の痛みにも、私は付き合い方を見出し始めてきていた。だから、耐えきれずに享奈を家から追い出す、などということはもうしない。
友人として、私はもう、享奈から逃げない。洗い物をしながら、私は改めてそう誓った。
「そう言えば嵐、最近、秋野さんと仲がいいよね。」
そんな、私の心も露知らず、享奈はソファの上で足をバタつかせていた。
「うん、そうだね。」
享奈への恋を否定するため、私はまず、秋野に近づいた。私のこれは、恋などではなく、ただの依存だと、思いたかったからだ。
だが、どれだけ秋野さんと近づいても、享奈に向けるような感情を、彼女へも向けることは出来なかった。
「いい人だよ、秋野さん。ちょっと、話し方に癖があるけど、友達思いの人で。」
「そうなの。あんまり、話したことないけど……。嵐がそう言うなら、いい人なんだろうね。」
今度話しかけてみようかな、と、享奈は暢気に言い放った。
羨ましい、何の悩みもなさそうで。いや、彼女の幸せは、私の幸せだ。そうであるべきだ。
秋野と、享奈が、友達同士になったらどうなるだろうか。多分、どうにもならないだろう。ただ、私と享奈で過ごしてきた、今までの日々に、彼女の姿が増えるだけだ。あるいは、時には私の姿が、彼女の姿に変わることもあるのかもしれない。
時には、私の都合が合わなくなったりして、そういった時は、享奈と秋野だけで、どこかへ遊びに行く事があるだろう。ショッピングなどに興じたりして、家に戻って、きっと享奈は、秋野の為だけにピアノを弾くのだ。私ではなく。
彼女は、私などよりよほど、人間として素晴らしい。享奈はやがて、私よりも、秋野との時間を優先するようになるだろう。
嫌だ。嫌だ嫌だ嫌だ。そんなことは認められない。
「ちょっと嵐⁉︎ 大丈夫?」
ハッと、我に返る。足元に、皿の破片が散らばっていた。
疲れているのだ。そう言われ、私はベッドに押し込まれた。
「こんな嵐を、一人にはさせられないし。」
そう言って、享奈は当たり前のように着替えを取り出した。流石に悪い、と止めようとしたが、泊まるのはよくある、という言葉で押し切られ、今に至る。
「……まったく、珍しいね、嵐がこんなになるなんて。」
享奈は、ベッドの上に座ってため息をついた。
「ごめんね……。」
「やっぱり、秋野さんと何かあったんじゃない?」
「……何にもないよ。」
享奈は、秋野を疑っている様子だった。彼女には悪いことをした。私が、ただ嫉妬心に駆られただけなのに。
「まあ……嵐が、そう言うなら……。」
あまり納得していなさそうだが、とりあえず享奈はそう言った。
享奈は、どこか浮世離れした、純粋な性格をしている。そのせいか、一度信じたことから、中々離れられない、という困った一面もあった。
以前、エイプリルフールで、レッサーパンダはパンダの子供だ、と嘘をついた事がある。何も思いつかず、適当に言った嘘だったのだが、つい訂正のタイミングを失ったら、彼女は以後三ヶ月あまり、それを信じ込んでいた。
それを訂正した時は、彼女は随分と旋毛を曲げたものである。
まあ、拗れそうなら、この醜い心のうちを曝け出してしまえばいい。
――そんなことが出来るのか?
「……あ、ごめん。ちょっと。」
享奈が、携帯を置いて部屋を去った。よくある生理現象だろう。
私は、上体を起こし、享奈が去った方をぼんやりと眺めていた。
こんな私の本性が、もし享奈に知られたら、享奈は私をどう思うだろうか。少なくとも、今までの関係ではいられないだろう。
心のうちを明かすのは、私が享奈の前から消える時だ。
耳元に、ピアノの調べが流れてきた。モーツァルトの、きらきら星変奏曲。
享奈の携帯が、着信で振動していた。着信音は、かごめかごめだったはずだが、変えたのだろうか。
持ち上げると、発信元は美濃だった。
知らない人からならともかく、相手があの美濃であれば、放置するのは彼にも悪いだろう。とりあえず、享奈が今いないことだけは伝えようと、私は通話ボタンを押した。
「もしもし。」
「あれ? 山風さん?」
美濃は困惑している様子だった。まあ、仕方ないか。享奈ではなくて申し訳ない。
「すみません、享奈は、その……ちょっと、席を外してて。ご要件は何ですか?」
「いや、うん、まあ……大したことじゃないよ。ただ、ちょっと、享奈の声を聞きたいな、と。」
彼は、はにかんだ様子でそう答えた。仲の良さそうなことで何よりである。
「もう少しで、享奈戻ってきますけど。それまで待ってます?」
「いや、いいよ。本当に大した用事じゃないしさ。」
「はあ……ところで。」
「何?」
「やっぱり、享奈と、お付き合いされてます?」
ある程度の諦念と覚悟を込めて、私はあえて、おちゃらけてそう問いかけた。これがはっきりした方が、心の持ちようが楽なのだ。
電話の向こうが固まった。
「あ、不躾ですみません。ちょっと気になったもので。嫌なら別に答えなくても――」
「いや、答えます。」
心臓が、どくりとうるさく鳴った。
「山風さんは、享奈さんの親友ですので。……一応、お付き合いさせていただいております。」
「あー、やっぱり……。頑張ってくださいね。」
「ありがとう。」
通話が切れた。堰を切って、溢れ出しそうな涙を、私は必死にこらえ、枕に顔を埋めた。
「ごめんねー、遅くなっちゃって。――寝ちゃったか。」
どれだけ、そうしていただろうか。享奈が、部屋に戻ってきた。私は驚いて、反射的に狸寝入りをしてしまった。
享奈と美濃の仲がいいのは、分かり切っていたはずなのに。
いざ突きつけられると、やはり、感情の制御が難しかった。
夜までには、顔を戻さなければ。これ以上享奈を心配させることは、絶対に避けたかった。
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