【中世ヨーロッパ短編小説】薔薇の言葉 ―庭師セバスティアンの生涯―(9,986字)
藍埜佑(あいのたすく)
【中世ヨーロッパ短編小説】薔薇の言葉 ―庭師セバスティアンの生涯―(9,986字)
◆第1章:修道院の少年
霧深い朝のことだった。サン・ミシェル修道院の石塀の外に、一つの籠が置かれていた。修道士たちが朝課を終えて外に出ると、籠の中から小さな泣き声が聞こえた。
「主よ、慈悲を!」
最初に駆け寄ったのは、修道院付きの庭師を務めるトマス修道士だった。彼は籠の中の赤子を優しく抱き上げ、十字を切った。
次にトマス修道士は籠の中にある白薔薇に気づき、しばらく見つめていた。その眼差しには、何か深い思いが宿っているようだった。
「この薔薇の香り……まさか」
彼は小さくつぶやくと、白薔薇を大切そうに手に取った。
「これはまた珍しい色の瞳をしておる……」
赤子は片方が緑、もう片方が琥珀色という珍しい虹彩を持っていた。まるで春の若葉と秋の実りを同時に映すかのような瞳は、不思議な輝きを放っていた。
赤子は修道院で洗礼を受け、セバスティアンと名付けられた。姓はなく、ただ「薔薇の子」を意味するデュロシエの通り名が与えられた。それは、彼が発見された籠に一輪の白薔薇が添えられていたことに由来している。
ある夜、誰も見ていない時間に、トマスは一通の手紙を書き、遠い地への使者に託した。返事は来なかったが、それ以来、彼はセバスティアンの成長を見守りながら、毎年決まった日に一輪の白薔薇を祭壇に供えるようになった。
セバスティアンは他の捨て子たちと共に修道院で養育されたが、幼い頃から際立って変わった子供だった。彼は植物と話ができるのだと主張し、修道院の庭で一人で過ごすことを好んだ。最初は誰もその言葉を真に受けなかったが、彼の世話を任されたトマス修道士だけは、少年の不思議な才能に気付いていた。
「セバスティアン、また一人で庭にいたのか?」
ある日、トマス修道士は夕暮れ時の庭で、花々に囲まれて座っている少年を見つけた。
「はい。今日はスミレたちが面白い話を聞かせてくれました」
「どんな話だ?」
「遠い国から渡ってきた種の話です。風に乗って、海を越えてきたんだそうです」
トマス修道士は少年の頭を優しく撫でた。他の修道士たちは少年の奇妙な言動を訝しく思っていたが、トマスは彼の純真な心に触れるたびに、これは神が与えた特別な才能なのだと確信を深めていった。
セバスティアンは読み書きと共に、トマス修道士から園芸の基礎を学んだ。セバスティアンの手にかかると、どんな病んだ植物も見事に蘇った。枯れかけた木々は新芽を吹き、弱っていた花々は鮮やかに咲き誇った。
「植物たちが何を望んでいるか、私にはわかるんです」
少年はそう言って、いつも穏やかな微笑みを浮かべていた。
十二歳になった頃、セバスティアンは修道院の庭園の一画を任されるようになった。そこで彼は、薬草と花々が調和した美しい空間を作り上げた。訪れる人々は皆、この庭の不思議な魅力に心を奪われた。
「まるで楽園の一部を切り取ったかのようじゃ」
近隣の村から治療を受けに来た人々もそう言って感嘆した。セバスティアンの庭で育った薬草は、通常以上の効能があるとも噂された。
しかし、平穏な日々は永遠には続かなかった。セバスティアンが十五歳になった年、修道院に一人の来訪者が訪れる。それは、シャンパーニュ伯爵家の園芸責任者、ギヨーム・ド・ボーモントだった。
彼は修道院の評判を聞きつけ、新しい見習い庭師を探しにやって来たのだ。そして、セバスティアンの手がけた庭を一目見るなり、この少年こそ自分が求めていた人材だと直感した。
「坊や、わしと一緒に伯爵様の館に来る気はないか?」
ギヨームの申し出に、セバスティアンは戸惑いを隠せなかった。修道院は彼にとって唯一の家であり、トマス修道士は父のような存在だった。しかし同時に、もっと広い世界で自分の才能を試してみたいという思いも芽生えていた。
「行くがよい」
トマス修道士は少年の肩に手を置いて言った。
「お前の才能は、もっと大きな庭園で花開くべきなのだ」
「でも……」
「心配はいらん。お前はもう立派な庭師だ。それに、いつでもここへ戻ってくることができる」
セバスティアンは深く頭を下げ、涙をこらえながら答えた。
「ありがとうございます。必ず、もっと素晴らしい庭を作れるようになって戻って参ります」
こうして少年は、新たな人生の一歩を踏み出すことになった。
◆第2章:見習い庭師
シャンパーニュ伯爵家の館は、セバスティアンが想像していた以上に壮大だった。石造りの城壁に囲まれた敷地内には、幾つもの庭園が広がっていた。
「ここが今後お前が学ぶ場所だ」
ギヨームは新たな見習い庭師を案内しながら説明した。
「伯爵様は庭園をこよなく愛されておられる。特に薔薇には並々ならぬ愛着をお持ちでな」
セバスティアンは師の言葉に頷きながら、あちこちに咲き誇る様々な品種の薔薇に目を奪われていた。白や紅、黄色やピンク、それぞれが独自の香りと個性を放っている。
「薔薇たちも、新しい仲間が来たことを喜んでいるようです」
思わずそう呟いたセバスティアンに、ギヨームは不思議そうな表情を向けた。しかし、それ以上の追及はなかった。
見習い期間は容易いものではなかった。早朝から日没まで、休む間もなく働き続けた。土作りから剪定、接ぎ木、病害虫の管理まで、庭師として必要なあらゆる技術を徹底的に叩き込まれた。
「お前には確かな才能がある。だが、才能だけでは一人前の庭師にはなれんぞ」
ギヨームの言葉は時に厳しかったが、その底には確かな愛情が感じられた。
セバスティアンにとって、最も心を惹かれたのは薔薇の品種改良だった。ギヨームは各地から珍しい品種を取り寄せ、新しい交配を試みていた。
「薔薇たちは、私たちが想像も付かないような可能性を秘めているんです」
ある日、セバスティアンはそう言いながら、一つの実験的な交配に挑戦した。誰もが諦めていた組み合わせだったが、彼には薔薇たち自身から、それが可能だと聞いていた。
その試みは見事に成功し、今までにない青みがかった紫の薔薇が誕生した。その美しさに、ギヨームも目を見張った。
「驚いたな。これは確かに画期的な成果だ」
その成果は、セバスティアンの評価を大きく高めることになった。しかし、彼の関心は名声や地位にはなかった。ただ、植物たちと対話しながら、より美しい庭を作ることだけを考えていた。
見習い期間の三年目、セバスティアンは思いがけない出会いを経験する。それは、伯爵の一人娘、クレマンス・ド・シャンパーニュとの出会いだった。
彼女は庭園を散策するのが日課で、しばしばセバスティアンの仕事場の近くまでやってきた。最初は身分違いを意識して距離を置いていたが、植物への深い愛着という共通点が、二人を少しずつ近づけていった。
「あなたは本当に植物と話ができるの?」
ある日、クレマンスは率直にそう尋ねた。
「はい。ですが、それは……」
「素敵なことだと思うわ」
クレマンスは真摯な眼差しでそう言った。
「私も小さい頃から、花たちに話しかけるのが好きだったの。でも、返事が聞こえたことはなかった。あなたが羨ましいわ」
その言葉は、セバスティアンの心に深く染み入った。彼の特異な才能を、これほど素直に受け入れてくれる人は珍しかったからだ。
しかし、身分違いの二人の交流は、周囲の目を引くことになった。特に、クレマンスの婚約者として有力視されていた近隣の若い領主、ギョーム・ド・モンフォールは、その関係を快く思っていなかった。
「下賤な庭師風情が、身分不相応な夢を見ているのではないだろうな?」
ある日、モンフォールは作業中のセバスティアンを見つけると、威圧的な口調でそう告げた。セバスティアンは黙って頭を下げることしかできなかった。
その夜、彼は自室で一輪の白薔薇を見つめながら、自分の立場を思いを馳せた。十五年前、自分が修道院に捨てられた時に添えられていたのと同じような白薔薇。その花は今でも、彼の原点を象徴する存在だった。
◆第3章:伯爵家の庭師
見習い期間を終えた二十歳のセバスティアンは、めきめきと頭角を現していった。ギヨームの後継者として、庭園の重要な部分を任されるようになる。特に、新たに造成された南庭園の設計は、全面的に彼に委ねられた。
「お前なら、きっと素晴らしい庭を作れるはずだ」
ギヨームはそう言って、完全な裁量を彼に与えた。セバスティアンは植物たちと対話しながら、自然の力を最大限に活かした庭園を構想した。
そこには幾何学的な整形式庭園の厳格さと、自然風景式庭園の柔らかさが見事に調和していた。中心には噴水を配し、その周りを様々な品種の薔薇が取り囲む。季節の移ろいと共に表情を変える花々が、訪れる人々の心を癒した。
「まるで天上の楽園のようだ」
完成した庭園を見た伯爵は、心からの賞賛の言葉を贈った。セバスティアンの才能は、いよいよ広く知れ渡ることになる。
しかし、栄光の陰で、新たな試練が待ち受けていた。その年の夏、突如として庭園を襲った原因不明の病。次々と薔薇が枯れていき、他の庭師たちは為す術もなく立ち尽くすばかりだった。
七月の蒸し暑い夜だった。月明かりの下、セバスティアンは一輪の枯れかけた薔薇の前にひざまずいていた。その日のうちに、また新たに十株の薔薇が褐色の斑点に覆われ、葉を萎れさせていた。
「お願いです、あなたの苦しみを教えてください」
彼は静かに目を閉じ、薔薇の声に意識を集中させた。最初は風の音だけが聞こえていたが、やがてかすかな震えが彼の指先に伝わってきた。
茎を伝って、根元まで意識を降ろしていく。土の中で、薔薇の根が必死に何かと戦っているのが感じられた。それは目に見えない敵との静かな死闘だった。
「そうか……水脈が……」
セバスティアンは突如として立ち上がると、松明を手に取って庭園内を駆け巡り始めた。病に冒された薔薇たちの位置を一つ一つ確認していく。それらを結んでいくと、かすかな線が浮かび上がった。
その線は、昨年新設された地下水路と重なっていた。
「地下水路の接合部に隙間が……」
彼は震える手で土を掘り始めた。月明かりの下、汗で髪を濡らしながら、必死で土を掘っていく。やがて、地下水路の石組みが現れた。そこには確かに、苔むした小さな隙間があった。
その隙間から染み出る水に、異様な臭気が漂っていた。腐敗した有機物の香り。それが土壌全体に広がり、薔薇たちの根を蝕んでいたのだ。
「これが原因だったんだ」
セバスティアンは急いで作業場に戻り、古い文献を引っ張り出した。かつてトマス修道士から教わった、特殊な浄化方法の記録である。
そこに記された方法は危険を伴うものだった。強い殺菌力を持つ薬草の煎じ液を使うのだが、配合を間違えれば、残った植物まで枯らしてしまう。
しかし、もう迷っている時間はなかった。
セバスティアンは三日三晩、眠ることも忘れて作業を続けた。乾燥させたセージとタイムの葉を粉末にし、ニンニクの搾り汁と混ぜ合わせる。そこに特殊な鉱物を加え、祈りの言葉を唱えながら煮詰めていった。
出来上がった液体は、不思議な青みを帯びていた。
「あとは信じるだけです」
彼は恐る恐る、地下水路の隙間に液体を注ぎ込んだ。そして、病に冒された薔薇たち一株一株に、丁寧に液体を振りかけていく。
最初の一週間は変化が見られなかった。しかし、新月を過ぎたころから、少しずつ変化が現れ始める。新芽が吹き、褐色の斑点が薄れていく。薔薇たちが、確実に生命力を取り戻していった。
一ヶ月後、庭園は見事に蘇った。以前にも増して美しい花々が、朝露に輝いていた。
「見事な手腕じゃ」
伯爵は満足げな表情で、庭園を見渡した。
「そなたこそ、わが庭園を守るにふさわしい人物じゃ。今日より、そなたを庭師長に任ずる」
セバスティアンは深々と頭を下げた。その時、南風が吹き抜け、薔薇たちが花びらを揺らした。まるで、彼の功績を祝福するかのように。
ギヨームは晴れやかな表情で、自分の後継者の成長を見守っていた。
「もはやわしが教えることは何もない。これからは自分の道を歩むがよい」
その言葉に、セバスティアンは深々と頭を下げた。
しかし、幸せな日々は長くは続かなかった。シャンパーニュ地方周辺に、突如として戦乱の影が忍び寄っていた。近隣の領主たちの対立が深まり、やがて小規模な戦闘が各地で勃発するようになった。
クレマンスとの関係も、微妙な段階を迎えていた。彼女の婚約話が具体化し始めたのだ。モンフォール家との政略結婚が既定路線となりつつあった。身分の差を越えた二人の想いは、現実の前に色褪せていくように思われた。
「私にはもう、選択の余地がないの」
ある夕暮れ時、クレマンスは庭園の片隅でそっと涙を流した。セバスティアンにできることは、ただ黙って彼女の傍らに立ち、寄り添うことだけだった。
その夜、彼は新しい品種の薔薇の開発に没頭した。それは深い青と紫を帯びた、今までにない色彩を持つ花になるはずだった。クレマンスへの想いを、せめて一輪の花に託そうとしたのだ。
◆第4章:戦乱の谷
シャンパーニュの地に、ついに戦火が及んだ。モンフォール家とその同盟者たちが、伯爵領の一部に侵攻してきたのだ。
伯爵家の館も戦況の影響を受け、多くの従者たちが避難を余儀なくされた。しかし、セバスティアンは庭園を守るため、最後まで踏みとどまることを選んだ。
「花たちを見捨てるわけにはいきません」
彼の決意は固かった。戦火の中でも、庭園の手入れを欠かさなかった。時には夜を徹して、傷ついた木々の手当てを行った。
そんな中、予期せぬ来訪者があった。クレマンスが密かに庭園を訪れたのだ。
「私、モンフォール家には嫁ぎません」
彼女は震える声でそう告げた。
「お父様の意向に逆らってでも、自分の心に正直に生きたいの」
# 改訂シーン:深まる想いと現実の壁
薄暗い月明かりの中、セバスティアンはクレマンスの言葉に心を震わせていた。彼女の瞳には、決意と不安が交錯している。白薔薇の香りが、夜風に乗って二人を包み込んでいた。
「お父様の意向に逆らってでも、自分の心に正直に生きたいの」
その言葉は、セバスティアンの心の奥深くに眠る想いを揺り起こした。幼い頃から、彼は自分の立場を知っていた。捨て子として育った身の上、そして今は一介の庭師に過ぎない身分。それでも、クレマンスと過ごす時間の中で、彼の心は確かに愛を育んでいた。
「お嬢様……」
言葉が喉まで出かかり、そこで止まる。セバスティアンの心の中では、相反する感情が渦を巻いていた。
(この方の人生を、私の想いで台無しにしていいのだろうか)
確かに、クレマンスへの愛は本物だった。彼女が庭園に訪れる度に交わす言葉、植物たちの声に耳を傾ける姿、そして時折見せる憂いを帯びた微笑み。それら全てが、彼の心に深く刻まれていた。
しかし同時に、現実の重みも痛いほど感じていた。今、外では戦が起きている。貴族たちの権力争いの中で、伯爵家の一人娘である彼女の結婚は、単なる個人の問題ではなかった。それは家の存続、領民の安全、そして地域の平和にも関わる重大事だった。
クレマンスは、セバスティアンの沈黙の意味を悟ったように、一歩近づいてきた。月明かりに照らされた彼女の横顔は、かつてないほど凛としていた。
「あなたの気持ちもわかっています。でも……」
彼女の声が少し震えた。
「私にはわかるの。あなたが植物たちの声を聞けるように、私にもあなたの心が聞こえる」
その言葉に、セバスティアンの心が大きく揺れた。自分の特別な能力を、これほど深く理解してくれる人は、クレマンスの他にいなかった。
(だからこそ)
彼は拳を強く握りしめた。
「このような時代だからこそ、お嬢様のような方には、相応しい……」
「相応しい?」
セバスティアンの言葉を遮るように、クレマンスが声を上げた。
「誰が相応しいと決めるの? モンフォール家? 私の心も知らずに?」
その時、彼女の目に涙が光った。それは怒りなのか、悲しみなのか、はたまた決意の表れなのか。
セバスティアンは、庭の薔薇たちの囁きを聞いた。それは彼が初めて聞く種類の声だった。喜びでも悲しみでもない、人の心の深さを映すような不思議な響き。
「私には、この庭園があります」
彼はようやく、静かに口を開いた。
「そして、お嬢様には守るべきものが」
「でも、この庭園こそが、私の心の真実を映しているのよ」
クレマンスの言葉は、夜の静寂を切り裂くように響いた。
「あなたが作り出す美しさ、植物たちとの対話、それらは身分など関係ない。私が本当に求めているものは……」
その時、遠くで爆発音が轟いた。現実が、残酷なまでのタイミングで二人の間に割って入る。セバスティアンは反射的にクレマンスを庇い、その腕の中で、彼女の体の震えを感じた。
それは二人の置かれた状況の象徴のようでもあった。どれほど強い想いを抱いていても、現実という名の重圧は、容赦なく二人に襲いかかってくる。
「僕は、お嬢様を、お守りします」
セバスティアンの声は、意図せず掠れていた。その言葉は、プロポーズではなく、別れの宣言のように響いた。彼は自分の心の中で、小さく、しかし確実に芽生えていた希望の種を、自らの手で摘み取ろうとしていた。
永遠に続くかと想われた沈黙のあと、近くで爆発音が轟いた。敵軍の砲撃が始まったのだ。
セバスティアンは咄嗟にクレマンスを庇い、二人で地下の貯蔵庫に避難した。暗闇の中で互いの息遣いを感じながら、二人は長い時を過ごした。
その夜、庭園の一部が破壊された。特に、セバスティアンが丹精込めて育てていた青紫の薔薇の花壇は、砲弾の直撃を受けて跡形もなく消え去った。
しかし、その災いは思わぬ発見をもたらした。破壊された花壇の下から、古い石板が見つかったのだ。そこには、かつてこの地に存在した伝説の庭園、「薔薇の迷宮」についての手がかりが記されていた。
◆第5章:薔薇の迷宮
古い石板の解読は、セバスティアンに新たな使命を与えた。それは単なる庭園の記録ではなく、この地に伝わる古い魔術的な園芸術の秘伝だった。
石板によれば、かつてこの地には「薔薇の迷宮」と呼ばれる神秘的な庭園が存在したという。そこでは、人間の想いが花となって咲き誇り、真実の愛を示す青い薔薇が育つとされていた。
(これは偶然ではない)
セバスティアンはそう確信した。自分が育てようとしていた青紫の薔薇、そして自分自身が捨て子として発見された時に添えられていた白薔薇。全てが何かの意味を持っているように思えた。
彼は石板の導きに従い、古い庭園の跡地を探し始めた。そして、城の裏手の断崖の下に、かつての「薔薇の迷宮」の痕跡を発見する。
戦火の合間を縫って、セバスティアンは古代の園芸術の復元に取り組んだ。石板に記された手順は難解で、時には危険を伴うものだったが、植物たちの声に導かれながら、少しずつ前進していった。
その過程で、彼は自分の出生の秘密に近づいていく。白薔薇は代々、「薔薇の迷宮」の守り手の象徴だったのだ。そして、その守り手たちは皆、植物と対話する能力を持っていたという。
「まさか、僕が……」
セバスティアンの心に、新たな疑問が芽生えた。自分はいったい何者なのか。なぜ修道院に捨てられることになったのか。答えは、「薔薇の迷宮」の深部に眠っているかもしれない。
しかし、その探求は思わぬ障害に直面する。モンフォール家の軍勢が、城の包囲を強めてきたのだ。戦況は日に日に厳しさを増し、庭園を維持することすら困難になっていった。
「こんな時だからこそ、庭園は必要なんです」
セバスティアンは必死で働き続けた。傷ついた兵士たちの治療に使う薬草を育て、疲れ果てた人々の心を癒す花々を絶やさないよう努めた。
そんな彼の献身的な働きぶりは、しだいに敵味方の区別なく、多くの人々の心を動かしていった。時には、敵軍の兵士たちさえも、こっそりと庭園を訪れては心の安らぎを求めるようになった。
そして、運命の日がやってくる。モンフォール家の当主が重傷を負い、その治療のために密かに城に運び込まれてきたのだ。
「私の父を……お願いします……」
かつての敵、ギョーム・ド・モンフォールが、今や赤子のように無力な姿でセバスティアンの前に横たわっていた。彼は迷うことなく、「薔薇の迷宮」から得た知識を活かし、特別な薬草による治療を始めた。
治療は成功した。モンフォール家当主の一命を取り留めたことで、戦況は急転する。和平の機運が高まり、ついに両家は停戦協定を結ぶに至った。
皮肉なことに、この出来事により、セバスティアンの立場は大きく揺れ動くことになる。
◆第6章:最後の庭
和平後、セバスティアンの評判は一気に高まった。彼の治療と庭園の効能は奇跡的なものとして語り継がれ、各地の貴族たちから招聘の話が持ち込まれるようになった。
しかし、彼の心は別のところにあった。「薔薇の迷宮」の復元こそが、自分に課せられた本当の使命だと感じていたのだ。
ある日、セバスティアンは忙しい合間を縫って体調を崩したトマス修道士の見舞いに訪れた。かつての師は、明らかに衰えを見せていた。
「セバスティアン……もうこれ以上は待てぬ」
トマスは弱々しい手で、長年使っていた聖書を開いた。その中から、黄ばんだ一通の手紙が取り出された。
「これは15年前、お前が修道院に預けられた日に添えられていたものだ」
セバスティアンは息を飲んだ。手紙は薔薇の花押で封がされていた。
「実は……お前の母親のことを、わしは知っている。いや、知っているだけではない」
トマスは深いため息をつき、長年の重荷を下ろすように語り始めた。
「お前の母は、わしの妹なのじゃ」
セバスティアンは絶句した。トマスは続けた。
「妹は『薔薇の迷宮』最後の守り手の血を引く者。お前が邪悪な者の手に落ちぬように、生まれたばかりのお前を、実の兄である私に託したのだ」
震える手で差し出された手紙。
「なぜ、今まで……」
「お前の才能が目覚めるのを、確かめる必要があった。そして何より、お前自身の力で運命を切り開いてほしかったのだ」
手紙には、「薔薇の迷宮」の完全な設計図と、青い薔薇を育てる秘法が記されていた。それは代々、守り手たちが受け継いできた知識だった。
「お前の中に流れる血は、この地の歴史そのものなのだ」
セバスティアンは深い感動と共に、自分の使命を悟った。彼は伯爵に願い出て、「薔薇の迷宮」の完全な復元に取り組む許可を得た。
作業は困難を極めた。時には命の危険すら感じる瞬間もあった。しかし、植物たちの声に導かれ、母の残した設計図を頼りに、少しずつ古代の庭園が甦っていった。
そして、ついに青い薔薇の培養に成功する。それは夜明けの空のような、神秘的な青色をたたえた花だった。
その噂は瞬く間に広がり、遠方からも見物人が訪れるようになった。「薔薇の迷宮」は、再び人々の心を癒す聖地として蘇ったのだ。
クレマンスも、その美しさに心を奪われた一人だった。
「これがあなたの本当の庭なのね」
彼女の言葉に、セバスティアンは静かに頷いた。二人は既に、互いの進むべき道が違うことを受け入れていた。クレマンスは政略結婚こそ避けたものの、身分相応の結婚を選んだのだ。
「でも、この庭園のことは決して忘れません」
彼女の目には、懐かしさと決意が混ざり合っていた。
◆第7章:春の調べ
歳月は流れ、セバスティアンも中年を迎えていた。「薔薇の迷宮」は、彼の手によって更なる発展を遂げていた。
今では、修道院から見習いの少年少女たちが派遣されてくるようになっていた。セバスティアンは、かつてのトマス修道士のように、若い世代に園芸の技と心を伝えることに喜びを見出していた。
「植物たちの声が聞こえますか?」
彼はいつも、見習いたちにそう問いかけた。驚くべきことに、何人かの子供たちは、確かに何かが聞こえると答えた。「薔薇の迷宮」の不思議な力が、新たな才能を目覚めさせているのかもしれなかった。
ある春の朝、セバスティアンは庭園で一人の少女を見つけた。彼女は、まるで花々と話すように、薔薇の前でつぶやいていた。
「君は、植物の声が聞こえるのかい?」
「はい! でも、誰にも信じてもらえなくて……」
少女の瞳は、かつての自分そのものだった。セバスティアンは、この子こそが次の守り手になるのだと直感した。
その夜、庭園の中心で咲く青い薔薇の前に座りながら、セバスティアンは自分の人生を振り返った。波乱に満ちた日々だったが、常に植物たちが傍らにいてくれた。そして今、その導きは次の世代へと受け継がれようとしている。
「母上、私は自分の使命を果たせたでしょうか」
問いかけに答えるように、夜風が庭園を優しく撫でていった。薔薇たちの囁きが、春の調べとなって響き渡る。
それは新しい季節の始まりを告げる音色だった。
(了)
【中世ヨーロッパ短編小説】薔薇の言葉 ―庭師セバスティアンの生涯―(9,986字) 藍埜佑(あいのたすく) @shirosagi_kurousagi
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