第5話 失われしもの

「何者だ!?」


 いつの間にか霧が深く、濃くなっている。

 狭い庭のすぐ向こうに塀があるくらいの小さな屋敷なのに、その塀のあたりすら見通せない。

 返事はなく、今度は東の対の逆側に、火矢が放たれた。


「右大臣、藤原朝臣実資と知ってのことか!?」


 腹から声を出して呼ばわると、霧の向こう、おぼろおぼろとした闇の中から、どっと哄笑があがった。

 囲まれている。

 供はどうしたのだ。皆、斃されたのか。


 ならばせめて門がある方にと飛び出した実資に、直接矢が飛んでくる。

 反射的に身を縮めて躱したが、矢の一本が、実資の衣の袖を貫き、柱に縫い止められてしまった。


「ちぃぃぃぃッ」


 松明を外に投げ捨て、実資は衣の袖を引きちぎった。

 その間にも、火矢はどんどん放たれ、慌てて中に戻る。


 こんなところで終わるわけにはいかない。

 せめて、可愛い千古の子を我が腕に抱くまで、なにがなんでも生き延びねばならない。


 なのに、大人の頭ほどの壺が投げ込まれ、ガチャンという音と共に、ぶわっと炎が立ち上がった。

 油だ。

 炎は床や柱を伝い、天井へと伸びてゆく。


 炎に煽られて、棚の文箱から『源氏物語』の草稿が次々と舞い上がり始めた。


 実資は息を飲んだ。


 かな文字で書かれた草稿の裏に、漢字がびっしりと書かれている。


 そうか。最初から女は史書をみずから書くという野望を持っていたのだ。

 だが、中級貴族の娘に過ぎない女、国司の妾妻に過ぎない女には、紙も必要な情報も欠けていた。

 そのための出仕、そのための『源氏物語』だったのだ。


 思えば、『源氏物語』には現実の人物や出来事を想起させる要素が多すぎた。

 桐壺帝・桐壺の更衣・光源氏・藤壺の中宮は、まるで一条天皇・皇后定子・敦康親王・中宮彰子。

 一方、紫の上は、わずか十一歳で入内させられた中宮彰子に通じる。

 美しく才に恵まれた貴公子が、政争に敗れて都から離れる場面では、誰もが長徳の変で流罪となった藤原伊周を連想した。

 都に戻り、位人臣を極めるさまは、あたかも左大臣藤原道長のよう。

 光源氏が、最愛の妻・紫の上に自分がいかに彼女を守ってきたかを誇り、夫にさんざん苦しめられてきた紫の上が絶望する場面は、女自身が「紫式部日記」で書き残した、敦成親王の誕生祝の宴で、道長の放言を聞いて無言のまま席を立った源倫子を思わせる。


 最初からあの女は、この国のあり様が書きたかったのだ。

 女の身で史書を書くなど許されることではないから、まずは『源氏物語』に埋め込んだのだ。


 草稿の裏に書かれた漢字は金色に輝きはじめ、ぺりぺりと剥がれはじめた。

 輝きは、奔流となって実資の眼の前に渦を巻く。


 まずは序。

 勅撰国史が編まれなくなったのは、摂関家の専横により律令制が骨抜きになり、ほとんどの者が国家のことなど考えなくなったからだと断じ、女の身ながら「名もない日本紀」を書くと宣言している。

 いかにも女手らしい、どこまでも流麗に、境目なく文がつながっていく『源氏物語』とは真逆、簡潔な短文を小気味よく連ねた文体だ。


 そして最後の勅撰国史『日本三代実録』が取り上げた光孝天皇より後の天皇の治世が、編年体で記される。


 関白藤原基経の後押しで即位した、班子女王を母とする宇多天皇。

 内大臣藤原高藤の娘・胤子を母とする醍醐天皇。

 関白藤原基経の娘・穏子を母とする朱雀天皇。

 同じく、穏子を母とする村上天皇。

 右大臣藤原師輔の娘・安子を母とする冷泉天皇。

 同じく、安子を母とする円融天皇。

 摂政藤原伊尹の娘・懐子を母とする花山天皇。

 摂政藤原兼家の娘・詮子を母とする一条天皇。

 摂政藤原兼家の娘・超子を母とする三条天皇。

 左大臣藤原道長の娘・彰子を母とする当今 (後一条天皇)。


 娘を入内させ皇子を産めば帝として擁立し、恣(ほしいまま)に我利を貪るのが摂関政治の基本。

 帝が協調する姿勢を見せれば良し、逆うならば圧力をかけ、退位させて幼帝を擁立する。

 その繰り返しに過ぎない。


 続くのは列伝。

 藤原基経、師輔、伊尹、兼家、道長と、公卿の頂点に立った者達がどう振る舞ってきたか、詳細が解説される。


 特に紙幅を割かれているのは、兼家と道長だ。


 兼家と息子たちが総出で、花山天皇を騙して出家させたこと。

 一条天皇が即位し、首尾よく兼家は摂政となり、専横を極める。

 兼家の長男・道隆は父に倣(なら)い、娘の定子を一条天皇の中宮とするが、早々に亡くなる。

 跡を継いだ兼家の次男・道兼もすぐに疫病で亡くなり、最高権力者は三男・道長となった。

 道長による定子への迫害と、道長の娘・彰子の入内。

 東宮となるべきなのは定子が産んだ第一皇子敦康親王なのに、彰子が産んだ第二皇子敦成親王が東宮に立てられる。

 一条天皇が崩御し、三条天皇の御代が始まるが、圧力をかけられ続けた三条天皇は、わずか五年で道長の孫である当今に譲位する。

 三十年余に及ぶ支配の後、道長は没し、長男・頼通が関白となった──


 最後に、兼家以降の摂関政治の問題点がまとめられている。


 一つは、荘園の爆発的な増大と縁故主義の横行によって、朝廷の収入が減少するだけでなく権威も衰え、公の事業が困難になったことである。

 官職は摂関家との近さ、そして賄賂によって決まるようになり、治水、諸国の街道や水運の整備、大学寮や悲田院の拡充等々、国の繁栄、民の安寧のために必要な事業が行われなくなった。

 要は、為政者が国家全体の利を考えないために、下の者も私利私欲に走るだけの世になってしまったということだ。


 もう一つは皇統の維持。

 摂関家に富と権力が集中した結果、それ以外の家から娘を入内させることがどんどん難しくなっていった。

 実際、実資は千古を入内させたかったが、道長に拒まれ、結局兼頼を婿にとっている。

 その結果、后の数は減り続けている。

 村上天皇には十人の后がいたが、一条天皇の后は六人、三条天皇は四人だ。

 当今に至っては、まだ若いこともあるが、道長の三女・威子ただ一人。

 しかし、入内しても妊娠するとは限らず、妊娠しても皇子が生まれるとは限らない。

 さらに出産の折に早逝する后は珍しくなく、ようやく生まれた皇子が夭折することもあるのだから、后を出す家を絞りすぎれば、いずれ皇統は絶える。


 そして今の世のありようを慨嘆し、後の世を憂う見事な七言絶句で、女は「名もない日本紀」を締めくくっていた。


 皆、実資が眼にしてきたこと、聞いてきたことだ。

 内心、危惧してきたことだ。

 だが、ひそひそとささやき交わしても、兼家に道隆、道長を憚って、誰も表立っては口にしなかった。

 実資にしても、日記で激烈に批判したり、身近な者に愚痴ることはあっても、道長を直接難詰することなどとてもできなかった。

 本気で道長と対立すれば、潰されるのは自分だったからだ。


 それが、漢文で、この国の歴史として書かれてしまっている。


 女は、そこまで強く摂関家を批判しているわけではない。

 自在に古典を引用しながら、むしろ悲憤慷慨を抑え、淡々と事実を述べている。


 だが、事実を歴史として並べることそのものが恐ろしいのだ。

 細かい校訂は必要だろうが、女の「名もない日本紀」は史書として十分整っている。

 この書が流布されれば、藤原氏が代々行ってきた簒奪が、この国の公(おおやけ)の歴史として灼きついてしまうだろう。


 きっと、誰かが「名もない日本紀」の存在に気づいたのだ。


 道長の北の方であり、長男頼通を摂政関白、次男教通を内大臣とし、四人の娘を全員入内させた上に、早逝した一人を除く三人を中宮とした源倫子は、みずからの栄光を汚す「歴史」を許さない。

 皇太弟の乳母で、栄達が約束されている娘・越後弁も、いまさら摂関家に刃を向けるような「歴史」を書いた母を許すまい。

 仁慈の国母として慕われる女院彰子でさえ、悪逆の僭主として一族を描く「歴史」を許しはしない。


 頼通も、その兄弟も、誰も彼も、こんなものを書いたあの女を許さない。


 紫式部は消されたのだ。


 誰が消したのかは、わからないままだろう。

 だが、誰が消したのかは問題ではない。

 この書を知れば、誰もが彼女を消そうとしただろうから。


 気がつけば、炎の壁に取り巻かれていた。

 ガラガラっと大きなものが崩れる音が、あちこちから聞こえる。


 我に返った瞬間、煙を吸い込んだ実資は咳き込み、目がくらんで床にどうと打ち伏した。

 存在してはならない、あの女の畢生(ひっせい)の「名もない日本紀」が、火の粉と共に次々と天へと舞い上がっていく。


 だめだ。

 だめだ。だめだ。だめだ。


 あれは遺さなければならない。

 この国のために、遺さなければならない。


 実資は、必死に虚空に手を差しのべる──






「殿」


 側仕えの声で、実資はふっと目を覚ました。

 既に蔀戸(しとみど)は上げられ、朝の光が差し込んでいる。


 うう、と唸り声を漏らしながら、実資はどうにか起き上がった。

 牛車で帰宅した後、文机の前で『源氏物語』の最後の帖を読みながら、あれやこれや考えているうちに、床の上で眠ってしまったようだ。

 汗を酷くかいたのか、肌がぬらついて気色が悪い。


「よくお休みでございましたね。

 明け方、中河のあたりで大きな火事があったようで、皆、立ち騒いでおりましたが」


「中河のあたり」


 まだぼんやりとした頭で、実資は繰り返した。


「最近お召しになっていた、紫式部の屋敷が火元だそうです」


「……そうか」


 あれは、夢だったのか。

 そして。

 夢はまことだったのか。


 実資は、失われしものの大きさを思い、両手で顔を覆った。





 この十六年後、永承元年正月に藤原実資は亡くなった。

 実資の日記「小右記」の部類記は結局完成せず、一度切り貼りしたものを日付順に貼り直して写し直したと思われる写本が遺されている。


 道長の六女・藤原嬉子が産んだ後冷泉天皇を最後に、摂関家の娘が産んだ天皇は途絶え、次の白河天皇からいわゆる院政期となった。

 そして、保元の乱を経て、七〇〇年続く武士の世が始まる──

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「光る君の物語」異聞 琥珀 @amber_amber

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