第4話 「桐壺」「若紫」「葵」「須磨」

「は?」


 実資はあっけにとられた。


「もしかしたら、中国の小説で、このような終わり方をするものがあるのでしょうか?」


「いやいやいや……

 そのような終わり方、聞いたことがありません」


 唐代に書かれた伝奇小説『遊仙窟』、白居易の『長恨歌』を陳鴻が小説化した『長恨歌伝』など中国の小説は、実資もそれなりに読んだ覚えはある。

 だが、記憶を攫(さら)っても心当たりはなかった。


「書いた者にお聞きになるのが早いかと存じますが、紫式部はどうしたのです?」


 実資は少し伸び上がるようにして、あたりを見回した。


「それが、今日、必ず来ると申したのに、姿が見えないのです」


 御簾越しの声に、母に代わって恐懼するように、越後弁が深々と頭を下げた。


「女院様が急ぎ使いをお出しになったのですが、屋敷には誰もおらぬとのことで。

 娘の身でありながら、母がどこにいるのかまるで見当がつかず、申し訳ございません」


「なんと」


 実資は驚いた。


 強い絆で結ばれた后と女房といえば、中宮定子と清少納言が有名だが、彰子と紫式部の絆もまた深い。

 今日は、その彰子の念願が叶う祝いの日。

 万難を排して、祝いに駆けつけるはずなのに。


 御簾の向こうから、女院と倫子が代わる代わる越後弁を慰めるが、母が心配なのか顔色が悪い。

 他の女房達も心当たりがない様子で、不安げに眼を伏せている。


 どこかから帰る途中に、たまたま賊にでも襲われたのか。

 それならそれで、遺体なりなんなり見つかりそうなものだ。


「よろしければ、一度、屋敷を見てみましょうか。

 無人とのことですが、なにか手がかりが残っているやもしれません。

 こう見えて、検非違使別当を務めたこともありますし」


 検非違使別当とは、治安維持を担う組織の長のことである。

 二年ばかりのことだが、在任中に道長の甥・伊周と隆家が花山院に矢を射掛けた上、童子二名を殺害した長徳の変が起き、関係先の捜索や関与者の確保を指揮したこともある。


「忙しいそなたに、まさかそこまでは。

 じきに、事情は知れるでしょう。

 それにしても『源氏物語』の結末が不思議です。

 そなたは、当代随一の知恵者。

 もしわかったら、ぜひ知らせてください」


「は」


 実資は平伏し、訊ねられるままに最近の兼頼と千古の様子などを伝えて退出した。


 頼通のところまで、赤染衛門が先導してくれる。


 赤染衛門も、昔はよく顔をあわせた女房。

 夫の大江匡衡とも付き合いは深く、十数年前、匡衡が亡くなった時は妻子の今後を託されたほどだ。

 美貌と良妻賢母ぶりが知られた女房も寄る年波には勝てず、髪は雪のように白くなっているが、丁寧に梳(くしけず)られた髪には艶もあり、みすぼらしい感じはない。


「紫式部の件、どういうことなのだろう」


「さあ……わかりかねます。

 先月末、歌会で顔をあわせた時は、『源氏物語』の対となる書き物をしているようなことを申しておりました。

 詳しいことははぐらかされてしまいましたが、女君を主人公にした物語なのでしょうか」


 憂わしげに顔を曇らせながら、赤染衛門は答えた。

 あれほど歴史を書きたいと言っていたのに、今更物語でもあるまいと実資は内心首を傾げる。


「ふむ。そういえば『源氏物語』、終盤はどういう話になっているのだ?

 正直、薫と匂宮がごちゃごちゃし始めたあたりから、真面目に読んでいないのだ」


 光源氏が主人公の前半は、巧みに漢籍の知識を織り込んだ物語が珍しくもあったし、派手な展開が多かったために実資も夢中になったが、光源氏没後、その子や孫の世代の話は、正直あまり興味が持てない。


「妾として薫に囲われた浮舟を匂宮が強引に盗み、浮舟は匂宮に惹かれていくのですけれど。

 薫に気づかれてしまった浮舟は、思い悩んだあげく、宇治川で入水しようとして、横川の僧都に救われまして。

 新たに、浮舟を妻に迎えたいと申し出る者も現れるのですが、結局出家し、ようやく心が安らいだところに、浮舟が生きていると知った薫がやってくる。

 ……というのが一つ前までの話でございます」


「そうか。せめて、匂宮がやって来ればよいのにな」


 ぐじぐじした薫の性格がどうも好きになれない実資は、思わず言ってしまった。

 赤染衛門は小さく声を立てて笑う。


「匂宮に口説かれたら、浮舟もつい絆(ほだ)されたかもしれませんが。

 先に、姉の中君(なかのきみ)が匂宮の妻となって、男の子も産んでおりますからね。

 そこに後から割って入るのは、互いに苦しくなるばかりでございましょう」


「あああ、そうだった。それはまずい。

 では、薫を拒んで、妙な結びで終わりということか。

 そなたはその終わり方、どう受け止めたのだ?」


 赤染衛門は少し考え込んだ。


「夢から急に引き戻されたような、せっかく物語の世界に浸っていたのに、トンと胸を突かれて弾き飛ばされたような、と申しますか。

 無粋にもほどがある終わり方ですが、紫式部のこと、なにやら深い意図があるのかもしれず、あれを読んでからこの方、ずっと奇妙な心地のままです。

 一体、どういうつもりでああ書いたのでしょう。

 最後に薫に和歌でも詠ませておけば、綺麗に収まっただろうにと思うのですが」


「なるほど」


 さすが赤染衛門。納得しかない。

 頼通のところに戻った実資は、近く行われる別の行事の人事などの話をしばらくし、兼頼は先に帰っていたので、深夜、一人で小野宮に戻った。


 自然、思考は紫式部の行方と、『源氏物語』の結末に向かう。


 「と、本には書いてある」で物語が終わるのならば、赤染衛門が言っていたように、読者の思いは物語の外、つまり現実の世界に移るはず。

 そう書くことで、女はなにをしようとしたのか。

 女が言っていた、この国の『史記』を書きたいという話と関係があるのだろうか──





 うとうとしているうちに、牛車は小さな屋敷に着いた。

 ここがあの女の屋敷か。


 霧は出ているが、月明かりはある。

 門は開けっぱなしだ。


 実資は、みずから松明を持ち、一人、屋敷に入った。


 蔀戸を外したままの母屋(もや)に上がり込んでみるが、片隅に几帳と重ねた円座があるだけで、ろくに家財もない。

 塗籠(ぬりごめ)も覗いてみるが、がらんとした棚に小さな厨子(ずし)が置いてあるだけだ。


 ぐるりと見回すと、あとは小さな東の対と台盤所くらいしかない。

 ならば東の対だ。


 方丈ほどの東の対に入ると、奥に文机が据えられ、その左右に棚が並び、蓋を取ったままの文箱が並んでいた。

 手近にあるものをいくつか引き出してみれば、巻物に用いる紫檀の軸や金襴が収められている。


 そうか。


 「と、本には書いてある」で『源氏物語』が終わるのならば、本ではなく巻物に書かれた『源氏物語』と対になる書き物が始まるのだ。


 すなわち、物語の外について書かれたもの。

 『源氏物語』を持て囃した我々の歴史──あの女の『史記』。


 実資は文箱を漁った。

 だが、文箱は、どれを覗いても『源氏物語』の書き損じの草稿が積み重ねられているばかりだ。


 「桐壺」「若紫」「葵」「須磨」。


 線を引いて消したり、後から訂正を書き込んだりした未完成の草稿の一節をちらりと見るだけで、名場面の数々が蘇る。

 おかしい。

 巻物に仕立てる用意はしてあるのに、なぜ肝心の稿がないのだ。


 焦る実資の背後で、不意に、タタタッと鋭い音がした。

 振り返れば、火矢が渡殿に何本も射込まれ、古びた屋敷がめらめらと燃え始めている。

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