第3話 「と、本に書いてある」
それから、女は実資の本邸・小野宮第に週に二、三度、やって来るようになった。
父も夫も兄弟も亡くし、娘も既に独立した独り身、牛車はとうに手放したと言う。
迎えを出すか、それとも泊まり込みで作業できるよう局を与えようかと聞いたが、どちらも断って、小者一人を連れて、四半刻ほどの距離を毎回歩いてくる。
女の筆はさすがに速く、正確で、八月の上旬には当今の即位のあたりまで進んだ。
「父上」
ある日、出先から戻った実資のところに、千古が足早にやって来た。
「ここ一週間ほど、紫式部が来ないのです。
今日、乙彦に様子を見に行かせたら、屋敷には誰もいなくて、隣近所に訊ねてもよくわからなかったと言って」
女が通ってくるようになって、時間が合えば軽く昔話をすることもあったが、ここのところ忙しく、顔をあわせることもなかった。
「は? 石山寺にでも籠もっているのじゃないか?」
もともと『源氏物語』を着想したのが石山寺だったとかで、宮仕えをしていた頃も、折々、女が石山寺に参詣していたのを思い出して言ってみたが、千古は違うと首を横に振った。
「どこかに行くなら、一言、そう言ったと思うんです。
帰る時には次はいついつ来ると言いおいて、その通りに毎回きちんきちんと来ていたのに、どうしたのでしょう」
確かに、女は律儀な、物堅い性格だ。
急な事情で来れなくなったなら、知らせくらいよこすだろう。
実資も心配になってきた。
「そうだな……
家にいないのであれば、どこかよそで寝込みでもしたのか。
いや、それなら誰ぞ留守を守っているはずか」
財のある家ではないが、それでも貴族。
供の者以外にも、下人は何人か雇っているはずだ。
「そうでしょう? おかしいの。
次は『鴻門の会』の話をする約束だったし、父上の日記の写しも終わっていないのに」
結婚はしたが、まだあどけなさが残る千古は、不安げに訴える。
「ん? 和歌の指導を頼んだのに、なぜ『史記』の話なのだ」
実資が首を傾げると、千古は視線を泳がせた。
「あー……ほら、和歌を読むにしても、漢籍の素養があった方がいいでしょう?
とにかく! そんな約束もしているのに、現れない紫式部が心配なのです」
うむうと実資は唸る。
「ああそうだ、明後日、女院様の主催で法成寺東北院の落慶供養がある。
女院様、鷹司殿と紫式部と縁の深い方々が揃われるし、娘の越後弁や仲の良い女房たちも来るだろうから、そこで訊ねてみよう。
どういう事情にしても、誰かが知っているだろう」
鷹司殿とは女院彰子の母であり、道長の北の方であった源倫子。
紫式部は、結婚前、倫子に女房として仕えていたことがある。
言ってから、実資は思い当たった。
「そうか。今頃、女院様のところは準備でてんてこ舞いだろう。
うっかり顔を出して、そのまま手伝うことになったのではないか?」
周囲の負担を慮(おもんばか)り、派手な宴などは避けることが多かった女院には珍しい、大々的な供養だ。
隠居したとはいえ、女房務めが長く、有能な女の手を借りたいと女院が思われてもおかしくない。
それなら、すぐに実資と顔を合わせるのだし、取り紛れて連絡しそびれたこともありえる。
供養が終わるまで用がないのだから、下人は宿下がりさせたのかもしれない。
千古は、ぱっと笑顔になった。
「さすが父上、きっとそうですわ。
明後日、お会いになったら、疲れているでしょうし、こちらはゆっくりでいいからと伝えてくださいませ」
八月二十一日、法成寺東北院の供養法会が行われた。
道長が建立した大寺院・法成寺の東北に、女院彰子が新たに三昧堂を建立したことを記念するものである。
後に、彰子は東北院に住むことになる。
事前に、御斎会──正月に内裏の大極殿で行われる、高僧を集めて「金光明最勝王経」の講義をさせ、国家の安泰と五穀豊作を願う法会──に準じて行うとの宣旨があり、公卿全員と主だった殿上人が揃って出席する盛大なものとなった。
中将である資平は、明け方、渡御する女院に騎馬で扈従(こしょう)するため、暗いうちに出ていった。
実資は、娘婿の兼頼と同乗して昼過ぎに法成寺に着く。
膳が出て、楽が奏でられ、念仏が唱えられ、舞も奉納される、盛りだくさんの行事だ。
一通り終わり、関白頼通らと今日参加した僧たちへの褒美をどうするか話し合っていると、女房がやってきて、女院様にご挨拶なさいますか?と耳打ちしてきた。
もちろんと頷き、頼通に断って中座する。
法成寺は、晩年の道長が住んだ壮大な伽藍だ。
回廊を伝って延々と案内された後、女房たちが十数人も居並ぶ御簾の前に実資は平伏した。
越後弁、赤染衛門、出家して誠心院を与えられた和泉式部、伊勢大輔と、彰子が中宮であった頃に仕えていた懐かしい顔が見えるが、紫式部の姿はない。
「右大臣、よく来てくれました。
息災なようでなによりです」
穏やかな声がかかる。
御簾の中には二人、人影がおぼろに見える。
女院彰子と、その母倫子だ。
「女院様、また母君様におかれましては、ご壮健のご様子、恐悦至極に存じます。
また、今日の会の賑々しく、かつ厳かな様子、実資、大変感服いたしました」
ふふふ、と笑う気配があった。
「多少、手違いはありましたが。
あれはそなたの日記に書かれるであろうと、皆で申しておりました」
「いや、まさかそのような」
実資は大汗をかいた。
だいたいのところは恒例通りに行われたが、讃衆(さんしゅ)が進む折り、饒鉢(にょうはち)の用意が足りず、進行がしばらく止まってしまった。
これはいかがなものかと首を捻ったのだ。
「少し前、『源氏物語』の最後の帖を紫式部が持ってきました。
以前、兼頼が、そなたの娘も『源氏物語』を好んでいると申していたのを思い出し、今日の記念に最初の写しを差し上げようと思って、お呼びしたのです」
越後弁が、文箱をすっと差し出してきた。
白絹に包んだ平たいものが入っている。
実資は恭しく推しいただいた。
「拙女へのお心遣い、まことにありがたき幸せに存じます」
実資の眼が潤んだ。
実資は、養子資平ではなく、千古に財産を相続させることにしている。
そして千古の夫・兼頼は、彰子の異母弟である頼宗の子だ。
要は道長の一族、御堂流に実資が持つ小野宮流の財産を渡すから、先々、千古と、いつか生まれるであろうその子ども達が幸せに暮らせるよう、取り計らってほしいという願いを込めた結婚だ。
その実資の思いを彰子は理解し、みずから千古のことを気にかけてくれる。
「見たことのない不思議な終わり方ですから、気に入るかどうかわかりませんけれど。
浮舟に拒まれた薫が思い巡らしているところで、『と、本に書いてある』と物語を断ち切るように終わるのです」
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