第2話 坂東の争い、伊勢の争い

「なんと」


 実資は驚いた。

 あれだけの傑作をものし、世の喝采を浴びておいて、しょせんは余技に過ぎないような口ぶり。

 尋常のことではない。


「それで、続きをなかなか書かなくなったのか」


 『源氏物語』は光源氏が亡くなるところまでは一気に書かれたが、中宮彰子に皇子が相次いで生まれ、第一の読者であった一条天皇が崩御された後は、長らく中断したままになっていた。

 もともと、彰子のもとに一条天皇を引き寄せるため、道長が女に命じて、一条天皇が好みそうな物語を書かせたのだと聞いたこともある。

 一条天皇が亡くなったから、忙しい女房勤めの合間を縫って書く理由がなくなってしまったのか。


「はい。本当は光源氏が亡くなったところで終わりにしたかったのですが、続きを楽しみにしてくださる方もいらっしゃるので」


 宮中から退いた後、女はぽつりぽつりと、光源氏の子や孫の話を断続的に続きを書いている。

 今は、光源氏の正妻・女三の宮の子である薫と、薫とともに育った匂宮が、宇治八の宮の姫君達を巡って鞘当を繰り広げる話を書き継いでいて、実資も一応眼は通している。

 最後はどうするつもりなのだと訊ねると、そろそろ区切りをつけるつもりだと、女は他人事のようにそっけなく答えた。


 実資の日記をなにがなんでも読もうとする勢いと、落差が大きすぎる。


「では、そなたがまことに書きたいものとはなんなのだ?」


「この国の歴史にございます」


 女は即答した。


「赤染衛門が道長公の栄華を称える物語を書こうと、資料を集めていると聞いたが、それのことか?」


 赤染衛門とは、彰子の母・源倫子に仕えた女房で、彰子の元にも出仕していたことがある。

 女にとっては同僚で、つきあいは長い。


「いいえ。わたくしが書きたいのは、この国の『史記』にございます」


 実資はあっけにとられた。


 『史記』。

 前漢、司馬遷が編纂した中国の正史の代表格である。

 『源氏物語』でも、要所要所で引き合いに出されている大古典だが──


「そなた、『源氏物語』で物語こそ人の有り様を伝えるものだ、日本紀などほんの一面にすぎないと書いておらなんだか?」


 光源氏が亡き恋人の娘・玉鬘を口説く「蛍」の一場面だ。


「はい。その人その人の心の動きを伝えるには物語が一番にございます。

 ですが、世の移り変わりを遺し、後の世の礎(いしずえ)となるのは歴史。

 正しき政(まつりごと)は、正しき歴史なしには存立しえません」


 澄み切った眼で、女はきっぱりと言い切った。


「では、そなたの本当の望みは、漢文でこの国の歴史を書く、ということなのか」


 念を押すと、女は頷いた。


 正史を書く、ということは大事業である。

 資料を集めて突き合わせ、謬説(びゅうせつ)を除き、あくまで客観的に書かねばならない。

 作品の中で辻褄があっていればよい物語とは桁違いの難しさだ。

 司馬遷も、『史記』執筆には十年以上かかっている。


 実資は内心、引いた。


 この女、もともと度外れて豪胆なところがある。

 『源氏物語』の序盤、幼くして母を失った光源氏は、自らを養育してくれた、父桐壺帝の中宮・藤壺の宮と密通し、子を産ませてしまう。

 斎宮と密通する『伊勢物語』など禁断の恋を描いた物語は以前からあるが、女の場合、中宮彰子が、皇后定子の遺児である敦康親王を藤壺で育てているに時に書いたのだ。

 『源氏物語』は、一応村上天皇以前の時代に設定されているし、当時敦康親王は元服前の子どもではあったが、初めて読んだ時、いったいどういうつもりでこんな話を書いたのかと実資は魂消たものだ。


 そんな物語を書いた上に、もともと男のものとされる漢文で、この国の歴史を書きたいとは──


「この国で、勅撰国史を編むことがなくなって、早百五十年近く。

 朱雀天皇の御代に、新たな国史を編もうとされたことはございましたが、それも沙汰止みとなり、一条天皇が再開されかけていたのに、崩御のどさくさに紛れて中断されたままとなっております。

 もはや国史を編もうという声も聞こえませんが、最近、一つの時代が、別の時代に時代が移りゆく刻(とき)が正に今なのではないかと思うこともございまして」


 ちょうど今が分水嶺なのです、と女は呟いた。


「どういうところで、そのように感じるのだ?」


「色々とございますが、まずは坂東の争い、伊勢の争いに」


 この頃、坂東では平忠常の乱が起き、伊勢では平維衡の子・正輔と平致頼の子・致経が、親の代から続く抗争を延々繰り広げており、朝廷が命じても戦いはなかなか止まなかった。

 ちなみに、平維衡から数えて六代目に当たる平清盛は、武士として初めて太政大臣まで登り詰めることになる。


 実資は、そんなことかと失笑した。

 土着した武家が、他の武家や寺社と縄張り争いに走ることはままあることである。


「あれらの件については、主上(おかみ)も、関白頼通公や我らも憂いておるが。

 しかし、承平天慶の乱もあったではないか。

 今の争いは、あの時には到底及ばぬものと見るが」


 承平天慶の乱とは、今から百年ほど前に起きた、平将門が坂東で、藤原純友が瀬戸内海で起こした大乱である。

 将門は「新皇」と称して即位までし、朝敵として追討された。


 女は薄く笑った。


「さようでございますか。

 右大臣様がそのようにおっしゃるということは、いついつまでも今の世は続くと安堵していてよいのですね。

 わたくしは所詮は女。

 ものを知りませんので、今の世のあり様は危ういと観て、わたくし達がなにを考え、どう生きていたのかなんとしても遺さねばと一人勝手に思い詰めておりました」


 実資は黙り込んだ。


 坂東と伊勢の件とは別に、朝廷が奉じる「律令国家」という建前は蚕食され、行き詰まりつつある。

 本来、国土はすべて天皇のものであるはずなのに、貴族や寺社の荘園が増えすぎ、国司は税の上前を当たり前のようにはね、天皇の経済的基盤はゆらぎ、民の窮乏は目に余るようになっている。

 内裏が焼亡しても、天皇が自力で建て直すのは難しいほどだ。

 実資自身、関白頼通と図って、状況を改善しようとはしているのだが、みずからの利権を削るような法を発布し、それを実行させるなど無理筋としか言いようがない。

 安堵など、していい時代ではないのだ。

 藤原氏が築いた摂関政治という政のあり方が、どういうかたちで崩壊するかはまだ見えないが、足元が大いにぐらついているのは間違いない。


 女は、薄い笑みを消して、眼を伏せている。

 実資がなにを思い巡らしているのか、女にはわかっているのだ。

 「色々ございますが」とぼかして、乱のことだけ口にしたのは、荘園のことを言えばすなわち朝廷批判、貴族社会批判となるからにほかならない。


 実資は、深々とため息をついた。

 なにかに負けてしまった気がする。


「写しの仕事は、そなたに与えよう。

 だが、条件がある。

 そなたの記録も、すべてこちらに見せてほしい。

 内容は、お互い他言無用としよう」


 女は頷いた。


「それから、ついでと言ってはなんだが、我が娘・千古(ちふる)の和歌を見てやってほしい。

 あれは『源氏物語』をよく紐解いておるから、そなたが教えるならば素直に励むだろう」


 実資は五十歳を越えて得た一人娘・千古を溺愛している。

 昨年、道長の次男・頼宗の長男である藤原兼頼を婿にとったところだ。


「承りました。

 ……ところで、千古様は『源氏物語』のどのあたりを好いてくださっているのでしょう」


「惟光だ。光る君にまめまめしく仕えているのが良いと言うのだが」


 実資は、首を傾げながら言った。

 雅やかな貴公子も、臈(ろう)長けた女君もたくさん出てくる物語なのに、なぜ序盤でちょこちょこ出るだけの光源氏の従者が良いのか、老いた父にはさっぱりわからない。


「さようでございますか。

 ありがたいことにございます」


 なぜか女は察したような顔になると、微笑んだ。

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