「光る君の物語」異聞

琥珀

第1話 政 (まつりごと)とは、すなわち

 長元三年(一〇三〇年)の春、七四歳となった右大臣・藤原(ふじわらの)実資(さねすけ)は、養子・資平(すけひら)と共に長年の望みであった「部類記」作成に取り掛かることにした。


 この時代、政 (まつりごと)とは、すなわち祭事 (まつりごと)。

 朝廷の年中行事などをいかに円滑に営むかで、その人その人の手腕が測られる。


 実資の祖父・関白実頼は、娘述子、慶子を入内させた。

 だが二人とも皇子を産む前に亡くなってしまい、藤原氏の長である「氏の長者」の地位は、娘が冷泉天皇・円融天皇を産んだ実頼の弟の師輔に移った。

 以降、「氏の長者」は師輔の息子達、そして孫が継いでいる。

 長年権勢を振るった藤原道長は、師輔の三男である兼家の三男にあたる。

 道長は一昨年亡くなり、今は道長の長男・頼通が関白だ。

 つまり、本来、実資は藤原家の嫡流であったのに、叔母が皇子を産まなかったために外れてしまったのだ。


 だが、実資は「賢人右府」と呼ばれ、天皇や皇族方にも、関白頼通以下公卿達にも頼られている。

 それは、父祖から受け継いだ日記によって、どのように儀式を取り仕切ればよいのか、膨大な情報を握っているからにほかならない。

 実資自身、若き頃より日記をつけ、政務や儀式、貴族の社交や噂話、天変地異や怪異等々、詳細に記録し続けている。


 その膨大な日記を整理し、政に関する部、節会(せちえ)に関する部など話題ごとに抜き出してまとめ、以て子孫隆盛の礎とする──これが、実資最大の野望だったのである。


 しかし、みずから日記を読み返すところから始めてみると、困ったことが発覚した。

 特に中宮が主催する行事や祭祀の記述に、欠落があったのだ。

 三十歳になる前、実資は中宮大夫として、円融天皇の中宮・藤原遵子に仕えていた。

 だがそれは、ほんの2年ばかりのこと。

 もう四十年も前の話であるし、記憶を辿ろうにもなかなか覚束ない。


 ここは、誰か詳しい者を招いて、詳細を確認したい──となった時に思い出したのが、一条天皇の中宮であり、今は女院となった道長の長女・彰子に長年仕えた、越前守藤原為時の娘、「紫式部」という女房である。

 紫式部は、同じ藤原氏とはいえ実資からは一段も二段も下がる家の出だが、『源氏物語』と呼ばれる物語をものし、「この作者は日本紀をよく理解している」と一条天皇に賞されて、一気に名を挙げた。


 物語といえば、もとは「竹取物語」「落窪物語」のように女子供向けの他愛ない虚構の話と見なされていた。

 だが、在原業平風の貴公子を主人公に据えた短編歌物語集「伊勢物語」、長編「うつほ物語」などが広く読まれるようになったところに、高い教養に裏打ちされた大長編『源氏物語』が現れ、和歌を巧みに用いた心情描写で男女問わず宮中を席巻したのだ。


 紫式部は実務能力にも大変優れ、なにごとにつけても話が早いので、実資は彰子への取り次ぎはいつも彼女に頼んでいた。

 紫式部の父・為時は、息子に講じている漢文を、傍で聴いているだけの娘があっという間に覚えてしまうので、お前が男であればと嘆いたそうだが、彼女が男だったら能吏としてかなりの出世を遂げただろうと実資も思う。

 五年ほど前、同じく彰子に仕えていた一人娘の越後弁が、彰子の孫・親仁親王の乳母になったことを機に女房を辞め、以降、彰子やその母の倫子、その他名流貴族の妻などに折々進講する以外は、悠々自適の生活を送っているはずだ。


 実資は側仕えを呼ぶと、紫式部の在所を調べ、外出の予定がない日に招くよう命じた。





 半月ほどして、女はやってきた。

 もう五十代もなかばを過ぎたはずで、髪にはだいぶ白いものが混ざっているが、まだ豊かさは保っている。


「久しいの」


 平伏していた女は顔を上げた。


「ご無沙汰しております。

 この度は思いがけないお声がけを頂戴し、まことに光栄にございます」


 細面の、人目に立たない凡庸な容貌だが、切れ長の眼が炯々と光る。

 記録を整理し、後代に伝える重要さを理解しているのだ。


 さっそく、実資は詳細が欠落している行事について訊ねた。

 手控えを取り出し、女は要領よく答える。

 筆を走らせながらそれはなにかと問えば、当時から行事の詳細を書き残していたという。


 かつて左大臣道長に、観察力の鋭さを見込まれて、中宮彰子の最初の出産の記録をとるよう命じられた女である。

 その手控えをぜひ見たいと言えば、女は自分ひとりの心覚えに書いたもので、右大臣様にお目にかけるようなものではありませんとやんわりと拒んだ。


 実資は首を傾げた。


 この女、気に入らない話は、相手が誰であってもきっぱりした断り方をする。

 『源氏物語』は美しい光る君があまたの女君を口説き、情を交わしていく物語。

 てっきり作者もよほど色を好むのだろうと、出仕したての頃は、物珍しさもあって声をかける者はたくさんいた。

 が、誰も彼も、ピシャリとやられて二の句もつげないままになってしまった。

 そのうち、女は中宮彰子の出産記録・通称「紫式部日記」でいかにも左大臣道長の手が着いている風に匂わせ、戯れかかる者もいなくなったのだが、その実、道長でさえどうにもならなかったのだと実資は道長本人から聞いた覚えがある。


 膝行して、女は実資に寄ってきた。


「右大臣様。

 御日記を編纂なさるのならば、まず完全な写しをお作りになられるでしょう。

 その写しの仕事、わたくしにお任せいただけませんでしょうか」


 実資の日記はすべて漢文で書かれているが、この女は自在に漢文を読み書きできる。

 昔、なにかの折りに、父・為時が長く散位であった頃、父娘で筆耕に励んでいたと聞いた覚えもあった。

 経典や漢籍の写しを請け負っていたというだけあって、整った、読みやすい字を書く。

 適任といえば適任なのだが──


「いやいやいや、いくらそなたでもこれを預けるわけにはゆかぬ」


「この世に一つしかない貴重な御日記、お借りするつもりなどございません。

 通うてまいります故、文机を一つ、必要な料紙をご用意いただけましたら」


 女の眼は妖しく輝いている。

 実資はたじたじとなった。


「いや、後学のため、資平に写させる心づもりなのだ。

 そのようにあれにも言うておる」


 なるほど、と女は頷いた。


「さすがのご叡慮でございますが、お忙しい権中納言様が全文をそのまま書き写すわけにも参りますまい。

 わたくしならば、すべての記事の忠実な写しをお作りできます。

 御日記はそのまま保存し、写しを切り貼りして編纂されるのがよろしいのではございませんか?」


 実資は迷った。

 恥じるようなことは書いていないつもりだし、女の口が堅いことはよく知っているが、身内の者以外にはあまり見せたくはない。


 ここで女は、羞じらうような笑みをちらりと見せた。


「わたくし、結局のところ、ただただ書物を読みたい女なのでございます。

 右大臣様は当代随一の教養人にあらせられ、長らく内裏の中枢で政(まつりごと)を動かされた方。

 その尊き御日記を拝見できるものなら、生まれてきた甲斐があったというものです。

 ぜひ、わたくしにお任せください」


 あまりに熱のこもった口説きように、実資は困惑した。


「そなた、物語を書くために生まれたような者だと思うておったが、違ったか」


 ふふ、と女は含み笑いをした。


「あれは、読み応えのある物語がございませんでしたから、書いただけのこと。

 本当に書きたいものは、また違うのです」

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