最後の公衆電話

山白タクト

最後の公衆電話

 薄い氷の上を歩く様に、そっと勝手口を開け、サンダルをつっかけ外に出る。蝶番が発する甲高い金属音に少し冷やりとするが、金曜ロードショーをせんべい片手に観ていたお母さんは気付かないでいてくれた。

吐いた息が白く染まり夜の闇へと溶けてゆく。ポケットのなかの冷気を纏った十円玉数枚を握りしめ、急いた心がそのまま身体を突き動かして、つい小走りになる。手のひらの熱が十円玉に伝わり、私の体温を奪ってゆく。


 切れかけの白熱灯に照らされた電話ボックス。透明な扉に反射した私の顔は、寒さと緊張からかどこか生気を欠いた様に映る。

ほこりが薄く積もった緑の電話機の上に、十円玉を重ねて置く。

過去に幾重も繰られ、ページの端が丸まった、いつの時代の物か分からない黄色の分厚い本。「タウンページ」と大きく表記された表紙は日中の太陽の光を受け続けたせいか、すっかり色褪せている。

高鳴る鼓動を静めようとして、一つ息を吐く。外気がある程度遮断された室内で、淡く色付けられた白い吐息が行き場無く霧散した。


 受話器を手に取り、十円玉を入れる。寒さとそれ以外の理由が私の手を震わせ、投入口と十円玉が小刻みに触れ合い、カチカチと小さな金属音を立てる。

幾度も頭のなかで反芻し続けた電話番号を今、実感が指先を伝ってボタンを押していく。

数秒間のコールのあと、彼の声が聞こえた。教室の喧騒のなかで聞く声とは違う、どこか緩んだ声色で、これが彼が自宅にいるからなのか、電話回線を通じて私の耳に届くからなのかは分からない。彼の笑いが聞こえるたびに、私が話題の狭間の僅かな沈黙で唇を引き結ぶたびに、十円玉が電話機へと吸い込まれていく。白熱灯の光が、視界の端でちらちらと瞬く。


 すっかり軽くなったポケットと気持ちを胸に外に出る。どこかよそよそしい表情を浮かべていた頭上に張り詰めた闇も、今は私を優しく包みこむ天鵞絨の様に思えた。

緊張を解いた心が私の口角を引き上げ、誰が見ているわけもないのについ口元を手で隠す。今、振り返って電話ボックスの扉に私の顔を映せば、気持ちの悪い笑みが見られる事だろう。でもきっと、その顔は生気に満ちている。

帰途に着く一歩一歩を踏み出すごとに、彼の言葉を頭の中で反芻する。課外活動で着ていったダッフルコートをかわいいと褒めてくれた。三日前の昼休み、映画の話題で話した名画座に一緒に行きたいねと言ってくれた。

明日、お母さんが私のスマホを買いに連れて行ってくれる。

これからは、ぼんやりと頼りない光の白熱灯じゃない、惜しみなく輝く太陽がきっと私の行く道を照らしてくれる。

幾度も私と世界を繋いでくれた、夜闇に浮かぶあの公衆電話ももう必要無くなるんだ。

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最後の公衆電話 山白タクト @takuto_yamashiro

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