恋を知らない私はあなたに

未来屋 環

ねぇ、あなたのことが

 ――恋というものを知らない私に、あなたを愛する資格はあるのだろうか。



 『恋を知らない私はあなたに』/未来屋みくりや たまき



 子どもたちがはしゃぐ声が聴こえる。池に浮かぶオオオニバスの葉に乗っているのだ。

 このもよおしは毎年大盛況で、抽選で選ばれた幸運な子どもだけがその並外なみはずれた浮力を体感することができる。


 視線の先では一人の男の子が自分の身体よりも大きな葉の中心に座り、周囲の大人たちに笑顔をいていた。

 その無邪気な仕種しぐさを見ても、一生子どもを持つことのない私の心中は静かなものだ。

 もう、心を揺らすことには疲れてしまった。



「――ねぇ、しずか。静が私のことを『好き』だという気持ちは、恋じゃないよ」


 恐らく人生で一番好きだったはずの彼女は、あの日体温の感じられない声でそう言った。


「私は静のことが好き。だけど、それは恋じゃなくて友情なの。静が私のことを好きなのも同じ。だから、これからも普通の友達でいてよ」


 そう――私の真意は彼女に伝わっていなかった。


 いや、伝わってはいたけれど、こばまれたのかも知れない。

 いとしかったそのひとに私の『好き』が否定される――その記憶がその後20年近く影を落とすことを、当時の私は知らなかった。


 その感情の正体に気付いたのは、中学生の時のことだ。

 たまたま1年生の時に同じグループになった彼女は、暇さえあれば私と手をつないできた。

 今思えばたまたまボディタッチの多い子だったのだろう。

 しかし実のところ、彼女の手が触れる度に私の胸は感動に震えていた。


 そしてふたりで同じ高校を受験し無事合格すると、彼女も同じ気持ちだと信じて疑わなかった私は、その高揚感のまま想いを彼女に打ち明けた。


 次の瞬間、彼女は「えっ」と聞いたことのない色の声をらす。

 そして冷たい空気をまとったまま、私の『好き』は恋ではないのだと、そう断言した。


 その後春休み明けに迎えた高校の入学式で、先月まで私のあとをついて回っていたはずの彼女は二度と私に近付いてこなかった。

 そこでようやく、私は彼女との関係が終わったことに気付いた。



 それから私は人と距離を取るようになった。

 誰のことも好きになるまいと心に決め、好意が密やかに芽吹めぶこうとする度に、それを握りつぶす日々が続く。

 これだけ辛い思いをしても誰かに心惹こころひかれる自分はどうかしていると思った。

 前世の私がどんな罪を犯したかは知らないが、人を好きになることは私にとってのがれようのない罰だった。


 子どもの頃から未練がましく伸び続けていた身長がぴたりと止まった時、私は大人になっていた。

 身体ばかり成長しても心に未熟な熱を抱えたまま、自分ではどうにもならないくすぶりを持て余していたその時、私は或るアプリに出逢った。

 それは女性が女性のパートナーを探すためのもので、胸を張って誰かを好きになってもいい――そう励まされた気がした私は、色々な人にメッセージを送った。


 しかし、勇気をしぼって飛び込んだその世界には暗い思惑おもわくねばついた欲が絡み合っていて、時には酷い言葉を浴びせかけられたり、身体ばかり求められたり、やけに簡素なパッケージの化粧品を売り込まれたりした。



「静さんですか?」


 そんな私の闇に、すっと一筋の光が射した。


 りんと鳴る鈴のように澄み渡ったその声は、私の意識を現実世界へと引き戻す。

 顔を上げると、そこには小柄な女性が立っていた。

 清潔感のあるメイクが丁寧ていねいほどこされたその顔は、事前に送られてきた画像よりも幾分か大人びて見える。

 つばの深い麦わら帽子に真っ白なTシャツがよく映えて、灼熱の夏の陽射しをも味方に付けたように、その姿は輝いて見えた。


「――みくさん、ですか?」


 私がそう問い返すと、彼女はその整った顔を少女のようにほころばせて「はい」と答える。


 みくさんとの出逢いは、突然だった。

 度重たびかさなる不毛で薄汚れたやり取りに疲れてアプリを削除しようとしたその時、ぽんといきなりメッセージが届いたのだ。


『こんにちは。春のだまりのような、穏やかな日々を一緒に過ごせる方を探しています。もしよろしければ、一度お逢いできませんか』


 それまでに受け取ってきたメッセージとのギャップに、スワイプしていた私の指が止まる。

 どうせやめるなら、最後にこのひととやり取りしてみよう――そう思って返信したあと、送られてきた言葉は不思議なことに輝きを放っていた。


 それに引っ張られるように、私の奥底からするすると言葉が生まれ出てくる。

 みくさんは不思議なひとだった。

 プロフィールを見ると私よりふたつ歳下で、その顔立ちはどちらかといえば童顔だけれど、丁寧に送られてくるメッセージは大人の教養と気遣いに溢れていた。


「隣に座ってもいいですか?」


 慌ててうなずくと、みくさんはゆっくりと私の隣に腰掛ける。

 ふわりと淡いバラの香りが優しく広がった。

 緊張で言葉が出てこない私に、みくさんは自然体で話しかけてくる。


「こちらの植物公園、初めて来ました。静さん、誘ってくれてありがとうございます」

「……いえ、逆に遠くまでお越し頂いてすみません。お住まいは横浜でしたよね」

「全然問題ないですよ、職場が都心なので自然豊かな場所はほっとします。それに――」


 みくさんの言葉を無邪気な歓声がさえぎった。

 視線がそちらに向き、「あら楽しそう」と目尻が下がる。

 あぁ、子どもが好きなひとの眼差しだ――そう思いながら、私もみくさんにつられて池に視線を向けた。

 オオオニバスには小さな女の子がふたり並んで仲良く乗っている。

 私たちの視線に気付くことなく、ふたりはニコニコとお互いを見つめ合っていた。


「――いいなぁ」


 ぽつりとらしてからはっと我に返ると、隣でみくさんが小首をかしげている。

 そのまま無言を貫こうとしたが、微かに漂う甘い香りにほだされて私は言い訳をするように言葉を続けた。


「オオオニバスは両性花でしべもしべもあるんです。いざとなれば自家受粉して種をはぐくむことができる。自分だけで完結できるってうらやましいじゃないですか、効率的で」


 そこまで言い切ってちらりと隣を見ると、みくさんが「ほど」と頷く。


「確かにひとりで完結できれば楽ですね。叶わぬ想いに身を焦がし、涙に泣き濡れる夜もなくなることでしょう。でも――私はそれだと、つまらないな」


 息を吐くように彼女の口から自然に出てきた台詞せりふが、私にとっては意外だった。


「……つまらない、というのは?」

「たとえ想いが通じなくても、眠れない夜が訪れたとしても――その先に好きなひととふたりで過ごす未来があるのなら、私はそちらを選ぶと思います」


 思わず私は彼女を見つめ直す。

 こちらをまっすぐに射抜く彼女の双眸そうぼうは澄んだ色をしていた。

 その純粋な眼差しに気圧けおされて、私は口をつぐむ。

 きっとこれまで沢山たくさん傷付いてきたはずなのに――それでも、彼女は確かに未来を見つめていた。


「――みくさんは、強いですね」


 ぽつりと言葉がこぼれ落ちる。

 私は感情の発露はつろを止められなかった。


「昔好きだった子に、私の『好き』は恋ではないと言われてしまいました。あの日から私は何ひとつ変われずに、気付けばもう30もなかば。こんな私に――」


 ――あなたを愛する資格はあるのだろうか。


 途中で言葉を見失い、私は黙り込む。

 そんな私を救ったのも、やはりみくさんだった。


「それが恋かどうかは、静さんが決めることです」


 少しだけ水分を含んだ目で隣を見ると、みくさんは優しく微笑んでいる。


「他の誰にも静さんのことを決め付ける権利なんてない。静さんのことは、静さんが決めていいんです。何も怖がる必要なんてないんですよ」


 そして、「さっき言いそびれてしまったけれど」と続けた。


「――ここ、静さんが好きな場所なんですよね。だから、今日は来ることができて本当に嬉しいです。初めて私と逢う場所にとっておきを選んでくれて、ありがとうございます」


 その言葉を聞いた瞬間、私の心を穏やかな熱が染め上げる。


 ――もしかしたら、これが。


「みくさん。私はあなたに恋をしている――かも」


 なけなしの勇気を振り絞って伝えたその想いは、弾ける前にそっと彼女に抱き止められた。

 優しく、そして穏やかに。


「それは奇遇ですね――私もです」


 そう言って微笑む彼女の表情に言いしれない色気を感じて、私は思わず呼吸を忘れる。


 ――あぁ、これが恋だとすれば、私がこれまで抱いてきたものは確かに恋じゃなかったんだろう。


 池の方から響く女の子たちの笑い声を背景に、私たちはそっと手をつないだ。



(了)

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